私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の79歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭の中で、築後45年の古ぼけた戸建てに住み、
ささやかに過ごしている。
昨夜の6時半過ぎ、『お月さま・・綺麗だわ・・』
と家内は私に話しかけた。
私は我が家の主庭に隣接した隣家の屋根とマンションの大きな建物の間に、
満月のように輝いている月を眺め、
『確かに・・お月さま・・綺麗だよねぇ・・』
と私は誉(ほ)めながら応(おう)じた。
そして夜の10時過ぎに、私は独りで玄関の軒下に下り立ち、
澄み切った夜空にぽっかりと月が煌々と光をおびているのを眺めながら、
お月さま・・私に向って微笑んでいるみたい、と私は感じたりした・・。
こうした単細胞のような思いの心の奥底には、
私の定年退職をするまで、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしているが、
このような心情を察した天上の神々から、人生の後半の贈り物のひとつ、と私は解釈しているからである。
今朝、ぼんやりとNHKのニュースを視聴すると、
本日は『中秋の名月』の日です、と若き女性のキャスターが報じていたので、
『十五夜』を迎えたことを知り、微笑んだりした。
もとより、古来より9月7日頃から10月8日頃の間に於いて、
月が満月になる日を『十五夜』、或いは『中秋の名月』と称されている。
この後、ぼんやりと私の幼年期の頃、生家でささやかな月見の祝いをしていたことが、
思いだされた・・。
私が地元の小学校に入学したのは、1951年〈昭和26年〉の春である。
この当時の生家は、祖父、父が中心となって先祖代々から農業を引き継いで、
程ほど広い田畑、雑木林、竹林などを所有し、小作人だった方の手をお借りながらも田畑を耕していた。
私は長兄、次兄に続いて生を受けたが、祖父、父は、
2人男の子が続いたので、跡継ぎの男子は万全と思ったので、今度は女の子を期待していたらしく、
三男坊の私としては、幼児心に何となくいじけた可愛らしくない児であった、
と幼年期の頃に思い馳せながら、苦笑をしたりし思い重ねたりした・・。
この当時、この時節の満月を迎える中秋の名月の時は、
母屋の主庭に面した縁側で、月が観える位置に飾りを供(そな)えていた。
三方(さんぽう)と称された檜(ヒノキ)の白木で作った方形の折敷(おしき)に三方に穴が開いた台に、
半紙を敷いて、お米の粉で作った団子を15個ばかり供えられていた。
薄(すすき)が活(い)けられ、その脇には収穫された農作物の里芋(さといも)、
サツマイモ、蓮(の根)などが置かれていた。
私は祖父から不憫に感じられたせいか、ときには可愛いがわられて、
祖父の冷酒を呑む横に座って、満月を眺めたりしていた。
今、こうして想いだすのは、農家であったので、
春から育てられた農作物が、何とか夏の日照り、台風などの被害を受けることなく、
無事に秋の収穫を迎えることができ、感謝をささげる意味から、
このように形式がとられたと解釈している。
こうしたささやかな『月見』も数年後、父が病死し、やがて翌年に祖父にも死別され、
大黒柱を失った生家は衰退の一途となり、このような儀式には余裕がなく、消滅した。
定年後の年金生活をし、齢を重ねるたびに圧倒的に深く魅了されるのは、
なぜかしら『十六夜(いざよい)』である。
もとより『いざよい』は、「いざよう」の語源からであり、
ためらい、ためらう、ことなど意味しているが、
『十五夜』よりしばらく遅れて昇ることから『 いざよい』と称されてきた。
私は月を眺め、自分のその時の思いを託〈たく〉したりしているが、
この時節になると、『十三夜(じゅうさんや)』を誉めたり、
その後の中秋の名月と称されている満月の『十五夜(じゅうごや)』を見惚〈みと〉れたり、
やがて、 待ちわびた『十六夜(いざよい)』に圧倒的に魅了されたりしている。
古人の時代から、満月よりやや遅れてためらうように昇って来る、と伝承されてきているが、
私は、映画・文学青年の真似事を敗退して、何とか民間会社に中途入社して、
社会人になった時は25歳であり、
やがて結婚した時は31歳であった為か、人生の軌跡に遅れてきたので、
何かしら共感を深めている。
そして何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
50代の頃から、『十六夜(いざよい)』を眺めたりすると、
ためらうように月が昇る情景を観ると、
この人生のはかなさの中で、余情を感じたりし、圧倒的に魅了されている。