夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『総額1兆4千億、売ったら2千億…年金施設』、憤りを感じて・・。

2010-08-18 09:41:46 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んで、
トップニュース記事に苦笑しながら読んでいたのであるが、
読み終わった後は憤りを感じたりしたのである・・。

そして、やりきれない心となり、ため息を重ねたりした・・。


《 年金301施設 2221億円で売却
     
         厚生会館やサンピア 回収は2割止まり 》

と大きく見出しの記事であり、
この記事と同一なのが、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載されて折、
無断であるが、記事を転載させて頂く。

《・・
       総額1兆4千億、売ったら2千億…年金施設

公的年金の保険料など約1兆4000億円をつぎ込んで整備した全国301の福祉施設を国が売却したところ、
回収できた金額は2割に満たない2221億円にとどまったことが17日、明らかになった。

売却を進めてきた厚生労働省所管の独立行政法人「年金・健康保険福祉施設整理機構」(RFO)が発表した。
この結果、約1兆2000億円もの保険料が、年金給付以外の目的によって回収不能の損失となった。
保険料の無駄遣いに批判が強まりそうだ。

売却されたのは、大ホールや宿泊施設を備えた厚生年金会館、
体育館やプールがある健康福祉センター(サンピア)、
老人ホームなど。年金加入者の福祉向上を目的として、
高度経済成長期を中心に建設が進んだ。

だが、累積赤字を抱える施設が続出した上に、
民間施設との競合も問題化。保険料の無駄遣いだという批判が強まり、
2004年に当時の自公政権が売却の方針を決めていた。

RFOは今月初めまでに全301施設の売却を完了した。
売却総額の2221億円は、国が05年に施設をRFOに移管した時点の評価額を206億円上回った。

最高額で売却されたのは東京厚生年金会館(東京都新宿区)の120億円。
逆に最も売却額が低かったのは、鳥取県湯梨浜町の老人ホーム「鳥取ふじつ荘」(400万円)。
山形市の保養施設「ロッジZAOドッコ沼」など2000万円台の6施設が続いた。

地方にある小規模で老朽化した施設は売却額が低くなったほか、
「サンピアなど地方の大規模保養施設は売りにくく、大幅に損が出た。
それだけの保険料でやる施設だったか疑問がある」(RFOの水島藤一郎理事長)という。

売却先は、札幌市の北海道厚生年金会館(28億5230万円)など17施設が地方自治体だったほかは、
すべて不動産会社などの民間法人か個人だった。

このほか、厚生年金病院と社会保険病院計63施設もRFOに移されたが、
政府は既に売却された社会保険浜松病院(静岡県浜松市)以外は、
売却せず地域医療の拠点として存続させる方針を決めている。

(2010年8月18日03時05分 読売新聞)
・・》
注)解説の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100818-OYT1T00007.htm?from=top
☆【YOMIURI ONLINE】 総額1兆4千億、売ったら2千億…年金施設☆


私は昨夜、ネットでニュースを見ようと【YAHOO! JAPAN】を開き、
《 <RFO>厚生年金会館など301施設売却 計2221億円 》
と題された見出し記事に、どういう内容の記事かしらと思い、私は思わずクイックした。

そして毎日新聞が配信された記事であり、私なりに深く精読した。

無断ながら転載させて頂く。

《・・
     <RFO>厚生年金会館など301施設売却 計2221億円

公的年金などの保険料で建設した福祉施設などを整理、売却する独立行政法人「年金・健康保険福祉施設整理機構」(RFO)は17日、
国から譲渡された厚生年金会館など301施設すべての売却を完了したことを明らかにした。
売却総額は計約2221億円で、譲渡された時点の時価評価を約206億円上回った。
経費などを差し引いた約2023億円を国庫に納付する。

RFOの水島藤一郎理事長は施設の建設費や維持費の総額が1兆4000億円とも言われる点に触れ
「(売却額が)はなはだ不十分という指摘があることは理解している」
としながらも、
「国から引き受けた額を上回り、一定の役割を果たしえたのではないか」と語った。

最高売却額は、東京厚生年金スポーツセンター(売却先・東京都世田谷区)で、
約154億円だった。

8月17日19時51分配信 毎日新聞
・・》
注)解説の原文にあえて改行を多くした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100817-00000077-mai-soci
☆ 毎日新聞 <RFO>厚生年金会館など301施設売却 計2221億円 ☆


こうした記事を読んでいたので、今回の読売新聞を読みながら、
当時の旧・厚生省の高級官僚はもとより、政治家の旧・厚生族、そして自治体の誘致をされた首長・・、
蟻(あり)んこが砂糖に群がるような状景を感じた。

まぎれなく厚生年金を支払う勤労者の諸兄諸姉を愚弄することであり、
特に旧・厚生省の高級官僚は、不採算の実態も無視し、この後は天下りをして、
平然としている恥知らず人たちであり、
たとえ法治国家であれ、勤労者をもてあそび、極刑に値いする人と私は確信している。


このように感じた私は、
この後、読売新聞の二面にある【解説】を読んだりした。

社会保障部・石崎浩・記者の綴られた記事であり、
無断ながら転記させて頂く。

《・・
      保険料無駄遣い 浮き彫り ~年金施設~

年金福祉施設の売却で巨額の損失が出た問題は、
貴重な年金保健料が、
いかに無駄遣いされてきたかを改めて浮き彫りにした。

施設建設に投じられた保健料のうち、
戻ってきたのは、わずか約2割の2221億円。

かって保健料の無駄遣いの象徴として社会問題化し、
他の施設に先行2005年までに売却された年金保養施設「グリーンピア」(全国13か所)の損失額約1900億円も含め、
損失は巨額となる。

厚生労働省は「もともと福利厚生を目的とした施設だったので、
利用者に還元されている」
と強調する。

また、厚生年金と国民年金は計約127兆円の積立金を保有しており
今回の損失が直ちに給付カットなどにつながるわけではない。

だが、施設の運営委託先の公益法人が、
厚労省と旧社会保険庁OBの天下り先になっていた実態もある。
年金制度への国民の信頼を傷つけた厚労省の責任は重い。

年金のように特別会計で運営される制度は、
税金と比べると、国会や財務省のチェックが働きにくい。

年金施設の売却は今回で一段落したが、
それ以外の行政分野でも、無駄遣いはまだあるはずだ。
国民の財産が浪費されないように、厳重に監視していく必要がある。
・・》
注)解説の原文にあえて改行を多くした。


私の現役時代は民間会社の中小業のサラリーマンを35年ばかり勤め、
当然ながら厚生年金を支払い、家内も国民年金を支払ってきた。

こうした心情からすれば、改めて当時の旧・厚生省の高級官僚はもとより、
政治家の旧・厚生族、そして自治体の誘致をされた首長は罪が重い。

旧・厚生省、自治体の多くの諸兄諸姉は共済年金に安住し、
政治家の旧・厚生族は議員年金で過分な制度に甘え、
厚生年金と国民年金を打算のまま施行されたことに、恥知らずの人たちと確信を深めている。

まして、《施設の運営委託先の公益法人が、厚労省と旧社会保険庁OBの天下り先になっていた》
こうような国民を愚弄し、もてあそんだ人たち、
死ぬまぎわは、人一倍苦しまれ、そして死後は天国の世界に程遠い、
地獄の世界でさまよう人たちと私は思ったりしている。


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都心は今年一番の猛暑となり、私は思わず降参と呟(つぶや)き・・。

2010-08-17 20:15:20 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
一昨日の15日、昨日の16日、そして本日の17日、
35度前後の猛暑となり、残暑厳しい日を向えている。

私は暑さに苦手な身であるが、
日常の買物の担当の私は、午前中のひととき、最寄のスーパーに買物に行った後、
汗だくとなり、家内に購入した品を手渡した後、
洗面所で顔を洗った後、半袖のスポーツ・シャツと長ズボンのストレッチ・パンズ、
そして下着も脱いで、タオルで身体を拭いたりした。

この後、恥ずかしながら居間のエアコンの冷風の下で、
身を寄せながら、団扇(うちわ)を取り出して、冷房の中、扇(あお)いだした。

そして、涼しげになった身体に、
新たな下着、半袖のスポーツ・シャツと長ズボンのストレッチ・パンズを身につけた後、
冷やした煎茶を飲んだりしている。

そして30分後に、ふたたび近くのスーパーに特売品などを買い求めに、
出陣した。

帰宅後、同じようなふるまいを私はしたのであるが、
猛暑で熱中症を避けるため、やむえず散策は中止した。

家内と昼食の時、
『朝、起きた後、下着を換え・・スーパーに二度行ったから、
今日は四回目の着替えになり・・XXちゃんも、洗濯に大変だよなぁ・・』
と私は家内に云ったりした。


その後、午後の2時過ぎ、居間の外れに簡易ベットを敷いて、
エアコンの冷風の中、
私は横たわり本を読んだりした。

一時間半ばかり昼寝もしたりし、起きだしたのは夕方の4時半過ぎであったが、
庭のテラスに下り立つと、熱気が感じられ、蝉(セミ)は元気よく鳴いて折、
私は微苦笑したりしていた。

この後、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を開き、
やはりそうだったのか、と苦笑した。

《・・ 
    東京練馬区で38・2度、多治見38・1度

太平洋高気圧の影響で、日本列島は17日も朝から気温が上がり、
全国142の観測地点で最高気温35度以上の「猛暑日」となった。

午後4時現在の最高気温は、三重県桑名市と東京都練馬区の38・2度。
岐阜県多治見市でも38・1度となった。

気象庁は熱中症などへの注意を呼びかけている。
東京都千代田区は午後1時頃、この夏一番の37・2度を記録した。

(2010年8月17日16時40分 読売新聞)
・・》

私は都心の《・・東京都千代田区は午後1時頃、この夏一番の37・2度を記録した・・》
何よりも驚き、調布市のはずれの世田谷区に隣接した我が家周辺も、
今年一番の暑さだったのか、と思いながら、
天上の気候の神々に、降参しますから平年並みに、と私は願ったりしている。


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『自伝の収益金を寄付=ブレア氏、負傷兵支援施設に』、ニュースで私は学び・・。

2010-08-17 17:43:55 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先程、ネットでニュースを見ようと、時事通信社の基幹ネットの【時事ドットコム】を開き、
《 自伝の収益金を寄付=ブレア氏、負傷兵支援施設に-英 》
と見出しされた記事を見て、思わずクイックし、記事を深く精読した・・。

無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・ 
自伝の収益金を寄付=ブレア氏、負傷兵支援施設に-英

【ロンドン時事】9月に回顧録を出版する予定のブレア元英首相が、
出版に伴う全収益金を負傷兵の支援施設に寄付する計画であることが17日までに分かった。
英各メディアが報じた。

1997年から約10年間首相を務めたブレア氏は、
自身の政治生活を振り返る著書「ジャーニー(旅)」を出版する。
前払い金は460万ポンド(約6億1400万円)と伝えられるが、同氏スポークスマンによれば、
これらと印税すべてが英在郷軍人会に寄付され、
2012年開館予定の負傷兵対象のスポーツセンターの資金として使われるという。

(2010/08/17-14:15)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2010081700431
☆ 【時事ドットコム】 自伝の収益金を寄付=ブレア氏、負傷兵支援施設に-英 ☆


私は政治の世界にも疎(うと)く、
ブレア氏の約10年間、イギリスの首相の時代の功罪は無知である。

今回、氏の自伝がまもなく出版されると知り、
前払い金は460万ポンド(約6億1400万円)、
そして印税すべてが英在郷軍人会に寄付されるニュースに、
好感しているひとりである。

こうした寄付金に関しても、日本の政治家の諸兄諸姉に果たしてあったのかしら、
と齢ばかり重ねた私は微苦笑した。

この後、ぼんやりと感じたのは、
古来からのイギリスの良き伝統のひとつ、
「ノブレス・オブ・リージュ(高貴なものには義務を負う)」
という精神から、こうした寄付金制度が息づいているのかしら、
と無力な私は改めて学んだのである・・。


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『政府が追加景気対策検討、エコポイント延長も』、ニュースを知り賛意・・。

2010-08-17 06:35:18 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
朝の4時半過ぎに起床し、読売新聞が配達される前であったので、
やむえずネットの読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を開き、
ひとつのニュースに私は思わず賛意、と心の中で呟(つぶや)いた・・。
無断であるが、転載させて頂く。

《・・
      政府が追加景気対策検討、エコポイント延長も

政府は16日、2010年4~6月期の国内総生産(GDP)の伸びが鈍化したことを受け、
追加経済対策の検討に入った。
省エネ家電を対象にしたエコポイント制度の延長などの消費刺激策や円高対策、雇用促進策などが浮上している。

追加対策の財源は、2010年度予算に計上した「経済危機対応・地域活性化予備費」のうち約9000億円と、
2009年度一般会計決算の純剰余金のうち約8000億円の計1兆7000億円程度が想定されている。

具体的な対策としては、
12月末に期限を迎えるエコポイント制度のほか、
エコカー補助金の延長、新卒者の就職支援、中小企業の資金繰り支援などが検討されるとみられる。

菅首相は同日夜、首相官邸で記者団の質問に対し、
「為替の問題も含めて、注意深く見ておく必要がある」と述べ、
急速に進んだ円高への対応も含めて状況を見守る考えを示した。

さらに、荒井経済財政相と野田財務相、直嶋経済産業相に
「近々それぞれの立場で、今の日本経済の状態をしっかり見たうえで、いろいろ報告してほしい」
と指示したことを明らかにし、
「そういう中から、今後のことは考えていきたい」と述べ、追加策の検討を示唆した。

(2010年8月17日03時02分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/feature/20091120-054987/news/20100817-OYT1T00090.htm
☆【YOMIURI ONLINE】 政府が追加景気対策検討、エコポイント延長も☆


私は政治・経済にも疎(うと)く高齢者の無力な身であるが、
昨今の日本の難題が山積する中で、解決する最優先の課題として、
何よりも経済の活性化こそが、と固く信じているひとりである。

こうした心情の私は、
《政府が追加景気対策検討、エコポイント延長も》
ニュースを知り、大いに賛意します、と心の中で呟(つぶや)いたのである。


この根底のひとつとして、昨日、
《 4~6月期・日本の名目GDP、中国を下回る 》
とこのサイトからでも学んだからである。

《・・
     4~6月期・日本の名目GDP、中国を下回る

内閣府は16日、2010年4~6月期の国内総生産(GDP)統計で、
ドルに換算した日本の名目GDPは1兆2883億ドル(118兆5379億円)で、
中国の1兆3369億ドル(9兆1218億元)を下回ったと発表した。

1~6月期の累計では、日本は2兆5871億ドル(236兆2836億円)、
中国は2兆5325億ドル(17兆2840億元)で、わずかに日本が上回っている。

中国は高成長を維持しているため、日本は10年の名目GDPで中国に抜かれ、
米国に次ぐ世界2位の座を明け渡す可能性が強まった。

(2010年8月16日11時19分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

直近の4~6月期の四半期に於いて、日中の歴史上で名目GDPが逆転するのは、
日本は江戸時代、中国は清の時代、この時以来と思われる。
昨日、このようなことを思案し、たとえ予期されたことといえ憂いたひとりであったからでもある。



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東京の郊外も、残暑厳しく、私は戸惑い・・。

2010-08-16 17:16:39 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨日、本日も35度前後の猛暑となり、
暑さに苦手な私は、今年の残暑は平年より厳しく、
どうしてなの、と天上の気候の神々に問い続けたりしている。

何よりも暑さに苦手な私は、
午前中のひとときに買物の担当の私は、買物の後の散策も短かなコースとなり、
ここ一週間は2日に一回となっていいる。

買物は駅前の15分の道のりを敬遠し、最寄のスーパーの二軒で購入したり、
散策も近所の住宅街の道を歩いたり、川べりの遊歩道を歩き、
ときおり大きな樹の下にあるベンチに座り、休憩をしたりしている。

このような時、半袖のスポーツ・シャツと長ズボンのストレッチ・パンズ、
そして夏の帽子を深くかぶり、サングラスした容姿で、
扇子(せんす)を扇(あお)ぎながら、
大通りの歩道や遊歩道を歩いたりすることが多いのである・・。

帰宅後、洗面所で顔を洗った後、
居間のエアコンの冷風の下で、着替えて、冷茶を飲みながら、
団扇(うちわ)を取り出して、冷房の中、扇(あお)いだしている。


我が家は子供も恵まれず、たった家内と2人で、
古びた一軒屋に住んでいるが、毎年、梅雨の晴れ間から秋の彼岸の頃まで、
簾(すだれ)で夏の陽射しをさえぎったりしている。

簾を各部屋に掛け、家内の指導の下で、私は助手となっているが、
のろまな私は役立たずで、家内が殆どしているのが実態である。

洋間の場合は、雨戸、網戸、ガラス戸となっているが、
この季節はカーテンを外して簾とする。
そして和室も同様に、雨戸、網戸、障子であるが、簾をつけたりしている。

朝涼(あさすず)が残る朝の8時が過ぎる頃まで、
網戸と簾にして、庭越しの風を通したりしている。


このように簾で夏の陽射しをさえぎったしているが、
午後のひととき居間のはずれで簡易ベットに横たわりながら、
エアコンの冷風を受けながら、本を読んだりして、少し昼寝をすることが多い。

このように熱中症を避ける為にふしだらな日々を過ごしているが、
高齢者の年金生活の私は、救急車のお世話になりたくないし、
『少しダラけた生活をしているなぁ・・』
と私は苦笑しながら、家内に云ったりしている。


先ほど、2時間前に昼寝から目覚めた私は、
ぼんやりとネットでニュースを見ていたら、思わず微苦笑させられた。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100816-OYT1T00430.htm?from=main5
☆【YOMIURI ONLINE】 練馬もう37度、今夏最高レベルの暑さに ☆

都心の銀座で昼前に《・・うだるような暑さの中、日傘を差して歩く人たち・・》
このような状景を見たりすると、
熱中症にはお気つけて下さい、と心の中で呟(つぶや)いたりしてしまう。


http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100816-OYT1T00568.htm?from=main4
☆【YOMIURI ONLINE】ビアガーデンは「女子会」花盛り ☆

齢を重ね隠居生活のような65歳の私は、
《・・
20歳代から40歳代の女性が多い。
男性と同じくらいよく食べ、よく飲み、盛り上がる。
・・仕事のことも家のことも本音で話せてストレス発散できる・・》
このようなことを読みながら、いいよなぁ、と心の中で呟いたりした。

そして、つたない私でも現役時代のサラリーマンの30、40代の頃は、
気さくな先輩、同僚、そして後輩たちとビアガーデンでビールを呑んだりしたことが、
思いだされたりした。

この後、こっそりと美麗な若き女性、
《・・ビアガーデンで、オードブルやワインを楽しむ浴衣姿の女性たち・・》
写真に見惚(みと)れ、素敵な情景ね、と思ったりした。

私は都心に出かけ、人の多い場所は齢を重ねたびに苦手となり、
やむえずエアコンの冷風の中で、家内と夕食する時に、せめて缶ビールを呑みながら、
旅行のこぼれ話し、これからの国内旅行の予定を話し合うことにするか、
と思ったりしている。

尚、ビアガーデンでビールが美味しく呑めるのは、
日頃、夏の季節にそれぞれに奮闘して働いて下さる諸兄諸姉の成果に、
天上の神々が見守り、更に美味しく呑めるように、ささやかな贈り物と私は確信している。


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『キー入力「クセ」で本人確認、100%識別』、齢を重ねた私は微笑し・・。

2010-08-16 09:44:42 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んで、
2面の【総合】面のひとつニュース記事に思わず微苦笑されられた・・。

《 「替え玉」許さん
     キー入力「クセ」で本人確認 》

と大きく見出しの記事であり、
この記事と同一なのが、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載されて折、
無断であるが、記事を転載させて頂く。

《・・
       キー入力「クセ」で本人確認、100%識別

NTTコミュニケーションズは、
パソコンのキーボードで入力する際のクセや特徴を見抜いて、
個人を認証するソフトを開発した。

不正アクセスなどによる「なりすまし」を発見できる利点があり、
パソコンを使った遠隔教育などでの活用が見込まれている。
今年度中に国内初の商用化を目指している。


「キーストローク・ダイナミックス」と呼ばれる生体認証技術の一種で、
キーを押してから離すまでの時間や、
次のキーを押すまでのタイミングやリズムなどで個人差が大きいことを利用した。

事前に1000文字程度のキー入力で様々なパターンのクセを登録し、
その後入力される文章150文字程度ごとに、本人の打ち方との共通度を判定。

打ち方のデータは、ネットワークにつながった利用者のパソコンから、
同社の認証用サーバーに送られる仕組みだ。
実証実験によると、本人か別人かをほぼ100%見分けることが可能という。

パソコン利用中は継続して認証できるため、
IDやパスワードを不正使用した「なりすまし」や、
利用者のすり替わりも見破ることが容易という。

大学などで実施している遠隔教育で、
オンライン試験での不正防止やコピーした文章を張るだけの「コピー・アンド・ペースト」の防止につながるとみられる。
在宅勤務者の本人確認などへの導入も見込まれる。

特別な機器は使わずソフトをインストールするだけで利用できるため、
ICカードや指紋認証などに比べ低コストで済むという。

(2010年8月16日03時05分 読売新聞)
・・》
注)解説の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20100815-OYT1T00896.htm
☆【YOMIURI ONLINE】 キー入力「クセ」で本人確認、100%識別 ☆


私は小学校に1951(昭和26)年に入学して、
年賀状、暑中見舞いの葉書を書く時は、劣等生であったが、
定例型の文章を避けて、それなりに綴り投函してきた。

大学を中退し、映画・文学青年の真似事を4年ばかり過ごし、
挫折した後、民間会社に中途入社し、35年ばかり勤めて、定年退職となった。
この間、ビジネスの通達文は定例型で数多く発信していたが、
年賀状などは私なりの独創性ある文体で綴ってきた、

定年後、まもなくブロクの世界を知り、
パソコンが故障したり、或いは家内との共通趣味の国内旅行に行っていない限り、
毎日数通は投稿してきている。

こうした時、投稿文を綴るときは、テーマが直ぐに決まり、短時間で綴れることがあるが、
苦心惨憺として、何とか一通の投稿文になることもある。

パソコンに向かい、キー・ボードをさわり、文章を紡(つむ)ごうとするが、
つたない脳裏から文章が出てこなず、
やむえず庭のテラス、玄関の軒下で樹木を眺めたり、煙草を喫ったりしている。


こうしたことがあるので、
《・・キーを押してから離すまでの時間や、
次のキーを押すまでのタイミングやリズムなどで個人差が大きいこと・・》
こうしたことは、私などは典型的にあり、
研究され開発された方たち、私は微苦笑させられたのである。


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『どれだけ時が流れようとも、この日を、忘れてはならない』、特集記事に接して・・。

2010-08-15 11:45:33 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
バソコンのトップページは【YAHOO! JAPAN】と設定している。

先ほど、中央の下段に、

《 どれだけ時が流れようとも
      この日を、忘れてはならない 》

と大きく掲げられ、私は思わず見張った。

この下段には、
《 第二次世界大戦の終結から65年。
  戦争の悲惨さを後世に語り継ぎ、
  生命と平和の尊さを改めて胸に刻みつけたい。 》
と明記されて、紹介記事が掲載されていた。

☆『諸説ある戦争の原因を教えて』
☆『過激な描写で訴える反戦映画』
☆『NHKで放送された4番組を配信』
☆『名作「火垂るの墓」の原作を』
☆『“特攻隊”に関する記録』
☆『水木しげるが描いた昭和史』
☆『終戦記念日、各地のニュース』
☆『漫画で読む戦争ドキュメント』

確かこのような紹介課題であり、
私はこの中の『NHKで放送された4番組を配信』を選定した。

http://gyao.yahoo.co.jp/p/00004/v09146/
☆無料動画 GyaO! (ギャオ)配信 NHK平和アーカイブス☆


戦争の悲惨さ、平和の尊さを描いたNHKアーカイブス番組を、期間限定で無料配信。

NHKでは毎年平和アーカイブス関連の番組を放送していますが、
さらに多くの方々に平和への共感を高め、戦争の悲惨さを風化させないためには、
放送だけではなくインターネットによる配信も重要な視聴の方法であると思います。

7月、8月の期間限定で無料で視聴していただけるアーカイブス4番組のご案内です。

と趣旨が明記され、
私は見逃した番組があったのかしら、とクイックし、観はじめたりした・・。

齢ばかり重ねた私は、改めてネットの利便性を驚き、
提供して下さった方たち【YAHOO! JAPAN】、【GyaO! (ギャオ)】に感謝しているひとりである。

そして私は、
《 どれだけ時が流れようとも
      この日を、忘れてはならない 》
このフレーズを発想された方に脱帽している。


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終戦記念日、私は皇居に向かい、黙祷を終えて・・。

2010-08-15 09:34:02 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
快晴の朝を迎え、洗面した後、玄関の軒下に下り立ったのは、朝の6時過ぎであった。

そして襟を正して、
皇居の方面に向かい、手を合わせながら黙祷した・・。

私は過日の6月23日の沖縄戦が事実上集結した『沖縄慰霊の日』には沖縄に向かい、
8月6日のアメリカが人類史上初めて広島に原子爆弾が投下された『広島被爆』には広島、
そして9日、長崎に原子爆弾が投下された『長崎被爆』には長崎、
本日の15日の敗戦なのに『終戦記念日』称しているこの日には皇居に向かい、
この日には、手を合わせながら黙祷をして35年ちかくになる。

私は1944(昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
敗戦となった8月15日からは、ほぼ一年前になるので、
戦争を知らない世代となるが、国民の責務のひとりとして、
かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。

そして私は、皇居に向って黙祷をする真情は、
かの大戦の当時の国民風潮として、
『天皇陛下の御為と国の為に死ぬ事が日本人の美徳と教えられ、
戦死したら靖国神社に神として祀(まつ)られ、
崇(あが)められると信じて疑わない殆どの国民がいた』
と当時の風潮に生き、亡くなわれて人々に哀悼の意を表しているに他ならない。

そして私はいつも感じることは、若き10、20代の少なくとも日本の国民の方には、
こうした現実が過去の日本にあった、と認識して欲しい、
固く願っているひとりである。


そして、私はここ4年に於いては、
都心の千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑の碑に刻まれた両陛下の詠まれた歌を重ねたりしている。


   国のため いのちささげし
      人々の ことを思えば 胸せまりくる         

                       昭和天皇

   戦なき 世を歩みきて
      思ひ出づ かの難き日を 生きし人々

                       平成天皇


私はこの歌を深く拝読するたびに、思わず胸が熱くし、
その時代の歳月に思いを馳せ、鎮魂曲のような感じている。

この昭和天皇の歌の思いは、
靖国神社から程近い所にある千鳥ケ淵戦没者墓苑は、
訪れる人も少なく、この季節は蝉時雨が響き渡る情景の中、
詠まれた伝えられている。

平成天皇の歌は、戦後60年の年の歌会始の儀で詠まれた、
と報じられていた。

そして昭和天皇の御製の碑と向き合う形で、
2005年(平成17)年の9月に平成天皇の御製の碑が完成した、
と何かの新聞で読んだりし、私はつたない身ながら学び、思いを馳せたりしているのである。


私は毎年、『全国戦没者追悼式』が執り行われている中、
私はテレビを見ていて『黙祷・・!』の声を聴くと、
思わず襟を正し、黙祷をした後、しばらくするとこのふたつの歌を思い重ねている。


尚、私は8月15日は、『終戦記念日』と、どなたが名付けたかは無知であるが、
国際間の怜悧な視線からは、まぎれなく敗戦であり、
都合よく『終戦』と命名された方たちは、
国際各国から観た場合は、国家としての信義にかかわることなのである。

そして、命名された方たちは、余りにも恥知らずと思ったりしながら、
私は無念ながら『敗戦記念日』と確信しているひとりである。


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梯久美子・ノンフィクション作家の発露された言葉に感銘を受けて・・。

2010-08-14 15:40:59 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨日、読売新聞の朝刊を読んで、思わずひとつの特集記事に関心させられ、
深く精読させられたのである。

この記事と同一なのが、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載されて折、
無断であるが、記事を転載させて頂く。

《・・
      戦後世代が書く戦争 活躍する3人に聞く

65回目の終戦記念日を間もなく迎える。
かつて日本が空襲や原爆で焦土になり、多くの人命が失われた事実は、
都会に立ち並ぶ高層ビル群などから簡単に想像できなくなった。

一方で、今年度上半期の芥川賞では、
ナチス・ドイツ時代のユダヤ人問題を現代と重ね合わせた赤染晶子著『乙女の密告』、
直木賞では、戦前から戦争に至る都市生活のモダンな一面を慈しむような中島京子著『小さいおうち』が受賞するなど、
あの時代を直接知らない世代の、新たな試みが目立っている。

戦後世代が戦争を書く意味を、文芸評論、漫画、ノンフィクションの分野で活躍する3人に聞いた。
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

そして、活躍される3人のお方は、

◎軍隊と似通う格差社会 川村湊さん(文芸評論家 59)

◎今こそ出来る表現模索 梯久美子さん(ノンフィクション作家 48)

◎「普通の生活」敬意の絵筆 こうの史代さん(漫画家 41)

こうした人であるが、無念ながらノンフィクション作家の梯久美子さんの作品しか読んだことがなく、
特に梯久美子さんの思いを幾たびか読み、発露された言葉に私は感銘を受けた・・。

《・・
「戦争映画を見たこともなく、戦記を読んだこともなかった」が、
5年前に出した硫黄島玉砕の総指揮官だった栗林忠道の評伝『散るぞ悲しき』(新潮文庫)が作家デビュー作となった。

「あなたみたいな人が栗林中将を書いたらいいんじゃないかな」。
ある小説家にそう言われた時、
実は「栗林中将」が誰かも知らなかった。

だから、徹底的に調べた。
1次史料にあたることにこだわった。
「メディアの儀礼的、常套(じょうとう)的な表現を乗り越えて自分の言葉を持つには、
陳腐化した言説に頼らず、ナマの史料に直接触れることが必要だった」
とふり返る。

大本営による電報の改ざんを実物で確認し、遺族あての手紙41通を手に取った。
「私の知らない時代を生きた人々の声を聴いた気がした。
モノの持つ強さです」。

戦争を知らず、遺族でもない自分が書くことに迷いもあった。
が、取材の最後に1万3000柱の遺骨が埋まった島を訪れ、気持ちが固まった。

彼らの死ではなく、どう生きたかを書こう。
「骨を踏んだ」ことで縁を結んだ、と覚悟を決めた。


写真家の石内都さんの写真集『ひろしま』に衝撃を受けた。
「被爆死した若い女性が身に着けていた衣服を美しく、可憐(かれん)に撮っている。
60年以上たって初めて出来たアプローチだと思う」。

活字でも、今だからこそ成立する表現があるはずだと気づいた。

「経験者の言葉を直接聞いて伝え残す最後の世代であると同時に、
別の表現を模索すべき最初の世代」
と自覚する。

先月、デビュー作の完結編となる『硫黄島 栗林中将の最期』(文春新書)を刊行した。「公開される史料が増え、昔より可能性は広がっている」

(2010年8月13日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私は特に、
「経験者の言葉を直接聞いて、伝え残す、最後の世代であると同時に、
別の表現を模索すべき最初の世代」
とこうし自覚を発露された言葉に圧倒され、感銘を受けたのである。


私は梯久美子さんの作品を初めて読んだのは、
【『ずゐせん学徒隊』らに、ご冥福を・・。】
と題して、あるサイトに2007年10月16日に投稿している。

【・・
昨日の深夜、『文藝春秋』の読み残した記事を読みはじめた・・。

何より深く感動された寄稿文、主題が『美智子さまと昭和天皇』、副題は『沖縄の悲劇を胸に』と題され、
ノンフィクション作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんが綴られた記事である。

私は沖縄に関しては、このサイト以外でも数多く綴っている上、
高校生以来、真摯な思いで関心はあるが、
皇室が係わると、何かと気後れと1日の中で、心が澄んだ時も読もうと、
あえて後回しにしていたのであった。

私はかの大戦の過酷な沖縄地上戦に於いて、
看護要員として『ひめゆり学徒隊』は知識の一端として、知っていたが、
恥ずかしながら『ずゐせん学徒隊』は全くの無知であった。

作家・梯久美子さんの記事を拝読すれば、
あの沖縄戦を深く理解すれば、このような状況が明確に想像できるのであるが、
つたない私は無知であった。

作家の綴られた記事を引用させて頂ければ、

《・・
沖縄戦で犠牲になった沖縄県出身者は約12万人、うち軍人・軍属は約2万8000人で、
残りの10万人近くが民間人である。

すべての中学校、高等女学校で学徒隊が編成され、
男子は鉄血勤皇隊、女子は看護隊として戦場に動員された。
男子は14歳から19歳、女子は15歳から19歳である。
そのうち、男子1559名、女子446名が戦場で亡くなっている。
・・》
注)原文に対し、あえて改行を多くした。

私が無知で、想像力が欠けていたのは、
すべての中学校、高等女学校・・と明記された内容であった。

作者の寄稿された記事のすべての中に於いては、
『ずゐせん学徒隊』に関しては最初のほんの一部に過ぎないが、
長年の歳月の熱い思いをしてきた当事者の心情を淡々した基調で綴られている・・。


首里高等女学校の学徒隊は『ずゐせん学徒隊』と命名されて、61名で構成され、
33名の方が亡くなわれ、ずゐせんの塔として、まつった慰霊塔である。
この中で生き残られたひとりの方の証言と念願された言動を記載されている。

作者が取材で訪れた時、
ひめゆり塔には大きな献花台からこぼれ落ちるほどの花束が供え、
数百メートルしか離れていないずゐせん塔には一輪の花もなく、
と記載されている。

『ずゐせん学徒隊』の生き残られたひとりの大正15年生まれのお方が、
「ひめゆりばかりが有名になって、
同じように戦場で亡くなったずゐせん学徒のことは、
誰も知らないし追悼もされてない。
それがずっと悲しくて、悔しくて」
と証言されて、
平成5年4月、両陛下が出席する植樹祭の会場の近くにずゐせん塔があるので、
両陛下に塔を見て頂きたく直訴した。

県知事に嘆願書を提出し、知事が不在だったので、
副知事の前で嘆願書を読み上げた・・。

『天皇陛下の御為と国の為に死ぬ事が日本人の美徳と教えられ、
女性でも戦死したら靖国神社に神として祀(まつ)られ、
崇(あが)められると信じて疑わず・・
衛生兵とともに奮闘致しました』

『生き証人は黙っている事が出来ません。
33名の代わりに声を大にして、「ずゐせん隊はかく戦えり」
と叫びたいのであります』

この後、副知事から宮内庁を通し、陛下に伝えられた。

そして陛下のご希望に寄り、植樹祭の前に、両陛下から、ずゐせん塔に供える花束を託され、
『・・天皇陛下が私に、
戦争の時はこのあたりにも来ましたか、とおっしゃった。
・・
このあたりは、飛び交う弾の中をさまよい歩いたところです。
たくさんの友達が死にました・・。

陛下は、苦労なされましたね、と言ってくださった』

そして、両陛下に自作の琉歌を披露され、
沖縄の文化に造詣が深く、みずからも琉歌をつくる天皇はご理解され、
翌日、所望された陛下に清書され届けられた。

そして、両陛下の車は、
ずゐせんの塔の前を、ほとんど停止に近い最徐行でゆっくりと進み、
お2人は窓を開けて、じっと瞑目(めいもく)された。


こうした概要であるが、
かの大戦で日本本土で沖縄諸島だけが地上の戦場となり果て、
民間人、そして学生まで巻き込まれ悲惨と過酷を思い浮かべる時、
敗戦の一年前に生を受けた私さえ、胸は熱くなり、やがて深夜ひとり涙を流した。
・・】
このように私は投稿していたのである。

こうした実態を淡々と綴られ、鎮魂歌の基調のように綴られた作家・梯久美子さんに、
瞬時魅せられたのある。

この2ヶ月前の頃、家内は実母より、
死ぬまで一度は、『ひめゆり塔』と『平和の礎(いしじ)』を観たいわ、
と念願に基づいて、
私達夫婦は家内の母と共に、この年の2007年10月29日より、
沖縄本島を8泊9日で訪れた。

この旅路に関しては、このサイトに投稿しているが、
作家・梯久美子さんの『文藝春秋』に寄稿された『美智子さまと昭和天皇』を感銘を受けていたので、
影響された心情で私は投稿している。

【・・
   第1章  機中、ひとり涙をながせば

10月29日(月)
羽田空港を20分ばかり遅れて、那覇行きの航空便は離陸した。

私は2時間半ばかりの機中の時間は、煙草も喫えず、退屈きわまりない時であったので、
過日知った『ずゐせん学徒隊』のことを思い浮かべてた・・。

そして、このことを私は別ブログに綴って投稿し、
この私の掲示板に、沖縄の男性より、
『友の碑~白梅学徒の沖縄戦~』のサイトを教示して下さり、
私は初めてこのことも知り、感銘を受けた後、資料として印刷した。

この資料を今回の旅に持参し、機中で再読した。

http://www11.ocn.ne.jp/~cr21/tomo/friends.html
☆『友の碑~白梅学徒の沖縄戦~』☆

改めて、監督のメッセージ、企画制作意図を精読し、あの時代に思い馳せると、
心は高まり、そして瞼(まぶた)が熱く、やがて涙があふれてきた・・。

航空便の機長より、着陸のアナンサーがあり、機は下降し、雲の中を通り過ぎると、
眩(まぶ)しい陽射しの中、那覇空港が観えた。

(略)
   第3章  クファデーサーの樹の下で

『ひめゆりの塔』を行く前に、『ずゐせんの塔』に花をささげたいと、
私は家内たちに云った・・。

家内たちには、ずゐせん学徒隊に関しては、旅行の合間に話していたのである。

『ずゐせんの塔』は、午前の陽射しを受け、さわやかな風が吹いていた。

私達は花をささげて、両手を合わした後、しばらく黙祷をした・・。


この後、『ひめゆりの塔』の資料館を見いていたが、
私は早めに出て、庭園を散策し、庭の手入れをされている年配の男性に、
『クファデーサー・・樹・・
この庭園に有りましたなら・・教えて下さいますか・・』
と尋ねた・・。

男性の庭の周辺を歩きながら、
大きな樹木で空まで伸ばすかのように枝葉を広げた大木を指して、
『この樹が・・クファデーサーですよ・・』
と私に云った。

古来から沖縄に於いては、墓地の付近に植えて、さんさんと照り続ける中、
大きなクファデーサーは周囲に日陰をつくりだすので、長年人々にいとしまれている樹である。

かの沖縄戦で民衆、少年少女、そして幼児まで巻き込まれた悲惨な地上戦を思い馳せながら、
私はクファデーサーの樹の下で煙草を喫ったりした。

このクファデーサーに関しては、
両陛下が終戦50年の慰霊の旅として沖縄に訪れた折、
『平和の礎(いしじ)』をご覧になった後、
皇后陛下は平成七年にひとつの歌を詠まれた・・。

   クファデーサーの苗木添ひ立つ
           幾千の礎(いしじ)は重く死者の名を負(お)ふ
                                作者・皇后陛下

この一句に導かれて、この樹木を知り、私なりに沖縄戦の過酷な戦場と思いを重ねた。

この後、『平和の礎』のある『平和祈念公園』に、私たち三人は行った。

(略)

      最終章  昭和の初期に生を受けた人々は

家内の母は、昭和5年生まれで、3年前に死去した家内の父は昭和2年生まれである。

家内の父は、大学を繰り上げ卒業で召集され、
初年兵として仙台の郊外、浜松の郊外で軍事訓練に明け暮れ、
古参兵の洗礼を受けている中、敗戦時を向えた・・。

家内の母は、新潟県の高田の女学校の時代に、軍事工場の支援に強制従事させられた身である。

家内の母は、今回の沖縄の旅として、
特にひめゆりの塔、そして平和祈念公園の中で、
沖縄戦で亡くなれた新潟県の墓地に花をささげたい、という要望であった。


那覇に着いた翌朝、朝8時過ぎにタクシーで『ひめゆりの塔』を目指して、
最初は私の熱い思いの『ずゐせんの塔』に花をささげ、しばらく黙祷をした。

この後、徒歩5分の『ひめゆりの塔』に行き、
『ひめゆり平和祈念資料館』の中で私は別れ、独りで早めに庭に出て、
クファデーサーの樹木を探したり、
資料館の中で厚い一冊の本を買い求めたのをベンチで読んだりしていた。

1時間半前後して、家内達がベンチに座っている私の所に来た・・。
家内の母は、
『XXさん・・ご免なさい・・遅くなってしまって・・
ひめゆり学徒の方たち・・私と同じぐらい齢なの・・』
と私に云った。

私は家内の母の顔を見ると、目に涙を浮かべていた・・。


この後、タクシーで『平和祈念公園』に移動し、
私達3人は、無名者の墓地、新潟県の墓地に花をささげ、黙祷をした。

私は敗戦の一年前に生を受けた身で、戦争を知らないひとりである。
あくまで、親族から教えて貰ったり、教科書、歴史書、小説、随筆などの書物、
そして映画などで観る限りである。

つたない身の私は、戦時で亡くなわれた数多くの墓石、
平和の礎に無数の刻まれた戦死者名を見ると、言葉を失い、呆然と戦争の残酷さを痛感させられた。


昭和の初期に生を受けた人々は、余りにも若くして、戦いのさなかで亡くなわれた人、
特攻隊で散った人、戦地に向かう折、米軍の攻撃で亡くなった方、
或いは沖縄の地上戦で戦死された方・・原爆、空襲で亡くなった住民の方、
それぞれの立場の人々が、戦争という旗の下で、命を落とされている。

そして、日本の各地で強制支援として、軍事工場、病院などで従事させられたりした・・。


平和祈念公園を辞する時、家内の母は私にぽっりと云った。
『私も・・ひとつ早く生まれていたら・・
戦地の病院などで行かされたかも知れないし・・どうなったか・・わからないわ・・

父さんも・・よく云ってた・・俺より・・たったひとつ齢の上ひと・・
多く戦死された・・と』
・・】
このように私は投稿しているが、
《・・
皇后陛下は平成七年にひとつの歌を詠まれた・・。

   クファデーサーの苗木添ひ立つ
           幾千の礎(いしじ)は重く死者の名を負(お)ふ
                                作者・皇后陛下
・・》
このことも作家・梯久美子さんの『文藝春秋』に寄稿された『美智子さまと昭和天皇』で学んで、
私は拝借したことである。

この後、作家・梯久美子さんの新聞、雑誌などの寄稿された文、
そして出来うる限り単行本、文庫新書などを読んだりしている。

あえて苦言すれば、『昭和の遺書 ~55人の魂の記録~』(文春新書)は、
許容された枚数か、取材などの制約なのか、深みのない心情となっている。

もとより作家・梯久美子さんは、
当事者の深淵まで描ききれる稀な才能がある方で、
ノンフィクション作家に於いては男性は佐野眞一氏とすれば、
女性は梯久美子さんである、と私は幾たびか感銘を受けたので、
更に期待しているひとりである。


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今宵9時、脚本・倉本聰の『歸國(きこく)』を私は待ち焦がれ・・。

2010-08-14 08:50:37 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞を読んだりして、思わず微笑んだりした。
28面に【テレビ番組】であり、最下段には、

《 終戦ドラマスペシャル 歸國(きこく)」
       今晩9時  脚本・倉本聰  》

と大きく明示され、右側には、

《 愛する妻よ、恋人よ、妹よ!
  君たちは幸せだったのか。
  現代によみがえった英霊たちが見たものは--。 》

と明記されていた。

そして私は定期コーナーの『試写室』に於いても、
このドラマが取り上げられて折、私は精読したりした。

無断であるが、笹島拓哉氏の綴られた批評文を転記させて頂く。
《・・
本当の豊かさとは何か、幸せとは何か。
これらの問いに対する答えは人それぞれだろう。

戦後65回目の終戦記念日、秋吉部隊長(長渕剛)、大宮上等兵(ヒートたけし)ら
戦争で命を落とした兵士の英霊を乗せた列車が、
未明の東京駅に到着した。
英霊たちは夜明けまでの限られた時間、
それぞれの愛する者を訪ねていく。

利己的な現代人の醜さを描くだけではない。
愛する人を思い続ける洋子(八千草薫)や
戦地から生還した秋吉の上官・遠山(笈田ヨシ)ら、
戦争体験者の言葉は切なさに満ちている。

脚本の倉本聰と演出の鴨下信一は、子どもの頃に戦争を経験している。
ドラマに込められた強烈なメッセージに、
豊かさや幸せについて改めて考えさせられた。
・・》
注)批評の原文をあえて改行を多くした、


私は過ぎし9日の夕方、読売新聞の夕刊を読んで、
【テレビ&ラジオ】に於いて、ひとつの記事に思わず精読したのである。
この記事と同一なのが、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載されて折、
無断であるが、記事を転載させて頂く。

http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/tv/tnews/20100809-OYT8T00362.htm
☆【YOMIURI ONLINE】
     TBS系ドラマ「歸國(きこく)」に出演、長渕 剛(ながぶちつよし)
             「長渕色」とことん消した☆

この記事を私は読んで、敬愛している創作家の倉本聰氏が、
テレビ・ドラマ化にされた、と知ったのである。

この後、まもなくして、秘かにTBSのホーム・ページを検索し、
http://www.tbs.co.jp/kikoku2010/intro.html
☆TBS 「歸國(きこく)」 終戦ドラマスペシャル ☆

そして私は1時間ばかり読んだり、見たりしていたのであるが、
『脚本・倉本聰』コーナーで、氏の作品の思いを幾度も読んだりしたのである。

そして、このドラマを今宵14日の夜9時より放映されるので、
待ち焦がれていたのである。


私は倉本聰氏にはお逢いしたこともないが、
数多くのテレビのシナリオ、放送されたテレビの作品、映画の脚本、作品に思いを重ねたりしたのである。
或いは随筆の数々を私が熱愛し読んだのは昭和が終る頃であった。

どなたでも作家の作品、シンガー・ソングライターの歌などで、偶然に接して、
ある日突然に心がざわめき魅了され、無我夢中に熱愛すると思われる。
私も創作家の倉本聰氏を書物で偶然に知り、
その後にある時から魅了されて、夢中に過去の作品を読んだり、観たりしたひとりである。

このサイトに於いても、私は創作家・倉本聰氏から、
数多く教示されたことがあり、投稿したりしているが、今回は省略する。

私が倉本聰氏の作品に初めて触れたのは、1975(昭和50)年1月過ぎであった。
映画の脚本家・橋本忍(はしもと・しのぶ)氏の『砂の器』のシナリオが読みたくて、
本屋で雑誌の『シナリオ』(シナリオ作家協会)の1月号を買い求めた。

その中に、東芝日曜劇場の『りんりんと』のシナリオがあった。
なんてシリアスなドラマを書く人、と倉本聰氏の作品に初めて知り、印象が残った。

この後、10数年後に私にとっては、倉本聰氏に信愛するひとりとなり、
人生は不思議な賜物(たまもの)があると深く思ったりしている。


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『原爆「次は新潟」で人消えた』、ニュースを読み・・。

2010-08-13 17:52:28 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先程、ネットでニュースを見ようと【YAHOO! JAPAN】を開き、
《 原爆「次は新潟」で人消えた 》
と題された見出し記事に、どういう内容の記事かしらと思い、私は思わずクイックした。

そして毎日新聞が配信された、
《 <原爆投下>「次は新潟」65年前の8月13日、市内から人が消えた 》
という見出しで、詳細記事を精読した。

毎日新聞の小川直樹・記者が綴られた記事であり、無断ながら転載させて頂く。

《・・
    <原爆投下>「次は新潟」65年前の8月13日、市内から人が消えた

にぎやかだった新潟の市街地に人影はなく、音も消えた。
「ガラーンとして、猫の子一匹いないという言葉通り。不気味だった」。

緑茶販売会社「浅川園」の会長、浅川晟一(せいいち)さん(104)=新潟市中央区=は、
65年前の新潟・古町の情景をはっきりと記憶している。

終戦2日前の1945年8月13日。
大和百貨店は営業を中止し、ウインドーには郊外への疎開を急ぐよう市民に命じる役所の張り紙が掲示されていた。

    ◇

当時の新潟市は今の中央区と東区の一部が市域で、人口は約17万人。
大陸と結ぶ物資輸送の拠点港として、軍事上も重要な都市だった。

しかし8月に入っても、なぜか米軍のB29爆撃機による大規模な空襲はなかった。
同じように無傷だった広島市には6日、
長崎市には9日に原子爆弾が投下され、一瞬で壊滅した。

「次は新潟が新型爆弾にやられる」。市民に恐怖が広がった。

県は緊急に対応を協議し、当時の畠田昌福知事は10日付で市民に
「徹底的人員疎開」を命じる布告を出した。
「(広島市は)極メテ僅少(きんしょう)ノ爆弾ヲ以テ最大ノ被害ヲ受ケタ」
「酸鼻ノ極トモ謂(い)フベキ状態」
「新潟市ニ対スル爆撃ニ、近ク使用セラレル公算極メテ大キイ」。
その文面からも当時の緊迫感が伝わってくる。

知事布告は11日に町内会を通じて市民に知らされる予定だったが、
うわさは10日のうちに広まり、その日の夜から疎開が始まった。
郊外へ通じる道は、荷物を山積みした大八車やリヤカーを引いて逃げる市民であふれた。
郊外に知り合いがいない市民には集団住宅が用意され、
13日までに中心部はもぬけの殻となった。

    ◇

当時、兵器に使うアルミの製造工場に徴用され、
工員の通勤定期券を買う係だった浅川さんは、
疎開が許されず、出雲崎に家族を送り出し、古町の自宅に残った。

軍需品や生活必需品の生産・配給、交通運輸、通信、電気供給などの重要業務に従事する者は、
残留を命じられたからだ。

「どんな新型爆弾なのか、想像もできないだけに怖かった。
だが自分には職務があり、逃げるわけにはいかなかった」。
誰もが国のために尽くすことを第一に考えなければならない時代だった。

浅川さんは、今の県庁近くにあった工場と、
古町にあった交通公社の間を自転車で行き来するのが日課だった。

15日朝、交通公社に出向くと、
「正午から玉音放送というのがある」
と女子職員から耳打ちされた。

無人の街に響くラジオの音は聞き取りにくかったが、日本が戦争に負けたと知った。
「正直、ホッとした。これで爆弾を落とされることはない」。

恐怖から解放され、市民も疎開先から少しずつ戻ってきた。

    ◇

実際に米軍が一時、新潟を原爆投下目標にしていたことがわかったのは、戦後のことだ。
当時、市民が「次は新潟」と恐怖を直感したのも無理はなかった。

浅川さんはのちに広島、長崎を訪れ、資料館で原爆被害の悲惨さを知った。
もし最初の原爆投下目標が新潟だったら、
多くの市民が疎開をする間もなく犠牲になったはずだ。
「新潟が免れたのは紙一重だった」と思うと同時に、
被爆地の痛みも人ごととは思えない。

「軍人が日本を支配し、戦争を起こすような時代には戻してはいけない」。
次の世代に託したい浅川さんの思いだ。【小川直樹】


◇ことば:原爆投下目標
米軍は1945(昭和20)年7月25日までに広島、小倉、新潟、長崎を原爆投下目標に定めたが、
8月2日の作戦命令で新潟を外した。

新潟市が1998(平成10)年に「新潟歴史双書2 戦場としての新潟」を編集した際、
執筆者たちは米国の公文書などを調べ、
「新潟は工業集中地区と居住地とが離れ、原爆攻撃に適さない」
「(爆撃機が出撃する)テニアン基地から遠い」などの判断があったと推定した。

8月13日14時35分配信 毎日新聞
・・》
注)解説の原文にあえて改行を多くした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100813-00000005-maiall-soci
☆毎日新聞 <原爆投下>「次は新潟」65年前の8月13日、市内から人が消えた ☆


私は1944(昭和19)年9月に、今住んでいる近くの北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)実家で生を受けた・・。
もとより敗戦は翌年の1945(昭和20)年8月15日であるので、
戦争を知らない世代である。

後年になると祖父、父、母、叔母の同居する人達はもとより、親戚の叔父、叔母からも、この当時のことを教えて貰った。

北に飛行機を製造する中島工場、
西に軍事物資を生産する東京重機が数キロ先にあったので、
ときおり近くに爆弾が落ち、空襲警報のたびに、
宅地から少し離れた我が家の崖の雑木林にある防空壕に避難した、と話していた。

祖父と父か中心となって、程ほどの広さの田畑を耕し、人手の足らない時は小作人の人々の手も借りたりしていた。
そして空襲警報が発令されると、何をおいてもとりあえず防空壕に避難したので、
慌しい恐怖の時代でもあった。

少しばかり遠方にあった軍事物資を製造する場所、軍用機を生産している場所を目標に、
米軍の爆撃機が幾たびか飛来し、爆弾を大量に落としたのであるが、
ときには付近の田畑、雑木林に落下した、
と後年に親戚の叔父さんに私は教えて貰ったりした。

そして爆弾は250キロが多く、と云われても私は定かでないので、
更に教えを乞うと、今で云うとプロパンガスの大きな物ぐらいよ、と叔父さんは私に云われた。
私は大きなプロパンガスのような爆弾が、空から大量に降ってくる状況を想像すると、
身も心も身震いをしたのは、高校生の頃であった。


我が家の実家は、戦時中の頃は、
玄関の中は広い土間となり、その一角の壁面に、各自の防空頭巾をつるしていた。
そして祖父、父、母、叔母の人々に導かれて、
私が生まれてまもない頃の時は、長兄は5歳、次兄は2歳であったので、
防空頭巾をかぶしてもらい、手をひかれながら、防空壕に避難された・・。

私は乳児であり、おしめの取れない時期であったので、
母たちは何かと大変だっただろう、と思い返したりしている。
後年になると、防空壕の内部の土の上に藁(わら)を敷いた上に、莚(むしろ)か茣蓙(ござ)に座り、
家族全員で互いの安否を確認した上で過ごした、
そして2歳過ぎた次兄が一度ばかりであったが、うんちをしたので少し困った、
と叔母たちが話されたので、私達は微苦笑したりした。


私が小学3年生の頃になると、
図画の授業で先生に引率されて、学校の近辺の丘陵の雑木林に行った時、
コンクリートできた高射砲の台の跡が数多く見受けられた。
米軍の飛行機の来襲に備えて、造られた形跡であった。

この頃までは、小学校の帰路に寄り道をすると、数多くの防空壕が見受けられたり、
実家の防空壕も小学の後年の頃までは遊んだりした。

雑木林の崖の一角に、縦横1.8メートルぐらいの入り口に木戸があり、
少し入ってまもなくすると、横に掘られ横幅が広くなり、奥は8メートルぐらいと感じたりした。
少し湿度を感じたりしたが、広間のようにゆったりとしていた。

後年の成人になった私は、
防空壕は入り口からまもなく角度が横になったのは、万一の爆風を避けることであろう、
そして幾分広めの内部は、平素の農作物の保存場所に併用していた、
とおぼろげに思ったりした。


この我が家の実家の防空壕は、私が中学に入学してまもない時、
都道が新設されることとなり、跡形もなく付近の田畑、雑木林も含め、大きく変貌したのであった。

このように戦争を知らない私は、防空頭巾、防空壕、高射砲台の跡、
この程度しか解からないひとりである。


今回、新聞記事を拝読する前はこのような思いであったが、この記事からは多々教示を受けた・・。
私は精読して、この当時の新潟市にお住まいの人たち・・
このように原爆の落下が予想され、郊外に避難される状景・・。
そして、当時の畠田昌福知事は10日付で市民に、「徹底的人員疎開」を命じる布告を出した、英断。

結果として、幸いにも被爆されずに敗戦となったが、
私は齢ばかり重ねた65歳の身であるが、
まぎれない過酷で悲惨な戦争のそれぞれの実態を目をそらせず学ぶことこそ、
たとえ戦争を知らない世代の私でも、日本人のひとりとしての責務と思っている。

そして私はここ35年ちかく、秘かに国民の責務のひとりとして、
6月23日の沖縄戦が事実上集結した『沖縄慰霊の日』、
8月6日のアメリカが人類史上初めて広島に原子爆弾が投下された『広島被爆』、
この後にも9日、長崎に原子爆弾が投下された『長崎被爆』、、
そして15日の終戦記念日と称している『敗戦記念日』、
この日の朝には、手を合わせながら黙祷をしたりしている・・。

かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。


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『同年代の少年兵、なぜ特攻=生還者に聞く・・』、ニュースを知り・・。

2010-08-13 13:38:06 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先程、ネットでニュースを見ようと、時事通信社の基幹ネットの【時事ドットコム】を開き、
《 同年代の少年兵、なぜ特攻=生還者に聞く「戦争体験」-大学生が証言映像製作 》
と見出しされた記事を見て、
思わずクイックし、記事を深く精読した・・。

無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
   同年代の少年兵、なぜ特攻=生還者に聞く「戦争体験」-大学生が証言映像製作

僕らと同年代だった少年兵は、どんな気持ちで特攻に赴いたのか-。
中央大(東京都八王子市)の学生が、
太平洋戦争中に東京陸軍航空学校(武蔵村山市)から特攻隊へ志願した元少年兵らを取材し、
10分間の映像にまとめ公開した。

前夜に涙した同僚。生き残った苦しみ。元少年兵の言葉に改めて戦争の事実を見た。

同大法学部4年冨田佑さん(21)ら10人余りが今年5月ごろから取材。
飛行学校で学び、19歳で特攻隊へ志願した長野県松本市の島田昌往さん(84)にインタビューし、
出撃基地があった鹿児島県南九州市の「知覧特攻平和会館」や静岡県牧之原市にある隊員の墓なども取材した。

出撃前夜に泣きだした最年少の同僚隊員。
機体トラブルで生還した島田さんが「なぜ死ねなかった」と苦しむ姿。

その話に「亡くなった人にも生き残った人にも傷跡や不幸を与える。
それが戦争の生む事実だ」と冨田さんは感じた。

特攻隊入隊希望を学校側から聞かれた際、
「迷いなく志願した」という島田さんの言葉を、
冨田さんはすんなり納得できず何度も真意を尋ねた。

「戦争という非常事態だからか」
「われわれも同じだったら迷わないのか」。
取材後、仲間と議論したという。

図書館で見つけた資料から何人ものつてをたどり島田さんを見つけ出したが、
その過程には亡くなったり病気のため話を聞けなかったりした元隊員もいた。

「早いうちに戦争の記憶や証言を集め、伝えることが重要では」。
冨田さんは力を込めた。

映像は、冨田さんらが属するゼミが毎月番組提供している都内や九州地方のケーブルテレビや、
番組のホームページで視聴できる。
教育関係者には無料でDVDを提供するという。
http://tamatan2.exblog.jp/。
(2010/08/13-11:32)
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010081300050
☆【時事ドットコム】 同年代の少年兵、なぜ特攻=生還者に聞く「戦争体験」-大学生が証言映像製作☆


私は1944(昭和19)年9月に、今住んでいる近くの北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)実家で生を受けた・・。
もとより敗戦となった時は、翌年の1945(昭和20)年8月15日であるので、
戦争を知らない世代である。

後年になると、戦争のさなかの事はもとより、この当時の前後のことを
祖父、父、母、叔母の同居する人たち、そして親戚の叔父、叔母からも教えて貰った。
中には戦地から帰還した近所の小父さんからも、話しを聞き、
過酷で悲惨な戦地の様子を教示したりしていた。

こうした中で、特攻隊に関しては、
定年退職後の翌年の2005年4月初旬に、九州の南部を団体観光ツアーに私達夫婦は参加し、
島津家の別邸『仙厳園』に立ち寄った後、知覧にある『特攻平和会館』に寄った。

私は、歴史の中で不幸にも、
若き日に命を国家に捧げた隊員の遺書が確認したかった。

私の特攻隊に関する根底は、ニュース、歴史書物、映画から得た知識があり、
何より阿川弘之・著の『雲の墓標』を二十歳過ぎの時に読んだのが
基礎知識として影響を受けていた。

この『雲の墓標』は、阿川弘之氏が純文学月刊雑誌のひとつの『新潮』に、
1954(昭和29)年に於いて、連載し発表された作品である。

私はこの当時の時代の空気も描かれ、
鹿屋基地にある海軍海兵団の青少年の心情も深く表現されている作品に感銘を受けたひとりであった。

  《・・雲こそ吾が墓標
        落暉よ碑銘をかざれ・・》 

この小説は、私の人生観を揺さぶられたひとつの書物である。

そしてここ数年前に映画の『ホタル』(2001年)を観た。
この映画は、知覧にあった陸軍の特別攻撃隊をテーマにしている。

このような拙(つたな)い知識の上で、この平和会館に入った。


おびただしい遺書、日記が展示されていたが、20分過ぎると、心重くなった。


うみやまに まさるめぐみに むくひなむ
        道をゆくなり いさみいさんで
                       佐藤 新平


君がため 雄々しく散らん 桜花
                  上成 義徳


会館を出ると、大通りの桜並木があった。

おびただしい石燈篭の中で、桜の花びらが空をさまよい、
地上に舞い降りていた・・。

そして路肩に吹き寄せられた花びらが、薄い絨毯のように敷き占めていた。

この後、この会館で買い求めた村永薫・編の『知覧特別攻撃隊』を精読したのであった。


私はここ35年ちかく、国民の責務のひとりとして、
6月23日の沖縄戦が事実上集結した『沖縄慰霊の日』、
8月6日のアメリカが人類史上初めて広島に原子爆弾が投下された『広島被爆』、
この後にも9日、長崎に原子爆弾が投下された『長崎被爆』、、
そして15日の終戦記念日と称している『敗戦記念日』、
この日の朝には、手を合わせながら黙祷をしたりしている・・。

かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。

そして私はいつも感じることは、若き10、20代の少なくとも日本の国民の方には、
こうした現実が過去の日本にあった、と認識して欲しい、
固く願っているひとりである。

このような心情を重ねている私であるが、
今回のこのニュースを知り、大学生の一部には、
真摯に戦争、そして特攻隊の心情を再確認される言動に、
私は秘かな感動を頂いたのである。


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写真家・竹内敏信さんに、改めて私は敬意し・・。

2010-08-13 10:58:08 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
いつものように読売新聞を読んで、最も感動した記事は、
24面の【地域】のニュースのひとつである。

《 移ろう季節 とらえる
         写真家・竹内敏信さん作品展 》
と見出しされた記事である。

この記事と同一なのが、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載され、
無断であるが、記事を転載させて頂く。

《・・
     移ろう季節とらえる写真家・竹内敏信さん作品展

写真家の竹内敏信さん(67)が、日本写真芸術専門学校の校長に就任したことを
記念する写真展「心で撮る日本の風景」~未発表のフィルム作品より~が13日、
中央区銀座5のフレームマンエキシビジョンサロン銀座で始まる。

右半身マヒを患いながらも活動を続ける竹内さんが、
約40年間に撮影した約2万枚のフィルムから、53点の未発表作品を展示。
竹内さんは「一度壊れたら取り戻せない日本の自然の美しさを感じてほしい」と話している。

日本の風景写真の第一人者として知られる竹内さんは、
3年前、脳出血で倒れて以来、右半身マヒを患っている。
それでも写真への情熱を失わず、妻の西潟昭子さん(65)と二人三脚で撮影を続け、
今年5月に同校校長に就任した。

撮影の原動力は、自然への感謝と畏敬(いけい)の念。
刻一刻と変わる光や風、気温に感覚を研ぎ澄ませ、頂点に達した瞬間にシャッターを切る。
そうして「移りゆく季節の美しさ」を追い求めて来たという。

同展でも、落ち葉で彩られた川べりや、春に一斉に芽吹くみずみずしい野花など、
四季折々の自然の表情をとらえた作品が並ぶ。

19日まで。入場無料。問い合わせは同サロン(03・5638・2213)へ。

(2010年8月13日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/news/20100813-OYT8T00096.htm?from=navr
☆【YOMIURI ONLINE】 移ろう季節とらえる写真家・竹内敏信さん作品展☆

私は東京の郊外に1944(昭和19)年に農家の子として生を受けた。
祖父、父が中心となり、程ほどの田畑、竹林、雑木林を維持管理していた。
そして、田んぼの中央の外れに湧き水があり、
幼年期の私は、夏も冬も変ることこんこんと湧き出る水を不思議に思ったりしていた。
そしてこの湧き水は、田んぼの中央に流れる小川に流れていった。
田んぼの外れに半反程度の広さの蓮(ハス)専用の田んぼもあったし、
この当時は田畑やケヤキ、クヌギなどの雑木林の多い緑豊かな村里の情景であった。

この時節、初夏の頃から、農作物のナス、キュウリ、スイカなどを青果市場に出荷していたし、
湧き水の周辺は、ミソハギの花が咲き、そして蓮の純白な花が咲いたりしていた。
宅地の外れには百日紅の猿滑り(サルスベリ)と称された淡紅色の花が、
7月の初めの頃から、秋にかけて長い期間彩(いろど)ってくれた。

このような村里の情景で育った私は、小学低学年に祖父と父が死去し、
大黒柱を失った生家は衰退した。

その後、4年過ぎた頃から、都心のベットタウンに急速に変貌した。


私は都心の高校に通いはじめ、クラブは写真部に所属し、
ポートレートよりも何故かしら風景写真に魅せられ撮ったりした。
そして漠然と写真家になりたいと思ったりした夢想の時期もあった。

結果として、大学を中退し、映画・文学青年の真似事した後、
挫折し、民間会社に中途入社し、35年ばかり勤め、定年退職を迎えた。

この間、私は休日になると、家内と共に近所を散策したり、公園の樹木を眺めたりし、
四季のうつろいを享受したりしている。
そして家内との共通趣味の国内旅行で、各地の四季の美しさにも教示されてきた。


私が写真家・竹内敏信さんを知ったのは、
確か40代の後半の頃から、総合月刊教養誌のひとつの『サライ』に於いて、
この中の『竹内敏信の「風景写真講座」』と題された連載を深く魅せられたのである。

四季のそれぞれの美しさを表示した写真はもとより、
氏が綴られた解説文に圧倒的に私の心を揺さぶり、感銘したのである。

このような期間を確かに過ごした私は、今回、このニュースを知り、
改めて私は写真家・竹内敏信さんに敬意を重ねたりしている。


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年金不正受給者に対して、自治体は公表せよ・・。

2010-08-13 08:19:13 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨夜、ネットでニュースを見ようと【YAHOO! JAPAN】を開き、
《 返信なければ年金差し止めへ 》
と見出しされていたので、私は思わずクイックした。

そして、《 返信なければ年金差し止めへ=生存確認の書類、臨時郵送―厚労省 》
と題された時事通信の配信の記事を読んだりした。

《・・
高齢者所在不明問題を受け、厚生労働省は12日、
安否が不明の年金受給権を持つ高齢者に対し、生存確認を求める文書を近く郵送し、
返信がなければ年金支給を一時差し止めることを決めた。
(時事通信)
・・》

この後、私はこの下段に明示された、
《  ◇年金不正受給の問題を指摘
    「100歳未満も調査せよ」の声 年金不正受給者たくさんいる 》
と見出しされた記事に関心させられて、読んだのである。

J-CASTニュースの配信記事であり、無断ながら転載させて頂く。

《・・
    「100歳未満も調査せよ」の声 年金不正受給者たくさんいる 

記録上は100歳以上だが所在が確認できない人が続々判明している。
一方で「100歳未満も調査しないと解決にならない」
「100歳未満の不明者も多数いるはず」
と指摘する識者の声も大きくなっている。

100歳以上の所在不明者は、新たに神戸市で105人が判明するなど全国で187人――。
2010年8月11日の情報番組「みのもんたの朝ズバッ!」(TBS系)はこうした数字を伝え、
司会のみのもんたさんは「まだ増えるんでしょうね」と懸念を示した。

■全件チェックしないと解決にならない

不明「100歳以上」が続出する事態を受け、
厚労省は、長妻昭大臣を長とする「高齢者所在不明・孤立化防止対策チーム」を8月5日に立ち上げた。

また同省は、日本年金機構に対し、市町村と連絡を取りながら、
市町村に調査予定がなかったり調査に時間がかかったりする場合は、
110歳以上の年金受給者について、機構職員が面談調査をするよう指示を出した。
110歳以上の年金受給者は、概ね50~100人とみられる。

不明高齢者について、連日のように各自治体の独自調査結果が発表されているが、
対象は「100歳以上」だ。
なぜ100歳以上なのか。疑問の声が出ている。

「99歳以下のところも全件チェックしないと解決にならない」。
8月11日の「朝ズバッ!」の中で、一橋大の高山憲之特任教授(年金研究)はこう提言した。
年金受給者のうち「100歳以上は少ない」とし、
「100歳未満の方が死亡者の年金を家族らが、受給し続けているケースが多い」
と指摘した。


年金の「老齢給付」を受けている人は、約3360万人(2010年3月末)で、
100歳以上の人数(無年金者含む)は4万399人(2009年3月1日現在、厚労省)なので、
単純計算で約0.1%だ。
高山特任教授の指摘通り「少ない」割合だ。


■片山元知事「役所は怠慢だ」
死亡した家族の年金を不正受給して逮捕・送検された例は、
2007年11月以降の新聞記事をざっと検索しただけでも、少なくとも7件以上ある。
それ以前に逮捕された裁判記事もあるが、「100歳以上」が絡むのはレアケースだ。

「100歳で(調査を)区切るのではなく、
90歳以上、男は80歳以上で一気に調査をやらないと厚労省の対応は不十分だ」。

白鴎大の福岡政行教授(政治学)も、
8月9日の「ビートたけしのTVタックル」(テレビ朝日系)でこう述べた。
調査対象が100歳以上だけでは、年金不正受給問題などの解決にはつながらない、
という認識はかなり広まりつつあるようだ。

ある行政書士は、J-CASTニュースの取材に対し、
相続絡みの仕事をする中で「80歳以上の所在不明者は相当数いるはず」
と感じていると語った。

一方で、自治体の側からは、調査対象を広げると業務が膨大になりすぎ、
費用もかかるため事実上無理だ、との声も上がる。
個人情報保護法による「壁」を指摘する向きもある。

しかし、片山善博・元鳥取県知事は、こうした指摘について
「言い訳だ。役所の怠慢」と切り捨てた。
8月11日の「朝ズバッ!」で、
「(調査対象を広げる)金がないというが、使い方の優先順位を間違っている」と断罪した。
個人情報保護の関連でも、役所が外部にもらすのが問題なのであって、
「目的外利用の禁止」を調査できない理由として持ち出すのは
「怠慢」だとの考えを示した。

総務省の人口推計(2009年10月)によると、
80歳以上100歳未満は785万1000人だ。
現在、100歳以上が約4万人(厚労省調査)で不明者が187人(朝ズバ)とすると、その割合は0.46%。
仮に80歳以上100歳未満の人の中に、
100歳以上の人の場合の「10分の1」の割合で不明者がいたと大胆に仮定すると、
「不明者」は3600人超となる。

厚労省は2010年6月から、一定の条件の85歳以上の年金受給者について、
不正受給がないかサンプリング調査をしており、近く結果をまとめる予定だ。

8月11日19時22分配信 J-CASTニュース
・・》
注)記事の原文にあえて改行など多くした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100811-00000002-jct-soci
☆J-CASTニュース 「100歳未満も調査せよ」の声 年金不正受給者たくさんいる☆


私は65歳の高齢者で厚生年金を受給している身であるが、
昨今の国家財政の悪化、そして高齢化社会を迎え、社会保障費は毎年1兆円前後が増加している現状は、
新聞、テレビのニュース、雑誌などで学んでいる。

もとより日本の社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用を、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)となっている。
具体的には、現役世代がその時の高齢者を支えてくれる制度である。

このような中で、社会保障費の中の年金不正受給者のニュースを知ると、
高齢者の私さえ、現役世代の方たちに恥じることがないのか、
国の負担分すなわち国民の目をごまかしてまでと思いながら、
悪質きわまる人がいると思ったりしている・・。

今回、このJ-CASTニュースを読んだ後、
徹底的に厚労省は、日本年金機構と市町村と連絡を取りながら解明すべき、
と深く感じている。

調査対象者は、年金の「老齢給付」を受けている人、約3360万人(2010年3月末)として、
年金不正受給者が発覚した場合、自治体で公表する制度を設定する。

たとえば私の住む市に於いては、毎月『調布 市報』が配達されているが、
この『調布 市報』の中に、『年金不正受給者』のコーナーを設定して、
明確に氏名と年齢、住所、そして不正受給の期間、金額を明記する。

実施に際して、事前に厚労省は制度を公表して、3ヶ月の猶予期間後、
判明次第、逐次に公表する。

このくらいの制度を実施できなければ、
悪質きわまる年金不正受給者の撲滅の解決には、ならないと思案している。

 
*恥ずかしながらブログランキングに参加しています。
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 つたない私の無上の喜びとなりますので、お願い致します♪

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大城峻道・著の『李明博が「普天間韓国移設」を極秘提案』・・。

2010-08-12 23:33:42 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
1970(昭和45)年の25歳以来、愛読している総合月刊誌の『文藝春秋』(九月特別号)を、
発売日の8月10日に買い求めた。

そして、この中のひとつの寄稿文を読みながら、
ここ数日、考えさせられている。

ジャーナリストの大城峻道(おおき・としみち)氏が寄稿された文で、
《 オフレコ公開
     李明博が「普天間韓国移設」を極秘提案 》
と見出しされたタイトルで、
副題のようには、
《 きわめて重大な提案を日本政府の誰も知らない 》
と明記されていた。

私は政治にも疎(うと)く、無力な年金生活をしている身であるが、
昨今の普天間基地の移設問題に関しては、少なからず国民の責務と思いながら、
注視しているひとりである。

《・・
過ぎ日の6月末、韓国の李明博・大統領がアメリカのオバマ大統領と首脳会談の時、
日米関係・・日本国内の政治状況の不安定化を懸念し、
特に普天間問題をめぐって日米同盟が深刻な状況に陥って・・心配・・
と李明博・大統領が発言された。

そして、この後に、
普天間基地の問題が日米同盟にとって最悪のシナリオに陥った場合は、
基地の移転先については、
韓国国内の軍施設を提供したい、
と李明博・大統領がオバマ大統領に発言された。
・・》
このようなことを大城峻道氏が綴られ、
私は読んでいて、心身叩きつけられるように感じた・・。

そして両国はもとより中国、北朝鮮、フィリピン等の思惑を配慮して、
不明確な日本を抜きに進行している現状を提示したまぎれなく優れた力作である。
少なくとも今年に私が読んだノンフェクションの分野に於いて、
最も感銘を受けた作品でもある。

詳細は『文藝春秋』』(九月特別号)の本編をお読み頂きたい。


もとより私はこうした現実は無知であり、
政治にも疎(うと)く素人の見ながら、『普天間基地の移設問題』には、
やむにやまれず感情論の域にも値(あたい)しないが、
【 私なりの『普天間基地の移設問題』、解決策のひとつの私案としては・・。】
と題して、今年の2010年5月5日に於いて、このサイトに投稿している。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳であり、
恥ずかしながら政治・外交・軍事・経済なども疎(うと)く無力な身である。

ここ特に一週間は、『普天間基地の移設問題』に関して、
鳩山首相の就任以来の言動に戸惑いながら失望してきたが、
今回の鳩山首相の沖縄訪問の前後に、いたたまれずこのサイトに、
沖縄県民はもとより、国民を愚弄している鳩山首相の言動に落胆しながら、
投稿してきた・・。

しかし、批判することは園児でも出来、国民のひとりとして無責任であるので、
つたない身ながら、何とか解決策はないのかしら、と深く思ってきたひとりである。

現時点の私が考えられることを羅列する。

①橋本政権から麻生政権までの自民党政権のくびきだった普天間問題として、
米政府、日本政府、沖縄県の考え方が初めて一定幅に収まった状態で、
日米両政府の2006年の合意で、
普天間飛行場の移設先となった米軍キャンプ・シュワブ沿岸部(同県名護市辺野古)の原点とする。

②その前提としては、これまでの『普天間基地の移設問題』だけでも、迷走させ、
沖縄県民はもとより、国民を愚弄してきた鳩山首相は辞任をする。

③鳩山首相の後任の新たなる首相は、今後の沖縄に対して、少なくとも下記のように明文し、
制定化する。

④沖縄本島に本籍と現住所があり、日本の国籍を所有する方には、
今後は『住民税』を免除し、無料とする。

⑤これに該当する方たちは、同時に『医療費』を免除し、無料とする。

⑥その上、騒音の対策上、防音に関する建設費は、無料とする。

⑦そして、基地の周辺に住まわれる方が本島内に転居する場合、
最低として3000万円の援助金とする。
この場合は、基地から4キロ以上放れた地域とする。


このように私が沖縄の本島の方たちを思いながら、羅列してきたが、
少なくとも沖縄の県民であり基地のある本島の方たちに、
政府はお詫びを重ねながら、住民投票の結果、賛意を得ることが出来た上で制定する。

このことは、日本の敗戦後、
日本は沖縄に関してアメリカ軍政下にゆだねて、その後、念願の本土復帰となったが、
国土の一割にも満たないの沖縄が、75%前後の地域が在日米軍基地があり、
日本の安全に寄与してきた現実である。
上記に箇条書きした費用にに関しては、政府の防衛費の一環として国民の税金で負担する。

ひとえに沖縄の本島の人たちの過酷な犠牲で、今日の平和のひとつが構築してきた現実であり、
今後も国際間が急激に変貌し、日米間の結束が変らない限り、
基地として使用させて頂く、お詫び協力金、と私は思っている。

追記事項(19時50分)
沖縄本島を『特別区』として、地方への交付金平均の10倍を沖縄県に交付する。
・・】

このように感情のおもむくまま投稿している。

そして、今回の大城峻道氏が寄稿された、
『オフレコ公開 李明博が「普天間韓国移設」を極秘提案』を深く精読し、
日本の現状に憂いを重ねたりしている。


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