私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昼食後、燦燦と照らす熱い快晴の中、散髪屋(理容店)に寄った後、スーパーに買物に行った。
店内で家内から依頼された生鮮食品を見極めていた時、
♪誰かの錆びたあのイノセンス 木もれ日に揺れている
生まれた街の片隅に 遠い日の忘れ物
【『グロリアス』 作詞、作曲・TAKURO、編曲・GLAY、佐久間正英 】
と歌が店内から流れて、
私は思わず『GLAY(グレイ)だぁ・・』と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。
私の現役時代のサラリーマンの時代は、あるレコード会社に35年ばかり勤めていた。
音楽を制作する部門でなく、管理畑で情報、経理、営業などの部署であったが、
それなりに音楽を聴く機会が多かったのである。
確か1994(平成6)年の春過ぎ、私が経理畑に所属していた頃、
ロビーの掲示板に数多くのポスターが掲載されていたが、
この中のひとつが私には解からなかったのである。
女のような若き男で長髪の4人が写しだされていたポスターであった。
『GLAY』と明示されていたが、私の心からは、ほど遠い存在であった。
その後、私は営業本部の片隅に異動した後、
GLAYを意識したのは、3枚目のアルバム『BELOVED』であり、
確か1996(平成8)年の11月だったと思うが、
普遍的であるが感覚として私の好みの詞であり、そしてサウンドも抵抗なく溶け込めていった・・。
私が50代の前半の時であった。
その後、シングル盤の『口唇』の後に、
翌年の1997年の秋、べスト盤のアルバム『REVIEW』発売され、
この頃の業界として空前の500万枚近い売り上げとなり、私は最も勢いのあるGLAYに、
秘かに私が予測した以上に、ただ驚き、ため息をさせられたのである。
私はこの前後に『BELOVED』、『HOWEVER』、『ずっと2人で・・』、『軌跡の果て』を盛んに聴いたりした。
そして、NHKの『紅白歌合戦』に出場され、
ボーカルのTERUが、『HOWEVER』を唄いあげていた。
この年は最もCD、ビデオ等でセールスに貢献したアーティストに日本レコード協会の主催で、
翌年の1998年1月に第12回『日本ゴールドディスク大賞』のアーティスト・オブ・ザ・イヤーを獲得している。
こうした実績を残されたので、私は年賀状を受け取った中のひとつに、
ある営業所の所長から、昨年はGLAYの年でした、と書かれていた。
その後、1998(平成10)年の4月にシングル盤の『SOUE LOVE』、『誘惑』同時発売され、
相変わらずミリオン・セラーが続き、
確か7月だったと思うが、『pure soul』のアルバムを270万枚を出荷した後、
私はGLAYから離れた・・。
この当時の私は、X JAPANの数多くの曲に、遅ればせながら魅せられて、
無我夢中に熱中していたからである。
そしてこの当時の業界全体の売上げピークは1998(平成10)年で、
この前後は、各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。
これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われた。
そして激動の1998(平成10)年の前後、
先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、
早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。
その後、1999(平成11)年の新春、
私は人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
《何で・・俺が・・》
と思いがあったが、私は物流情報会社に出向となった。
この中のひとつの職場は、音楽のCD、DVDなど商品を管理する商品センターであり、
CD、DVD販売店からの日々の受注により、出荷したり、或いは返品を受けたり、
製造会社より入荷したりする処であった。
もとより音楽商品は、それぞれ一枚一枚が激変し、多品種であり、曜日、季節の変動も加わり、
現場は多忙であった。
私はこうした商品センターに、センター長はじめ正社員4名と共に、
男性の20代の契約社員10名、パートの女性120名前後の中で、奮闘した。
しかし最初の頃は、30年近く本社に勤めていた私は、出向の身となった直後は、
まぎれなく都落ちで、失墜感が心身にあった。
この商品センターで大きな取り扱いの最初のCDは、
1999(平成11)年2月3日発売のひとつGLAYの『Winter、again』であり、
確か数ヶ月で177万枚を出荷した。
このCDシングル盤を最後に、GLAYは我が社から契約が切れ、
他社に移籍した。
そして私は商品センターのあるフロアーにある『pure soul』のアルバムの
大量な在庫を苦笑しながら見たりした。
このことは前作のべスト盤のアルバム『REVIEW』が空前に売れて、
570万枚を超えていたので、『pure soul』のアルバムを大量にプレスした結果であった。
この年、5月5日ら放映された『GLAY 奇跡と栄光の向こうに』
と題されたドキメンタリーの番組がNHKから放映された。
この番組はGLAYと命名したロックバンドの結成時の状況、5年後のメジャー・デビューするまでの苦節、
そしてブレイクするまでの実態、その後の4大ドームのライブ・コンサートを成功するまで、
結成から頂点に立つまでの10年間の軌跡を描いたドキメンタリーの良質作品である。
私は、この映像を幾たびか視聴するたびに、GLAYに熱中した曲と時代、
そして熱気帯びた観衆のシーンを想いだし、愛惜を重ねたりしている・・。
そして、思いだすように私はときおり、
保有しているメジャー・デビュー作品からアルバム『pure soul』までを取り出して、
聴いたり、手元の3本ばかりのビデオテープも視聴したりしている。
最後に、私が初めてGLAYに瞬時に魅せられた1996(平成8)年の11月の頃、
ひとつの歌を掲載する。
http://www.youtube.com/watch?v=yVT236Pkjuo&feature=fvst
☆【『BELOVED』 作詞、作曲・TAKURO、編曲・GLAY、佐久間正英 】☆
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↓
昼食後、燦燦と照らす熱い快晴の中、散髪屋(理容店)に寄った後、スーパーに買物に行った。
店内で家内から依頼された生鮮食品を見極めていた時、
♪誰かの錆びたあのイノセンス 木もれ日に揺れている
生まれた街の片隅に 遠い日の忘れ物
【『グロリアス』 作詞、作曲・TAKURO、編曲・GLAY、佐久間正英 】
と歌が店内から流れて、
私は思わず『GLAY(グレイ)だぁ・・』と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。
私の現役時代のサラリーマンの時代は、あるレコード会社に35年ばかり勤めていた。
音楽を制作する部門でなく、管理畑で情報、経理、営業などの部署であったが、
それなりに音楽を聴く機会が多かったのである。
確か1994(平成6)年の春過ぎ、私が経理畑に所属していた頃、
ロビーの掲示板に数多くのポスターが掲載されていたが、
この中のひとつが私には解からなかったのである。
女のような若き男で長髪の4人が写しだされていたポスターであった。
『GLAY』と明示されていたが、私の心からは、ほど遠い存在であった。
その後、私は営業本部の片隅に異動した後、
GLAYを意識したのは、3枚目のアルバム『BELOVED』であり、
確か1996(平成8)年の11月だったと思うが、
普遍的であるが感覚として私の好みの詞であり、そしてサウンドも抵抗なく溶け込めていった・・。
私が50代の前半の時であった。
その後、シングル盤の『口唇』の後に、
翌年の1997年の秋、べスト盤のアルバム『REVIEW』発売され、
この頃の業界として空前の500万枚近い売り上げとなり、私は最も勢いのあるGLAYに、
秘かに私が予測した以上に、ただ驚き、ため息をさせられたのである。
私はこの前後に『BELOVED』、『HOWEVER』、『ずっと2人で・・』、『軌跡の果て』を盛んに聴いたりした。
そして、NHKの『紅白歌合戦』に出場され、
ボーカルのTERUが、『HOWEVER』を唄いあげていた。
この年は最もCD、ビデオ等でセールスに貢献したアーティストに日本レコード協会の主催で、
翌年の1998年1月に第12回『日本ゴールドディスク大賞』のアーティスト・オブ・ザ・イヤーを獲得している。
こうした実績を残されたので、私は年賀状を受け取った中のひとつに、
ある営業所の所長から、昨年はGLAYの年でした、と書かれていた。
その後、1998(平成10)年の4月にシングル盤の『SOUE LOVE』、『誘惑』同時発売され、
相変わらずミリオン・セラーが続き、
確か7月だったと思うが、『pure soul』のアルバムを270万枚を出荷した後、
私はGLAYから離れた・・。
この当時の私は、X JAPANの数多くの曲に、遅ればせながら魅せられて、
無我夢中に熱中していたからである。
そしてこの当時の業界全体の売上げピークは1998(平成10)年で、
この前後は、各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。
これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われた。
そして激動の1998(平成10)年の前後、
先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、
早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。
その後、1999(平成11)年の新春、
私は人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
《何で・・俺が・・》
と思いがあったが、私は物流情報会社に出向となった。
この中のひとつの職場は、音楽のCD、DVDなど商品を管理する商品センターであり、
CD、DVD販売店からの日々の受注により、出荷したり、或いは返品を受けたり、
製造会社より入荷したりする処であった。
もとより音楽商品は、それぞれ一枚一枚が激変し、多品種であり、曜日、季節の変動も加わり、
現場は多忙であった。
私はこうした商品センターに、センター長はじめ正社員4名と共に、
男性の20代の契約社員10名、パートの女性120名前後の中で、奮闘した。
しかし最初の頃は、30年近く本社に勤めていた私は、出向の身となった直後は、
まぎれなく都落ちで、失墜感が心身にあった。
この商品センターで大きな取り扱いの最初のCDは、
1999(平成11)年2月3日発売のひとつGLAYの『Winter、again』であり、
確か数ヶ月で177万枚を出荷した。
このCDシングル盤を最後に、GLAYは我が社から契約が切れ、
他社に移籍した。
そして私は商品センターのあるフロアーにある『pure soul』のアルバムの
大量な在庫を苦笑しながら見たりした。
このことは前作のべスト盤のアルバム『REVIEW』が空前に売れて、
570万枚を超えていたので、『pure soul』のアルバムを大量にプレスした結果であった。
この年、5月5日ら放映された『GLAY 奇跡と栄光の向こうに』
と題されたドキメンタリーの番組がNHKから放映された。
この番組はGLAYと命名したロックバンドの結成時の状況、5年後のメジャー・デビューするまでの苦節、
そしてブレイクするまでの実態、その後の4大ドームのライブ・コンサートを成功するまで、
結成から頂点に立つまでの10年間の軌跡を描いたドキメンタリーの良質作品である。
私は、この映像を幾たびか視聴するたびに、GLAYに熱中した曲と時代、
そして熱気帯びた観衆のシーンを想いだし、愛惜を重ねたりしている・・。
そして、思いだすように私はときおり、
保有しているメジャー・デビュー作品からアルバム『pure soul』までを取り出して、
聴いたり、手元の3本ばかりのビデオテープも視聴したりしている。
最後に、私が初めてGLAYに瞬時に魅せられた1996(平成8)年の11月の頃、
ひとつの歌を掲載する。
http://www.youtube.com/watch?v=yVT236Pkjuo&feature=fvst
☆【『BELOVED』 作詞、作曲・TAKURO、編曲・GLAY、佐久間正英 】☆
☆下段のマークを押し、次画面の『投票』を押して下さいますと、
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