夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

春の匂いを感じると、『春眠、暁(あかつき)を覚えず』の格言に、齢を重ねた私も甘え・・。

2011-02-23 10:23:11 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
ここ数日、12度前後の3月のような陽気となり、どうしてなの、と微笑みながら、
昼下りの春の陽射しを受けながら、川沿いの遊歩道を散策したりしている。

帰宅後、この時節であったら、足袋を穿いて、下駄で庭のテラスなどに下りたり、
家の中を歩き廻っているが、昨日などは素足になったりしていた。

そして昨夜も居間で深夜まで本を読んだりした後、
寝室に行き、布団にもぐったりした。

今朝は5時過ぎ目覚めたのであるが、
眠気の誘惑に勝てず、再び眠りこんでしまった。

目覚めると朝の7時半過ぎで、
寝室の障子、雨戸を開けると、まばゆい陽射しが射し込み、
私は殆どの年金生活の朝は、日の出と共に起きること自戒させてきたので、
『遅れをとった・・』
と心の中で思わず呟(つぶや)いたのである。

2階の寝室から1階の居間に下りると、
家内は洗濯の合間、テレビのニュースを視聴していたのである。

私は寝坊した照れ隠しで、
『春眠・・暁(あかつき)を覚えず・・』
と私は朝の挨拶代わりに、家内に大きな声で云ったりした。

もとより、春眠、暁(あかつき)を覚えず、は、
中国の唐時代に、詩人の孟浩然(もうこうねん)が遺(のこ)された詩の一節であるが、
まさに至言と私は苦笑したのである。

そして地元の天気情報を視聴していたら、
朝の6時過ぎ2度で、昼下がりには13度前後となり、夜の6時は9度前後で、
さわやかな3月のような春麗(はるうらら)の一日となります、
と私には聴こえたのである。

この後、私は主庭のテラスに降り立ち、
ここ数日は春のような暖かさに恵まれているが、暦(こよみ)の上では2月下旬なのに、
と少しばかり戸惑っていた。

そして私はB型の血液型のせいか、物事は良い方向にとらえる習性があり、
まもなく日本に於いては女の子を祝う『ひな祭りの日』を迎えるので、
天上の気候の神々は、ささやかな贈り物かしら、と私は解釈したのである。


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アラサー女子の男性への仕分け瞬時の川柳、高齢者の私は拝読して、微苦笑し・・。

2011-02-22 17:57:55 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
先ほど、【YAHOO! JAPAN】を開き、たまたま【雑誌】コーナーを見たりしていた。

《 「この男性、やっぱりダメだわ!」仕分けの瞬間 ~川柳編~ 》

という見出しがあり、私はなんのことなの、と思いながら、
何事も好奇心を失くしたらこの人生は終わりだ、と信条している高齢者2年生の私は、
クリックした。

何か『集英社』の『BAILA』雑誌から、提供された特集記事のひとつらしい、
ということが何とか解かり、私は川柳は詠む資質はないが、世の中の映すか鏡のひとつであるので、
人さまの詠まれた川柳を拝読するのは好きであり、読んでしまったのである。

無断であるが、転載させて頂く。

《・・
            「この男性、やっぱりダメだわ!」仕分けの瞬間 ~川柳編~

「この人は『ナイ』な」…出会いの局面や、知り合ってまだ日が浅い時期に、
こういう思いを抱いてしまうことがあります。
ちょっといいかもと思っていた男性を仕分けする瞬間を、アラサー女子に川柳で詠んでもらった。

まずは今の若い男子に苦言。
・「そうッスね」 それしか言わない 草食系
         「どんな会話の返事も『そうッスね』一本やり。
         もう少しマシな返事があるだろうけど……。
         覇気のない草食系男子に多い」(34歳・建築)

こちらは合コンでの一コマ。
・また出たよ 業界用語で デキる自慢
         「女子チームにはわからない業界用語を連発する方ほど、
         職場では仕事のできない男性だったりするんですよね。小さい」(28歳・客室乗務員)

若いころならうれしかった言葉も、アラサーにはダメ男を感知するNGワードに。
・オマエだけ そういうヤツほど 二股男
         「私の経験上、『オマエだけ』というのは、誰かと比較しない限りは出てこない言葉。
         実際に一人だけを愛していれば、当たり前すぎて、そんなこと言う必要もないはずなんです」(27歳・学生)

男子の服装は内面の表れ。こんなマイルールを持っている女子もいる。
・アウターに 白を選ぶは ナルシスト
         「よっぽど自分に自信があるか、自分を可愛いと思っているかのいずれか。
         プライドが高いので要注意です」(33歳・販売)

 「廃止」になってしまう前に、何とか気づいてもらいたいものだ…。

【『BAILA』2011年3月号(2月12日発売)『オトコ仕分けの5・7・5』より】

集英社雑誌ニュース 2月22日(火)16時40分配信
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私は『アラサー女子』って、女性のどのくらいの世代のことかしら、
と無知な私は恥ずかしながら、ネットで調べた。

《 アラサー(Around 30=25~35歳) 》

と明示されて、大人の素敵な世代の人たち、と理解できた。

そして、この後は肝要な『BAILA』も無知だったで、やはりネットでこっそりと調べた。

《【BAILA/バイラ】
働く女性のおしゃれを磨くファッション誌 ... 30歳前後の都会で働く女性、それがBAILA読者。
自分の好みがはっきりしている彼女たちのニーズに応える、
「オフィスで浮かない、フェミニンスタイル」を実践するためのファッション&コスメの最新情報を続々アップ。
展示会招待や会員限定プレゼントなど ...・・》
と出版元の集英社から、優雅に紹介されている。


都会で働く女性30歳前後を対象にした雑誌なので、センスも良いと思われるが、
現実はこの川柳で発露されたように、礼節を持ちながら怜悧に溌剌と働く素敵な女性・・、
と高齢者2年生の私は、感じたりした。

そして、いざ結婚相手の対象として若き男性を見る視線は、
いつの時代でも厳しい、と私は微苦笑をさせられたのである。


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『国会議員は給料泥棒』と経団連会長の発言、まぎれなく正鵠な至言、と私は苦笑を重ね・・。

2011-02-22 15:19:35 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいたが、何よりも苦笑させられたのは、
11面の【経済】面の小さな囲み記事であった。

《 「国会議員は給料泥棒」
          経団連会長怒る
                 進まぬ予算審議に 》

こうした見出しであり、私は何となく余り期待できそうもない日本経団連の米倉弘昌会長さえも、
遅ればせながら怒り心頭になったか、と微苦笑した。

無断であるが、この記事を転記させて頂く。

《・・
日本経団連の米倉弘昌会長は21日の記者会見で、
2011年度予算・税制改正関連法案の国会審議が難航していることについて、
「税金を払っている国民のたに何もしていない。
給料泥棒のようなものだ」
と厳しく批判した。

米倉会長は、民主党の16人議員が会派離脱願を提出したことについても、
「予算関連法案などを(年度内に)通さないといけない時期に、無責任極まる状態だ」
と指摘した。

さらに、野党を中心に衆院の早期解散論が浮上していることも、
「国民の生活や国益を無視した行動だ」
と述べた。
・・》
以上、読売新聞の記事は明記されていた。

そして一紙ばかりだと、編集方針により、解釈も大幅に差異も考えられるので、
たまたま毎日新聞のネットに掲載された記事を、私は確認するように読んだりした。

毎日新聞の宮崎泰宏・記者の綴られた記事を、無断であるが転載させて頂く。

《・・
      <経団連会長>「与野党議員は給料泥棒」「予算より政局」と批判

日本経団連の米倉弘昌会長は21日の記者会見で、
最近の与野党議員が予算審議などより政局を優先して行動しているように見えるとして、
「給料泥棒」と酷評した。

米倉会長は、自民党が早期に衆院解散に追い込む構えを強めていることに対し、
「国民の生活や国益を無視した行動。
予算関連法案の審議を尽くしたうえで、政局化するならすればいい
」と述べ、予算成立を優先すべきだとの考えを改めて強調した。

その上で「(こういう局面でこそ)与野党の協力が必要なのに、
今は国民のために何も仕事をしておらず、(与野党とも)給料泥棒のようなものだ」
と不快感を示した。

また、米倉会長は、民主党の小沢一郎元代表に近い衆院議員16人の会派離脱の動きについても、
「予算案や関連法案の審議が進み、これをどうしても通さなければならない時期に、
与党の一員として無責任極まりない」
と苦言を呈した。

毎日新聞 2月22日(火)8時10分配信
・・》

私は民間の中小業の会社に35年ばかり奮闘し定年退職をした身であり
もとより政治にも専門知識のない無知なひとりである。
そしてここ数年は、政治は混迷、経済は低迷、社会は劣化を増し、
年金生活の無力な身ながら、憂いているひとりである。

そして私は、温和な人、とご近所からの評価されているつたない男であるが、
政治のニュースどを読み、余りにも心の節度を失くした記事に対して、
いたたまれずこのサイトに投稿を重ねたりする時もある。

今回の日本経団連の米倉弘昌会長の発言は、昨今の政情に困惑して、
やむえなく発言されたと私は解釈しているので、まぎれなく正鵠な至言と私は瞬時に感じた。

私は昨今の騒動は、与野党議員の一部に園児のようなふるまいに、
あきれ果てて、ブログの投稿文にも与えしない、冷笑していた。


私は国民の選挙民から選出された国会議員は、
少なくとも真摯に審議を尽くすのは最低限の責務であり、
これを放棄した場合は、税金泥棒と解釈し、まぎれなく国民を愚弄する行為と思っている。

こうした思いは、このサイトにも数多く綴っているが、ひとつだけ再掲載する。
自民党が与党政権の安倍総理時代で、2007年2月5日で、
【 余りにも幼い国家議員の1部の人・・。 】
と題して、投稿している。

【・・
最近の国会は、特に柳沢・厚生労働相の少数化問題に関して、
余りにも人としての資質が問われる『(女性)は産む機械』などと発言し、
混迷をしている・・。

私は政治に関しては、素人であり、国会審議のルールーも知らない身である。

この程度の私でも、国民のひとりとして、不愉快な思いでいる。


国が問題が山積する中、野党の諸氏はどうして肝心な審議に、出席をしないのだろうか。
たったひとりの厚生労働大臣の失言を楯に、肝要の国会審議をさぼるのは、
はなはだ幼稚園の園児達が、友達との他愛ない話題をはやしたてている程度と思っている。

与野党の諸氏は、国民の税金より多大な給与を頂いているのだから、
国会に山積する問題をいち早く真摯に審議するのが、国民に対しての最低限の責務と思っている。

私は審議を放棄した人達は、少なくとも税金泥棒と思ったりしている。

与党の自民党の諸氏もおかしな態度と感じている。
安倍総理は、早めに柳沢・厚生労働相を辞任させるべきである。
失言とはいえ、人の資質が問われる発言をした人には、
今後も国民からの信任が得られないからである。

最も相応しいのは、柳沢・厚生労働相自身が、
『少数化の問題の中、
例えとして『女性を産む機械』と称したことがあったが、決して真意ではない。
しかし、国民の多くの方に誤解を与えた上、
与野党間の肝要な国会審議に多大なご迷惑を与えたので、
私にできる責任として辞職する。

そして私は国会議員としても辞任し、
生まれた里に戻り、一切の要職をせず、国民のひとりとして余生を送りたい。

その上、人として資質が問われる発言をしたので、
人の道を改めて一歩から学ぶ為、私の現在思い当たることは四国巡礼をし、
歩きながら各所の寺院を訪ね、心の勉強をしたい・・』

私はこの程度を柳沢・厚生労働相は言ってほしい、
と1週間前から思っているが、こうした話が聞こえてこない。
・・】

このように私は幼い綴りで投稿していたが、真意は読んで下さった方には、ご理解頂けると思う。


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『真室川音頭』、遅ればせながら私は歌の妖艶さを学びながら、思わず微苦笑し・・。

2011-02-21 20:41:11 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
過ぎし2月13日より山形県の銀山温泉に4日ばかり滞在した後、
『最上川の船下り』を25年ぶりに乗船した・・。 

初めて『最上川の船下り』をした時は、1986(昭和61)年の2月下旬で、
私達夫婦は初めての団体観光ツアーに参加して、冬の時節に周遊したりした。


私達は、今回の旅の二ヶ月前の頃から、
『最上川の船下り』に関して、【最上峡芭蕉ライン観光(株)】のホームページを見たりしていた。

この『舟下り』、『施設案内』などを見たり、
あの当時よりも豪華な設備となった、と私は家内に云ったりしていた。


私達は舟下り乗船場の前の大きな建物の戸澤藩船番所に入り、
私は売店の一角にある日本酒のコーナーで、何か良き四合瓶はないかしら、と探した・・。
結果として、『純米吟醸酒 最上川』(小屋酒造)として、
サブタイトルには、『北国浪漫(きたぐにろまん)と明記され、
私は美味しいそうな純米酒で、心身の波長に合いそうな予感がした。


この後、この戸澤藩船番所で、担当カメラマンが私達夫婦の記念撮影し、
60代ぐらいの男性の案内人兼船頭さんに引率されて、舟下り乗船場への階段を下りて向ったが、
若い20代の男女、そして私達夫婦だけが乗船客だった。

船内は炬燵が四つばかり設置されて、定員25名と明記されていたので、
私は思わず微苦笑したりした。

案内して下さる船頭さんが、船首の最前列に座り、
炬燵の最前列に私達、最後方の炬燵には若い20代の男女、そして船尾に舵取りの男性で、
この舟は出航した。


私は炬燵の上のテーブルに、『純米吟醸酒 最上川』と頂いたプラスチックのぐい呑みを置き、
身も心もゆだねるように、川沿い、そして山里の雪景色を観ながら、呑みだしたのであるが、
偶然に私の心身の波長に合う日本酒のひとつとなり、
めぐり逢えた『純米吟醸酒 最上川』に、ひたすら感謝したりしていた。

この後、渋さナンバーワンとして有名な案内人兼船頭さんが、

♪私しゃ真室川の 梅の花 コーオリャ
 あなたまた このまちの鶯よ
 花の咲くのを 待ちかねて コーオリャ
 蕾のうちから 通って来る

と『真室川音頭』の歌を唄いだしたので、私も家内も最初から手拍子して、
私は聴き惚れていたのである。


私は小学4年生の頃、母の知人に最上地域出身の方がいて、
ある日、『くじら餅』を手土産に夕暮れに来宅した。
母はささやかなお礼に、この方にお酒をだしたのであるが、
このお方は2合徳利を空けた後、私達たちの前で、
この『真室川音頭』の歌を唄いだしたのである・・。

55年前の頃であるが、これ以来、私として『真室川音頭』の歌は、
『くじら餅』の美味しい記憶と共に残っていた・・。


今回、改めて聴いたりしていたが、歌詞の真意を理解すると、妖艶さ驚いたのである。

♪蕾のうちから 通っては見たが コーオリャ
 ひらかぬ 花とて気がもめる
 早く時節が 来たならば コーオリャ
 一枝ぐらいは折ってみたい

 夢を見た夢を見た 夢を見た コーオリャ
 あなたと添うとこ 夢を見た
 三三九度の盃を コーオリャ
 いただくところで目がさめた


このような歌詞だったの、と私は少しため息を重ねたりしたのである。


私は帰宅後、この『真室川音頭』の歌を
フリー百科事典として名高い『ウィキペディア(Wikipedia)』で学んだりした、

《・・
真室川音頭(まむろがわおんど)は、山形県最北部に位置する真室川町の民謡である。
戦後にレコード化された。
現在でも町の各行事で歌われ、同町では真室川音頭の全国大会も毎年開催されている。

元唄は明治時代、千島列島・樺太の出稼ぎ労働者が歌った作業唄「ナット節」であったとされる。

大正時代になり、町に鉱山が開発され(現在は廃坑)、大日本帝国陸軍・真室川飛行場の建設工事が始まると、
全国から集まった出稼ぎ労働者達の間で、
「ナット節」の歌詞を卑猥に改変した「真室川花電車」が歌われるようになった。

一方、これとは別に、真室川出身で宮城県女川の料亭で働き、後年、真室川に戻った近岡仲江(ナカヱ)が、
やはり女川で習った「ナット節」を「山水小唄」に改変し、
真室川の料亭で歌っていた(通常は、近岡ナカヱが起源とされることが多い)。

これら源流を同じくする二つの小唄は、真室川の料亭『紅屋』の女将佐藤ハルによって、
歌詞や三味線弾きの体裁が整えられ、真室川小唄として完成した。
これが、出稼ぎ者によって全国に広まったとされる。

現在知られている歌詞は、1952年(昭和27年)に真室川町が歌詞を広く募集し、
それを織り込んだものである。
これは、「正調真室川音頭」と呼ばれ、レコード録音された。
・・》

このように解説され、私は初めて知り、そうだったの・・、
と赤面しながら遅ればせながら学んだのである。


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冬の山形県・『雪街道』の旅路は・・。 最終回 旅の終りは、新庄の街並みを散策し・・。

2011-02-21 16:22:07 | 
           最終章  旅の終りは、新庄の街並みを散策し・・。 

『最上川の船下り』を終えた私達は、舟下りの降船場に隣接した大きな建物の最上川リバーポートの前より、
待機していたバスに乗車し、『古口』駅前に向った。

左側には先ほど船下りした最上川が観え、山里から川沿いまで積雪、そして川の流れも悠然と流れ、
やはり最上川は大河であると実感されられたが、まぎれなく美景である。

『古口』駅の構内、そして駅前も殆ど人影もなく、道路に除雪された雪がうず高く積まれ、
何かしら活気から遥かに遠い寂しげな情景であった。

こうした中、『新庄』駅行きの列車を待ち焦がれていたりし、
午後4時半過ぎの列車に乗車し、『新庄』駅に下り立ったのは午後5時の少し前で、
私達は宿泊予約している駅から近いビジネス・ホテルの『ルートイン新庄駅前』に向った。

http://www.route-inn.co.jp/search/hotel/index.php?hotel_id=512
☆『ルートイン新庄駅前』 ホームページ☆

新庄は豪雪の地域として知られている通り、除雪された雪がうず高く積まれていたが、
駅構内からほんのわずかに歩道は、小奇麗に除雪され、
ホテルの応対して下さる方たちも、丁重さと覇気があり、私達は好感した。

そして大浴場に入浴した後、食事処でお互いにビールを呑みながら、
数多くの一品料理を頂いたが、程ほどの味でお値段は廉(やす)く、ビジネスマンはもとより、
私達のような年金生活者にも、確かな応援団と思え、私は盛んにビールをお代わりした。

そして家内は、街並みの食事処を探し求めて、味と価格、店内の雰囲気の不明より、
確かに安心である上、このお値段で頂けのは何よりだわ、と微笑んだりしていた。


翌日の午前中、私達は『雪の里情報館』を訪れようとして、
新庄市内の街並みを歩いた。
最上公園の周辺は、歩道などは積雪が残っていたが、道路以外は厚く積雪が残る雪の情景であったので、
私達は防寒の登山靴であり、やっと雪国の光景だ、と思いながら楽しげに歩いたりした。

そして、駅からゆっくりと20分ぐらい歩いて、歩道と駐車場だけ除雪された中、
『雪の里情報館』が観えた。

http://www.pref.yamagata.jp/ou/somu/020020/mm_bk_data/s/mampo_No63.html
☆山形県ホームページ <== 『雪の里情報館』☆


私は数多くの展示品を拝見しながら、豪雪地帯のこの地のことを多々学んだりした。


この後、やはり歩き廻り『新庄ふるさと歴史センター』に寄った。

http://www.city.shinjo.yamagata.jp/816.html
☆『新庄ふるさと歴史センター』<== 『雪国民族館』☆

私は何よりも魅せられたのは、地下階にある『雪国民族館』であった。
明治時代から昭和30年代り頃までの新庄地域に於いて、それぞれの地域で、
日常生活に愛用された数多くの品が展示されていた・・。

私の住む東京郊外の調布市にも『郷土博物館』はあるが、
昭和30年前後に急激に住宅街に変貌したので、このような一部の品でも消えてしまったので、
昭和19年に生を受けた私は、この中の一部は記憶しているので、
愛惜感を重ねながら、見たりしたのである。


この後、『新庄』駅に戻り途中から、小雪が舞い降りはじめ、
私達夫婦は、雪舞い降り情景に魅せられているので、
お互いに小声で歓声を上げたりした。

そして、駅構内の食事処で単品料理を五品を頂きながら、
家内はコーヒーを飲み、私はビールを呑んだりし、小雪舞い降る情景に見惚(みと)れたりした。

この後、私達は『新庄』駅から『大石田』駅まで各行列車で移動し、
そして午後5時半少し前の『つばさ』東京駅行きに乗車し、帰京した。
あえて、『大石田』駅に45分ばかり滞在したのは、小休憩もさることながら、私の煙草の憩(いこ)い時間でもある。

今回の旅は、まとまりのつかない旅路となったが、書き残したことが多く、
後日にカテゴリの『旅のあれこれ』で旅先のこぼれ話しとして、掲載する予定である。


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冬の山形県・『雪街道』の旅路は・・。 第8回 『最上川の船下り』、25年ぶりに・・。

2011-02-21 00:01:28 | 
           第7章 『最上川の船下り』、25年ぶりに・・。 

私達夫婦は、冬の『最上川の船下り』に関しては、深い思いがある。

私達夫婦は、子供は恵まれなかったせいか、若き頃から現役サラリーマンの多忙時期に、
ときおり国内旅行を重ねてきた・・。

奥志賀高原のリゾートホテルに滞在したり、
長野県の安曇野に近い青木湖にあるりリゾートホテルに滞在する時もあり、
或いは箱根の旅館に滞在したりしていた。

1986(昭和61)年の初春、読売新聞に於いて、
冬の蔵王の樹氷、山寺の鑑賞、そして最上川の舟下りの旅行企画の広告があった。
但し、団体観光バスツアーであった。

それまでは、私達夫婦は、団体観光ツアーは参加したことがなく、
ためらいがあった。
この頃の私達は、住宅ローンなどの返済が家計に重く圧(の)し掛かっていたが、
私は西行、芭蕉への想いが強かった時分で、格安で想いを馳せるので、参加した。

この当時は、遊び着の防寒服がなく、防寒靴も無かったので、
アウトドアの店で予算が乏しく中級程度の品しか、買えなかった。

このようにして、団体観光バスツアーに参加した。
確か2月の下旬で、2泊3日で旅行の為、初めて金曜日に有給休暇を頂いた。


東北自動車道を北上し、白河関を過ぎた頃、雪の情景もなく、
私は落胆していたことを、今でも心の片隅に覚えている・・。

観光バスは東北自動車道の高速道路を降り、米沢への一般道を走った。
峠道を抜けると、あたり一面は急激に雪景色となった。
右手の斜面は、スキー場で数10人の人達が滑っていた。
やっと雪が観られたという思いから、
南東北をお訪ずれている実感が湧いてきた。

その後、今晩宿泊する上山温泉に着き、手荷物を置いた後、家内と散策に出かけた。
積雪は60センチ前後で、除雪がされている市道を歩いた。
『上山城』を近くから観たが、心に残らずとぼとぼと歩いた後、
古びた館にたどり着いた。

分厚い草葺きの屋根に、雪が30センチ程度あり、
入り口の周辺は、うず高く積雪があった。
『春雨庵』と小さな諸札があった。

私はここが、江戸時代の時、沢庵禅師がこの地に流罪になった処だった、
かと知った。
この沢庵禅師を想い馳せれば、この雪深い地に住まわれて、
どういう思いで過ごされたか、と寒気の漂う茶室、居間を観たりした。

『この季節は大変だと思うが・・ 春から夏、秋は過ごしやすいかなぁ・・』
と私は家内に話しかけた。

ホテルに戻った後、指定された部屋に入ると、
『まぁまぁの部屋じゃない・・』
と家内は言った。

大浴場に浸かっていると小庭園が観え、雪景色となったいた。

私は、拙い俳句を呟(つぶや)いたりした・・。

部屋に戻ると、売店で購入した地酒を呑み始めた。

家内が風呂から上がって来て、
『貴方・・お湯も良かったけれど・・
打たせ湯・・良かったわょ・・』
と家内は言った。

私共は、この団体観光ツアーは、同行する人達との気心も心配することなく、
宿泊の部屋も良く、
『これでしたら、このツアー・・許せるわょ・・』
と家内の声を聴き、私は安堵した。

この和風の寛(くつろ)げた宿は、『ホテル城戸口屋』と館内の案内書に書かれていた。


朝、目覚めると雪が舞い降りていた・・。

朝食前、ロビーに行ったら、添乗員さんから、
蔵王の樹氷めぐりは、山頂付近は吹雪いていて、中止にさせて頂きます、と云われた。

その代わり山寺では、ゆっくりとした時間を取りますから・・
と云われたりした。

山寺は雪の舞い降りる中、
山全体がぽっかりとした雪の中の景観であった。
山門を入ると、長靴が数多く並べられていた。

2時間半後、先程のバスまでお戻り下さい、
と添乗員さんは大声で伝えていた・・。

ふもとの根本中堂から歩き始めると、
上り坂になり、積雪は30センチ前後あり、家内に大丈夫・・と声をかけながら登った。
途中の簡素な堂塔は、雪の中にちょこんと観えたが、
雪を掻き分けて登るほうに気を捉えたりした・・。

雪の無い季節は、石段であるが、
こうして積雪に埋もれた雪の中を山頂の奥の院を目指して登った。

私共は、先頭を登っていたが、後方に人影もなかった。
私共の観光ツアーの同行者の方達は、大丈夫かなぁ、と思ったりした。

まもなく、雪の降りしきる中、如法堂が観えた。

息を整えて、下方を見ると、雪が舞い降りる中、
平地の一面が見えて、ゆっくりと列車の走る小さな形が観えた。

私共は下った折、稲の素朴な縄が急な坂の処にあり、
中年女性の3人組が登ってきた・・。
この縄を掴(つかま)ったりしながら、歓声を上げながら、私共とすれ違う時、

『奥の院・・まだ、だいぶ先ですか・・』
と訊(き)かれた。

『もう少しですが、気を付けて・・下さい』
と私は云ったりした。

この後の行程では、この3人組とお互いに語り合うようになった。

根本中堂に戻ると、50代の上品な軽登山の出(い)で立ちのご夫婦を見かけた。
私共のツアーとは関係の無い人達で、個人旅行で寄られた様子だった。

昼食をこの付近り旅館で頂いた。
芋煮のような丼に、山芋、里芋、牛蒡、人参、蓮、牛肉が入っていた。
私は、里の作物は、幼年時代に食べ飽きていたが、
家内は、温まるわ、と言いながら美味しそうに食べていた・・。

私は冷酒を呑みながら、
先程に見かけたご夫婦のことを想い浮かべた。

あと10年後、私共はあのような夫婦になれるかしら、と思ったりした。


私達の団体観光ツアーのメンバーは、雪の中の山寺での登り降りの苦楽のお陰で、
すっかり寛(くつろい)いだ雰囲気となった。

昼食の後、最上川の舟下りの始発の処まで1時間ほどあり、
思いがけない山寺の歩きの疲れと
あたり一面快晴となり車内は温室のようになった上、
昼食後の満腹加減で、大半の人は眠りについていた。

舟下りは、快晴の中、岸辺の積雪と周辺の景観のうつろいを観ながら、
冷酒を呑んだりした・・。

下船した後、バスに乗り、しばらくすると、
あたり一面急激に吹雪いて、周囲の景色は吹雪で見えなくなった。

以前、庄内地方の方に聴いていたので、
このように快晴の合間でも、突然に吹雪いて、しばらくすると回復すると・・。

バスは10数分ぐらい立ち往生していたが、徐行しながらゆっくりと走り出した。

この後は、鶴岡の名所を観た後、宿泊先の温海温泉に着き、
翌日、雪が舞い降りる中、新潟近郊の名所を観て、一路東京に向った。

バスの中で、途中で購入した地酒を70歳前後の男性と酌み交わした・・。
この男性は、奥様連れで、私は最上川の舟下りの頃から、好感していた。

旅の終わりで、このご夫婦と別れる時、
『何時か、再び、お逢いしたいですね・・』
と私達夫婦は、談笑しながら云ったりした。


このように初めての団体観光ツアーに参加して、冬の時節に周遊したりした。
1986(昭和61)年の2月下旬だったので、
今回の『最上川の船下り』は、25年ぶりとなる。


私達は、今回の旅の二ヶ月前の頃から、
『最上川の船下り』に関してのホームページを見たりしていた。

http://www.blf.co.jp/menu_1.htm
☆最上峡芭蕉ライン観光(株)ホームページ☆

この『舟下り』、『施設案内』などを見たり、
あの当時よりも豪華な設備となった、と私は家内に云ったりしていた。


私達は舟下り乗船場の前の大きな建物の戸澤藩船番所に入り、
私は売店の一角にある日本酒のコーナーで、何か良き四合瓶はないかしら、と探した・・。
結果として、『純米吟醸酒 最上川』(小屋酒造)として、
サブタイトルには、『北国浪漫(きたぐにろまん)と明記され、
私は美味しいそうな純米酒で、心身の波長に合いそうな予感がした。


この後、この戸澤藩船番所で、担当カメラマンが私達夫婦の記念撮影し、
60代ぐらいの男性の案内人兼船頭さんに引率されて、舟下り乗船場への階段を下りて向ったが、
若い20代の男女、そして私達夫婦だけが乗船客だった。

船内は炬燵が四つばかり設置されて、定員25名と明記されていたので、
私は思わず微苦笑したりした。

案内して下さる船頭さんが、船首の最前列に座り、
炬燵の最前列に私達、最後方の炬燵には若い20代の男女、そして船尾に舵取りの男性で、
この舟は出航した。


私は炬燵の上のテーブルに、『純米吟醸酒 最上川』と頂いたプラスチックのぐい呑みを置き、
身も心もゆだねるように、川沿い、そして山里の雪景色を観ながら、呑みだしたのであるが、
偶然に私の心身の波長に合う日本酒のひとつとなり、
めぐり逢えた『純米吟醸酒 最上川』に、ひたすら感謝したりしていた。

そして、案内人兼船頭さんの四曲の唄声に、手拍子したり、
或いは周辺の案内を聴いたりしていると、時を忘れるかのように過ぎていく・・。
まもなく、舟下りの降船場に着岸し、私達は大きな建物の最上川リバーポートへの階段を上がった。

そして、一角に乗船前に撮影して下さった写真が掲載されていた。
私は夫婦の記念写真に瞬時に最適と思い、千円を支払った。
そして、私達夫婦としてお互いに微笑んだ珍しい記念写真で、
私は家内に見せながら、良き記念写真となったねぇ、と私は微苦笑しながら家内に云ったりした。

                             《つづく》


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冬の山形県・『雪街道』の旅路は・・。 第7回 銀山温泉に別れを告げ、そして最上川に・・。

2011-02-20 17:49:51 | 
           第6章  銀山温泉に別れを告げ、そして最上川に・・。 

旅館街の中ほどにある『旅館 永澤平八』に4日間ほど滞在し、
17日の朝9時半過ぎにチェックアウトし、
この『旅館 永澤平八』のマイクロバスで最寄のJR奥羽本線の『大石田』駅まで送迎して為に、
同宿した人と談笑をしながら、旅館街の外れまで歩いたりした。

過ぎされば短かな4日間であったが、前半は小雪が降ったりやんだりした後、
曇り日、そして晴れ時々曇りとなり、旅館前の石畳みの歩道は雪も消え去り、
旅館の屋根、わき道、そして周囲は積雪が厚く残っていた。

そして私達はマイクロバスに乗り込み、
やがて走り出し坂道を上りきると、後方の下方は谷間の中、銀山川の両側に、三層四層の古き木造旅館が建ち並び、
観光客を除けば、わずかな住民の営みの息遣いを感じ、そして情緒をかもしだす情景を眺め、
私は何かしら愛惜感を心の片隅に秘めながら、銀山温泉に別れを告げた。

こうした心情は、前日の冬晴れの中、私達は旅館街の外れまで散策し、
下方に展開する銀山温泉の前景を眺めた時にも感じたことである。


JR奥羽本線の『大石田』駅前は、わずかに人影が見られる程度で閑散としていた。
13日に初めて訪れた時は、小雪舞い降る中、町の子供向けの雪遊びのイベントが開催され、
親に守れながら幼児の歓声が聞こえたりしていた。

私達は最上地域の『最上川の船下り』をする為に、
悪天候を配慮して、付近の新庄のビジネス・ホテルの『ルートイン新庄』に1泊宿泊の予約をしていたので、
奥羽本線を北上し『新庄』駅に向った。

そして、『新庄』駅の新しい構内の広さ、利便性に微笑みながら、
駅から近いビジネス・ホテルの『ルートイン新庄駅前』に寄り、大きめの旅行バックを預かって貰い、
その後は駅から150メートルぐらい離れた蕎麦屋で、昼食とした。

そして、『新庄』駅より陸羽西線で『最上川の船下り』の乗船所の最寄駅の『古口』駅まで乗車したが、
列車内は閑散として、数えるばかりの乗客であった。

この後、『古口』駅で下車したのは1時半過ぎで、
『最上川の船下り』の乗船所行きのバスが待機していたので、わずかな距離であったが、
私達は乗車した。

                             《つづく》


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冬の山形県・『雪街道』の旅路は・・。 第6回 銀山温泉の和洋菓子、お酒のつまみは・・。

2011-02-20 13:30:46 | 
           第5章  銀山温泉の和洋菓子、お酒のつまみは・・。 

旅館街の中ほどにある『旅館 永澤平八』に4日間ほど宿泊し、
たまたま3階の部屋の窓辺から、早朝、朝食後、昼下り、夕暮れ、そして夜の8時過ぎなどに、
ときおり眺めたりしていた。

そして数多くの観光客が、狭い旅館街の石畳みの歩道を散策され、
私達夫婦もこの歩道を幾たびか歩いた。

こうした中、何軒かのお土産屋で和洋菓子、地酒を買い求めたりした。、

私は日本酒が大好き呑兵衛のひとりであり、雪舞い降り情景を眺めながら、
秘かに地酒を呑むことを楽しみにしていたので、程ほどの価格の地酒を三種類を買い求めたが、
無念ながら心身の波長に合わなかったのである。

こればかりは私なりに女性への好みと同様に、
男の子として妥協できないので、ゆむえずビールを友とした。

こうした時、家内が買い求めた『殿様のただちゃ豆』が、おつまみに最適と私は微笑んだりした。
枝豆をむし豆にフリーズドライの風味ある豆で、
鶴岡産のただちゃ豆100%と明記され、ただちゃはお父さんの愛称でもあると付記され、
私は微苦笑させられたりした。

これと同じように、おつまみとして愛食したのが、
『秘伝 煎り豆』で、東根市の戸田商店から製造された大豆で、
節分の日に煎った大豆を長年頂いてきたが、遥かに風味はもとより固さも最上であった。


今回、滞在していた間、私は異例なほど和菓子を頂いた。
『くるみゆべし』の程々に固い風味豊かさに、魅了されたのである。

http://www.meiyuu.com/cgi-bin/cgis/goodslist.cgi?mode=view_detail&this_num_genre=&this_num_goods=&genre_id=00000002&goods_id=00000002&sort=
☆(株)明友 『くるみゆべし』☆

このサイトに明記されている通り、
《・・
くるみ、ごま、栗などの木の実を餅粉とまぜ、味をつけて蒸したもので
当店のゆべしはクルミがたっぷり入っています
・・》
くるみが基調されたほど程の固さ、そして何よりの風味に好感した。


そして『くじら(久持良)餅』は、私にとっては懐かしく、最優先で頂いた。
私が小学生の4年生の頃、母親の知人が最上川の周辺が生家であり、
黒っぽく蒲鉾(かまぼこ)を大きくしたような形の餅を頂いたのである・・。
最初の数日はやわらかく、その後は固くなり、少し炭火であぶって頂いたのであるが、
私としては58年近く前の頃であるが、香ばしさが残っていた。

http://www.pref.yamagata.jp/ou/somu/020020/naradeha_main/200004pin.html
☆山形県『味な山形』<== くじら餅☆

私はみそくるみ、黒砂糖くるみ、そして白砂糖くるみの三種類のくじら餅を頂いたが、
懐かしさの余り、黒砂糖くるみを家内の分まで食べたりした。
家内は、私の満足した表情に、平素は余りに和菓子を食べない私に驚き、
微笑んだりしていた。

この後、私達は最上川の舟下りの時、私はこの味の地酒にめぐり逢えたり、
くるみゆべしに関しては、『みちのくゆべし』のくるみ味は最良である、
と私は家内に幾度も絶賛の言葉を重ねたりした。

                             《つづく》


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冬の山形県・『雪街道』の旅路は・・。 第5回 銀山温泉の旅館街の情景は・・。 

2011-02-20 11:20:26 | 
           第4章  銀山温泉の旅館街の情景は・・。 

銀山温泉は銀山川を挟んで両側に、三層四層の木造旅館が建ち並び、
夕暮れ時には旅館街の前の石畳みの脇に点在するガス灯、そして数多い橋にも点(とも)り、
各旅館の屋号を描いた灯り取り、各部屋からの灯りが街並みを照らす情景が知られている・・。

特に冬の時節は、雪深い街並みは、各旅館の層をなした屋根の雪、石畳みの歩道、
そして橋も雪に覆われて、より一層情緒をかもしだす情景となる。

このような言葉を集約すれば、
郷愁を感じるノスタルジックな街並み、
と称した銀山温泉組合のホームページに表現されているが、
まぎれない最適な表現かしら、と感覚的にもうなづける。


http://www.ginzanonsen.jp/
☆【 銀山温泉組合 】ホームページ ☆

私はこのホームページに上段に掲げられている四季折々の街並みの叙景を見たりし、
巧く表現されている、と微笑んだひとりである。


私達夫婦は、旅館街の中ほどにある『旅館 永澤平八』に4日間ほど宿泊し、
たまたま3階の部屋の窓辺から、早朝、朝食後、昼下り、夕暮れ、そして夜の8時過ぎなどに、
ときおり眺めたりしていた。

そして数多くの観光客が、狭い旅館街の石畳みの歩道を散策され、
私達夫婦もこの歩道を幾たびか歩いた。

何軒かのお土産屋で和菓子、地酒を買い求めたり、
石畳みの歩道の川沿いに『和楽足湯』と称した足湯の湯煙を眺めたり、
街外れの高台から、この旅館街の情景を眺めたりした。


私は滞在中に散策する時、
来館した時は厚手のスポーツシャツ、セーター、冬のフィールド・ジャケット、そして登山靴であったが、
『旅館 永澤平八』にある長い防寒性のあるフィールド・コート、長靴をお借りした。
厚手のスポーツシャツーにマフラー、そして長い防寒性のあるフィールド・コートを羽織れば、
寒さを感じることはなかった。

そして、ときおりガス灯の点(とも)りはじめた夕暮れ時に、
独りで散策したり、橋にたたずみ、左右の旅館の灯りを眺めたりしていた。


この翌日の昼下り、滞在している『旅館 永澤平八』の貸切風呂の入浴後、
部屋に戻る途中の廊下のはずれに、一枚のポスターが貼ってあるのに、長らく見惚(みと)れていた。

《・・
     ふたたび、旅へ。

時間旅行へ、出かけませんか。

猛スピードで走ってきた、私たちの世代。

たまには、止まっているような時間を楽しみませんか。

あの人と行くなら、たとえば山形県の「銀山温泉」。

大正の面影が色濃く残る風景の中にいるし、

ふたけだけでその時代に紛れ込んでしまったような

ロマンチックな気分に浸れます。

あなたは誰と、いつ、出かけますか。

・・》

このように描かれていたポスターであり、

晩秋の旅館街の橋にガス灯が点る中、各旅館からの灯りを情景を眺め、
たたずんでいる女優・吉永小百合さんが映し出されていた。

そして、下段にはJR東日本の『大人の倶楽部』と明示されていた。


私はこのポスターを見ながら、5年前の頃から私より少し若い団塊の世代が定年退職時となりはじめたので、
この当時のポスターかしら、と微笑んだりした。

                             《つづく》


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冬の山形県・『雪街道』の旅路は・・。 第4回 銀山温泉の歴史を学びながら

2011-02-20 00:07:23 | 
           第3章  銀山温泉の歴史を学びながら

私は滞在旅行をする時には、その地域の歴史をつたないなりに学ぶ習性がある。
その地域に於ける風土・文化などの形成は、その地域に住まわれる人々の長年の歳月の蓄積が歴史であり、
たえず人々の間(あいだ)で育(はぐく)まれた結果が現代であり、
やはり無知な私でも、ささやかながら学ぶことが多いのである。

今回の銀山温泉の歴史は、ネットで旅立つ前に精読したりした。

http://www.ginzanonsen.jp/rekisi.html
☆【 銀山温泉組合 】ホームページ 『歴史』☆

私はこのホームページに縋(すが)り、ひたすら教示された・・。


そして、旅先の銀山温泉『旅館 永澤平八』で滞在している時、
談話室のような一室で、旅行観光先の宿泊所などの案内書を読んだりしていた時、
『最上銀山湯 今昔物語』の記事にに注目させられ、私は精読したりした・・。

この本は、『旅美人 SPECAIL』2006年11月に、(株)ニュー出版より発刊され、
『ふたりで過ごしたい 和の隠れ宿 全国85軒』と題された増刊号であった。

この中の特集のひとつとして、『最上銀山湯 今昔物語』が掲載され、
綴られた作者は、飯塚玲児(いいづか・れいじ)氏であった。


私は記事の一部をノートに走り書きでメモしたのであるが、この部分を無断ながらて転載させて頂く。

《・・
江戸後期の温泉番付『諸国温泉功能鑑』に「うち身かっけ 最上銀山湯」として登場するのが銀山温泉。

現在もなお三層、四層の木造旅館が狭いエリアに軒を連ね、
まるで100年の昔から時の歩みを止めてしまったような、
しっとりとした風情がある。

その歴史を訪ねて、川沿いの旅館街を歩いた。


”出羽の銀山 裸でいても
 金や 宝は掘しだい
 金がほしけりゃ 最上に往けよ
 最上銀山かねがわく”
とうたわれた山形県の延沢銀山。

江戸時代には石見(島根)などと並ぶ三大銀山として繁栄したこの銀山は、
しかしわずか100年ほどで、幕を閉じてしまった。

だが当時から、そして現在もなお、銀山の地に湧き続けているものがある。
”かね”でも”銀”でもなく、”良質な温泉”だ。


江戸時代の温泉というのは、基本的に湯治が目的である。
農家では、正月湯治に始まって、
寒湯治、田植え前の湯治、草刈り前の湯治、夏湯治、借り入れ後の湯治、
という具合に、年中行事として節目ごとに湯治に訪れるものだった。

銀山温泉は、そうした湯治場として歴史をスタートさせた。
だが江戸時代には、湯治客以外は宿に泊まることができなかったそうだ。

明治6年(1873)の資料によれば、
銀山の全戸数は39、うち宿屋は13軒。
ちなみに今の銀山も宿は13軒、戸数は40戸でほぼ同じまま。
いわば100年以上も、時の歩みを止めているともいえる。

大正2年(1913)に銀山川の大洪水があり、ほとんどの宿が流された後、
大正10年(1921)に大石田の大地主が、銀山川の水を利用して発電所を造った。

その後、昭和元年(1925)に温泉ボーリングで高温多量の湯が湧出し、
これを期に各旅館がこぞって改築して新たに登場した温泉街の建物は、
木造三層、四層のいわゆる”擬洋風建築”だった。

最近に於いては、ガス灯の設置、川沿い道の石畳造り、そして電線の地下埋設となった。
・・》

確か3ページで、当時の写真も添付された長い記事があったが、
この中の一部を私は転記しながら、
人々のそれぞの時代の生活の営みの苦楽に、思いを重ねたりした・・。


                             《つづく》

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冬の山形県・『雪街道』の旅路は・・。 第3回 銀山温泉『旅館 永澤平八』 

2011-02-19 17:41:03 | 
           第2章  銀山温泉『旅館 永澤平八』

昨年の夏過ぎに、雪舞い降る時に銀山温泉に行って観たいわ、と家内は私に云ったが、
旅館街の朝、夕暮れ、そして夜景を眺められる宿泊を旅行会社のバンフレット、ネットなどで調べた結果、
旅館街の中ほどにある『旅館 永澤平八』に宿泊することに選定したのは、
昨年の10月過ぎで、せっかく訪れるのだったら、ゆっくりと4連泊として、旅行会社に申し入れた。

http://www.ginzanonsen.jp/nagasawa/
☆銀山温泉『旅館 永澤平八』 ホームページ☆


そして、部屋の窓辺から街並みが良く観えることを前提条件で、
今回の旅行予定日も決めたくらいであった。


江戸末期に創業と伝えられる『旅館 永澤平八』は、
大正14年に新たに片母屋造りの木造3階建てとなり、
一階の格子をはじめ、1階と2階には破風が張り出していた。

階段は松で、階段の手すりの部分は楕円細工がほどこされ、
いつの日にやむ得ずニスを上塗りしたが、長年の愛用されてきた歳月を感じさせ、
磨耗されながら、光沢帯びていた。
屋根の上には、屋号を描いた灯り取りの塔屋が聳(そび)え、
建物全体からも大正時代をかもし出す情緒ある旅館である。


私は到着後、3階にある半露天の貸切風呂、1階の男女別の大浴場の内風呂を知ったが、
私達の3階の部屋から、私はたまたま近くの半露天の貸切風呂に入った。
『入浴中』の木札にした後、浴室に向かい、青森ヒバ材で造られた湯舟の中から湯を数杯を身体にかけ、
熱すぎて驚き、源泉63度だったことを思いだし、やむ得ず水を加水した。

源泉から湯舟で空気にふれて、半露天の浴室で冬の寒さも加わっていても、
たぶん50度過ぎだったと感じさせる熱さであった、と思えた。
そして、45度ぐらいの熱めの湯に、身も心もゆだねて、やっと念願叶って、
遠い銀山温泉に訪れた、と実感を重ねたりした。
その後、部屋に戻っても、しばらくの間はポカポカとした状態で、
まぎれく良質な湯質で、心身波長が合うかしら、と私は微笑んだりした。


翌日、朝の9時半過ぎに、もうひとつの半露天の貸切風呂に私は入ったが、
ひとまわり大きな浴室で、開放感もあるが、格調もある由緒を瞬時に感じられる浴室、そして湯舟であった。
私は湯舟に身にあずけながら、心の片隅で、お供さえ仕替えていれば、その昔に諸国の殿様の気分のようになり、
まぎれなく贅沢なひとときを過ごしたのであった。
そして、これまでの私としては、程ほどの価格帯のリゾート・ホテル、観光ホテル、旅館などの貸切風呂に於いて、
つたない私の知る限り、圧倒的に好感した浴室、湯舟であった。


この日の昼下り、私は一階の談話室のような処で、
地方紙の山形新聞を読んでいた時、偶然に壁面の一枚のポスターが見えた。
女優の吉永小百合さんが、私の好感した浴室と湯舟で、
半纏と浴衣を召した容姿で、この湯舟に手をそぉ~と入れている情景のポスターであり、
私は微苦笑しながら、30秒ぐらい見つめたりしていた。

そして、JR東日本の『大人の倶楽部』のポスターで、
たまたま銀山温泉に於いて、私達の宿泊した宿の私も好感した浴室、湯舟が選定されていたのである。


私達夫婦は、3階の部屋から、お互いに幾たびか風呂に行ったり、
窓辺から旅館街の前の石畳の歩道を歩く多くの観光客を眺めたりしたが、、
ときおり私は持参した本を読んだりしていた。

そして朝のひととき、昼下がり、夕食前の夕暮れなどに、散策した。
この時の思いは、次章で綴る。
                             《つづく》

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冬の山形県・『雪街道』の旅路は・・。 第2回 雪舞い降る中、山形新幹線の『つばさ』の列車は・・。

2011-02-19 11:32:48 | 
           第1章  雪舞い降る中、山形新幹線の『つばさ』の列車は・・。

2月13日、山形新幹線の特急『つばさ』で東京駅9時24分発に予定通り出発し、
私達夫婦はこの『つばさ』を乗車のは、初めてであった・・。
周知のように、この列車は東北新幹線と福島駅まで連結された後、
在来線の奥羽本線の山形県の新庄駅までを結ぶ路線を走行する列車の愛称である。

この間、『福島』より、『米沢』、『赤湯』、『かみのやま温泉』、『天童』、『さくらんぼ東根』、
『村山』、『大石田』、そして『新庄』まで各駅を停止しながら走行する列車であり、
この時節は、雪の情景となる。

私は東京駅から一時間ぐらいの東北新幹線の『新白河駅』の前にある白河の関を過ぎた頃に、
車窓から雪景色を秘かに待ち望んでいた・・。

関東南部は冬晴れ恵まれた長い日々が多く、乾ききった空気につつまれていたので、
期待していた予感した通り、白河の関を走行する少し前の頃から、
遠方の里山は白き積雪が観られ、人家が点在する屋根、一部の田畑、雑木林は、雪景色となり、
こうした景観を眺めて、初めて旅人のひとりと実感できた。

そして、『福島駅』で連結した東北新幹線に別れを告げた後、
私達の乗車した『つばさ』は、新庄駅を目指して北上し、
『米沢駅』の前の大きな峠を越える頃になると、周辺は豪雪の情景に変貌した。

山里の植林された樹木、雑木林、そして人家も1メートルを超えて状況で、
雪深いこの地域を改めて実感させられて、私は車窓から長らく見惚(みと)れていた。

こうした中で、雪は舞い降り、風も増して、地吹雪となり、
『赤湯駅』の少し前で、『つばさ』は立ち往生し、15分ばかり一時停止した。
そして、風が弱まり、ふたたび走行し、私達の下車する『大石田駅』に下り立ったのは、
12時40分過ぎであった。

雪が舞い降り、風もなく、駅前の広場は、
大石田町の冬のイベントが開催されて、多くの地元の家族の人たちが、
子供たちが楽しめる雪の競技などで、賑(にぎわ)って、
ときおり幼児たちの歓声が聞こえてきた。


私達は、宿泊する『銀山温泉 旅館永澤平八』の送迎マイクロバスの午後1時40分まで、
昼食の代わりに、駅構内に隣接したそば処の『ふらりゅう』に入店した後、
私は十割そばの山かけとろろ蕎麦を頂きながら、ビールを呑んだりした。、

家内は十割そばの板そばを食べたりしていたが、
私はやはり十割そばの歯ごたえのある固さ、濃い蕎麦の風味に満足し、
私の好みの蕎麦のひとつである。


この後、送迎マイクロバスの待合時間となり、私達は乗車したが、
私達の乗車した『つばさ』の後続の新幹線が遅延しているので、
やむえず送迎マイクロバスは、私達夫婦のたったふたりだけの乗客となり、
積雪1メートルを遥かに越えた大石田町の街並み、郊外を過ぎて、
30分ぐらいで銀山温泉の街並みが観えた。

そして小雪舞い降る中、私達は案内されながら、旅館街を歩きながら、
『旅館永澤平八』に向った・・。

                              《つづく》

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冬の山形県・『雪街道』の旅路は・・。【2011.2.13. ~ 2.18.】 第1回

2011-02-19 08:26:41 | 
           序 章

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
家内との共通趣味のひとつとして国内旅行であるが、
日本の各地の四季折々の情景に限りなく魅了させられ、夫婦の旅を重ねている。

今回の旅路は、広い山形県の中、村山地域の一部に銀山温泉があるが、
私達夫婦は未知の世界であり、
昨年の夏過ぎに、雪舞い降る時に銀山温泉に行って観たいわ、と家内は私に云った。

このような思いはじめた旅路で、
その後は私達は、JTB、JR東日本の『びゅう』の旅行バンフレットで検討したりした。

結果として、雪が舞い降る確率の多い今年の2月の中旬を選定し、
東京駅より大石田まで『つばさ』を乗車し、
銀山温泉の旅館街の中ほどにある『旅館 永澤平八』に4連泊して、
街並み、そして付近を散策をする。

その後は、最上地域の『最上川の船下り』をする為に、
悪天候を配慮して、付近の新庄のビジネス・ホテルの『ルートイン新庄』に1泊宿泊し、
帰路は新庄駅より『つばさ』で、帰京する5泊6日とした。

旅立つ数週間前頃から、平年より山形の村山・最上地域も積雪が多い、とニュースなどで視聴したりしてきたが、
私達夫婦は旅人として、雪の舞い降る情景は愛惜と愛哀感を秘めて、何かと心を寄せられる。
もとより現地のお住まいの方たちは、この時節は毎日過ごされる労苦は大変であるので、
雪害に遭わず、交通に支障がない程度に、程々に降ってね、と話し合ってきたのである。

このような思いを秘めながら、
この時節の山形県の村山・最上地域も、『雪街道』と称せられたりしているが、
私達夫婦のささやかな旅先の心情を連載する。


やまがた観光情報センターの山形県内の区分に寄れば、
《・・
村山地方・最上地方・置賜地方・庄内地方の大きく四つの地域に分かれ、
それぞれ特有の文化・自然が展開されており、様々な観光が楽しめます。
・・》
と明記されている。

村山地方の市町村は、
山形市、天童市、上山市、寒河江市、東根市、村山市、尾花沢市、朝日町、大石田町、大江町、河北町、中山町、西川町、山辺町
とされて折、
そして最上地方地方の市町村は、
新庄市、金山町、最上町、舟形町、真室川町、大蔵村、鮭川村、戸沢村
と定義されている。

                              《つづく》

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雪の舞い降ることの多い山形の旅路、私達夫婦は訪れるので、投稿文は中止・・。

2011-02-13 01:17:15 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
東北地方の山形県の銀山温泉に滞在し、その後は最上川の船下りの旅路をする。

私達夫婦は国内旅行は共通趣味のひとつであるが、
銀山温泉は未知の世界であり、
昨年の夏過ぎ、雪舞い降る時に銀山温泉に行って観たいわ、と家内は私に云ったりした。

そして私達は、JTB、JR東日本の『びゅう』の旅行バンフレットで検討したりし、
結果として、雪が舞い降る確率の多い今年の2月の中旬を選定し、
東京駅より大石田まで『つばさ』を乗車し、
銀山温泉に4泊して、街並み、そして付近を散策をする。

その後は、『最上川の船下り』をする為に、
悪天候を配慮して、付近の新庄のビジネス・ホテルに1泊宿泊し、
帰路は新庄駅より『つばさ』で帰京する5泊6日とした。

このような旅程を、いつものように自宅の最寄り駅の付近にある旅行代理店に予約したのは、
昨年の10月下旬であった。


そして初冬の旅路として、12月14日より、青森県の十和田湖の山奥にある『蔦(つた)温泉』に4泊した後、
やはり悪天候を配慮して、青森市内の『青森グランドホテル』に1泊、
その後は日本海の黄金崎の『不老ふ死温泉』に3泊し、8泊9日で訪れたりした。


ここ数週間、平年より山形の新庄地域も積雪が多い、とニュースなどで視聴したりしてきたが、
私達夫婦は雪の情景は魅了されるタイプであるが、
もとより現地の方たちが雪害に遭わず、交通に支障がない程度に、
程々に降ってね、と話し合ってきたのである。


私は定年退職後、まもなくしてブログの世界を知り、
旅行とかパソコンの故障などしない限り、日々数通を投稿し6年目となっている。

私の投稿文は原則として自宅の居間で、ディスクトップのパソコンに向いながら綴っている上、
恥ずかしながら携帯電話さえ使えなので、
この広い世の中で保有していない稀(まれ)な国民のひとりであり、
まして昨今、携帯電話はスマートフォン、パソコンはスマートパッドの時代になります、
と何かの雑誌で読んだりすると、遥か遠い世界のような出来事と思ったりしている高齢者2年生の身である。


ひととき奮戦して、ミニ・ノートパソコンを購入して、
旅先などで日々の投稿の持続を考えたりしたことはあったが、
旅先の情景や情感を受け止めることに専念した方が、
のちの思いが深まると確信している古い人のひとりである。

そして旅先で魅せられたこと、教示されたことなどをノートを持ちながら、
メモ程度に書き込んだりしている。

このような古い世代のひとりなので、2月13日より18日までは投稿文は、
休止とさせて頂く。


帰宅後、つたないなりに心を揺さぶられたこと、ときめきを感じたことなどを
素直に綴る予定である。

そして、何よりも秘かに願っていることは、
一夜でも満天のたわわな星を観られたり、
古来から月冴(さ)えると称された、この時節の夜空で、月が煌々と光帯びた情景が観られたら、
私はこれ以上の幸せのひとときはない、と思ったりしている。


尚、私のこのサイトの左側にあるカテゴリーで、
『旅』145編、『旅のあれこれ』177編を投稿している。

『旅』に関しては、旅の最中に感じたことを発露した紀行文の形式、
『旅のあれこれ』は、帰宅後の旅先のこぼれ話、旅の思いを素直に綴った散文としている。
お読み頂き、ご笑話を頂ければ、幸甚である。


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定年退職後、初めての冬の旅は、雪上車に乗り『みやぎ蔵王 樹氷めぐり』に思いを馳せ・・。

2011-02-12 15:49:53 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
昨日、霙(みぞれ)が降る中、ときおり小雪が舞う一日であったが、
日中のひととき、家内と旅のこぼれ話しなどをした。

私達夫婦の共通趣味のひとつとして国内旅行であるが、
この時に、私が定年退職した2004(平成16)年の秋の後、冬の旅の話題となった。

退職時の直前に、家内の父が病死し、私の退職に関する用事も重なり、
慌ただしい日々を過ごし、家内の父の納骨の法事を終えた後、
独り住まいとなった家内の母を私達夫婦は、お寺から近い温泉に誘った。

11月月末頃で、千葉県の房総半島の中核にある上総亀山温泉の観光ホテルに2泊3日で滞在した後、
私達夫婦は12下旬に、福島県の土湯温泉に3泊4日で滞在し、
年末年始には家内の母を我が家に迎えて、共に過ごした。


このように過ごした新年明けに、ある旅行会社から郵送された小冊誌で、
蔵王の樹氷を雪上車で観る、というオプション・ツアーを知り、
私達夫婦は、この宮城県側から観る蔵王の樹氷について、ネットで検索したりした。

http://www.zao-sumikawa.jp/zao_jyuhyoumeguri/
☆【みやぎ蔵王 樹氷めぐり】ホームページ ☆


私達夫婦は、雪舞い降り温泉地で滞在し、付近も散策が出来る上、
オプションとして、雪上車に乗りながら宮城蔵王の樹氷を観るツアーがあるので、
私達は3泊4日の団体観光ツアーに参加したのは、1月下旬であった。


私達夫婦が冬の旅に魅せられるのは、
私は雪が舞い降る情景の温泉旅行は、家内も好きであるが、
何より雪の中を散策するのが、私達の好みだった。
全てが浄化されるような光景が私どものお気に入りだった。
このような旅は、ここ20数年ぐらい続けてきた。

私は厚手の冬のフィールド・コートとマイナス15度ぐらいの耐久の軽登山靴、
家内のはマイナス30度に耐えられる軽登山靴で、寒い旅行の際、散策をするのに向いていると思う。
以前、流氷・雪祭りの際は効果的だった。
そして帽子は、私は山岳用を愛用し、家内のはロシア婦人がかぶる様な形のを気にいっている。

雪の中を散策し、その地方の風情を享受し、ホテルに戻り、風呂に入り、
その後に地酒を味わう幸福感は何物に変えがたいことである。


この当時の頃は、私はブログにはメモ程度しか記載していなかったので、
思いを馳せながら綴る。

確か東京駅から東北新幹線で白石蔵王駅を往復し、
宮城蔵王ロイヤルホテルに滞在した3泊4日の団体観光の直行直帰と記憶している。

雪が降りしきる中、付近の山里を散策したり、その後は温泉街を歩き廻ったりした。
そして、ホテルに戻り、風呂に入った後、地酒を呑んだりしたが、
持参した本を読んだりした。

確か持参したのは、塩野七生・著の『男の肖像』の文庫本で、
一章を読み終えると、その時代を取り巻く状況を反復し、思索する。

部屋から前方に雪が降りしきる空と地上までの空間を見詰め、著者の思考に考え込む・・。
こうした時を過ごせるのは、贅沢なひとときと感じている。

http://www.daiwaresort.co.jp/zaou/
☆ 宮城蔵王ロイヤルホテル ホームページ ☆


肝要の《みやぎ蔵王 樹氷めぐり》に関して、綴る。

オプション・ツアーに参加した10名と共に、
ホテルからスキー場まで四駆のマイクロバスで送迎して頂き、
スキー場から雪上車に乗り換えて、私達夫婦は初めての雪上車に乗り、やがて蔵王の山頂までめざした。

深い雪の中で何とか雪上車が走れそうな路を探し見つける先導するスノー・モービルの後に、
雪上車は100メートルぐらいで後続しながら走り、
私達は車窓から雪景色の樹木の見惚(みと)れたりしていた。

結果としては、9合目ぐらいで下車し、烈風の中で樹氷を誉めたりしたが、
足元の積雪でとられ、激しい風で舞いあがる雪・・
私はデジカメで周辺の光景を撮る余裕がなかったが、
厳しい状況にさらさわれながらも、心身実感できて、私達はお互いに高揚した。

この後、ゆっくりと雪上車は下り、ときおり私達は下車した。
そして、大きなヒマラヤ杉の群生があり、
数多くのヒマラヤ杉の樹木が雪の重みに耐えかねて、枝葉が垂れ下がり、
まるで「かまくら」のようになり、
この中のひとつに、私達夫婦は無邪気に入り、厳しい冬の時節を嬉しげに堪能した。

そして、私は雪上車の車内、下車した時などで、
係員の方と談笑を重ねたりした。


私達夫婦は、一期一会と古来から伝えられている名言のように、
係員の方との出会い、そして樹氷めぐりの情景に圧倒的に魅せられたのである。


このようなことを私達夫婦は、思いだすような居間で、語り合ったのである。

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