夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『おわら風の盆』、ささやかな私の思いは、夢うつつの時と思い馳せ・・。

2011-09-11 17:37:27 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
午前中のひととき、サラリーマンだった50代の時に人事異動で知り合った友人から、
以前、懇親会で逢った時、あなたが『風の盆』を絶賛していたので、
遅ればせながら、月初め、私たち夫婦も観に行ってきたよ、
と電話連絡があり、良かったでしょう、と私は応〈こた〉えたりした。


私たち夫婦の共通趣味のひとつは、国内旅行であり、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職した私は、家内から、
いつの日にか『越中七尾 おわら風の盆』を観に行きたいわ、と言われたりしていた。

結果として、2006〈平成18〉年の9月1日に、
ある旅行会社の1泊2日の周遊団体観光で、初めて『風の盆』を鑑賞し、
翌日は、周辺をめぐる小旅行をした。


私はB型の思いこみの激しいひとりで、この旅立つ前は、
私なりにその地の情景を勝手にイメージし、心に片隅に創り始めてしまう習性がある。


初秋の風が吹き、夜の7時過ぎになると、家並みに沿ってぼんぼりの淡い灯りの中、
胡弓と三味線の物悲しく哀愁帯びた音色が聴こえて来た。

涼しげな少し華やいだ浴衣の女人の30数名が音色に合わせ、
踊りながら近づいてきた。

女人達は編笠の間から少し顔を覗かし、
目元は見えないが、時折、うなじが見えて、
わずかに裾が乱れながら、私の前を通り過ぎていく・・。

私は妖艶な容姿にときめきを感じて・・


このようなこと思い託〈たく〉し、夢の世界のような夢幻のひとときを思い創りあげたりしていた。



『越中七尾 おわら風の盆』の現(うつつ)の世界は、
夕方、町並みを散策し、編笠を被った浴衣の女人、はっぴ姿の男性を見かけ、
夜の本祭りの期待を増していた。

私たち夫婦も観光客のひとりであるが、普段静寂な街に多くの観光客が押し寄せていた。
3日間の本祭りの間、25万人前後の方たちが訪〈おとず〉れる、と聞いたりしていた。

陽がくれると、ぼんぼりの淡い灯りが家並みに沿って帯状となり、幻想的な街並みの光景となり、
このような中で、胡弓と三味線、そして小太鼓の音色が聴こえ、祭りの始まりに相応しい状況となった。

まもなく小雨が降りだして、10数分後には止(や)んだりし、
街の中央の通りには、観客のサービスとして、男女一組の模範踊りが披露された。
この最中に、小雨が再び降りだして、観光客の私たちは、それぞれ軒下で雨宿りをしたりした。

この後も降ったりやんだりし、夜の村雨(むらさめ)となった。


街並みを練り歩く「町流し」もわずかとなり、常設の『おわら演舞場』で拝見した後、
家内と街の中を傘を差して、散策したりした。

帰路の時、ある街の1軒のお宅の広間で、長老数名の前で、男女三組が踊りを披露していた・・。
街の中で観た人達より、格調性があり、ほのかな哀歓が漂っていた。

私が夢みた夢幻の世界と現実の現(うつつ)の世界が重なり始めたが、
10分過ぎると終わりを告げて、私達はその場を離れ、雨上がりの清々しい中、集合場所に向かった。


そして真夜中の12時に集合となり、その後は宿泊先の金沢のホテルに着いたのが、
深夜の2時半前であった。


このような『風の盆』の旅路を、ささやかながら思い馳せたりした。


私は『おわら風の盆』に魅了されたひとつには、
少し華やいだ浴衣で編笠の間から、少し顔を覗〈のぞ〉かし、
時折うなじが見える容姿、しぐさに惹かれる・・。

目元が見えない表情に妖艶を感じ、編笠を女人に被らせ発想した人は、
美の世界を識ったお方と思っている。

もとより隠れた秘めたる美こそ、日本古来の美の伝統に相応しいと確信している。


昨今の若き女性の多くの人達は、肌などを露〈あら〉わにすれば妖艶、と勘違いする方もいるが、
こうした『おわら風の盆』の編笠に隠れた表情の美しさ、そしてしぐさを学んでほしい、
と余計な事を思ったりしている。


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愚図〈ぐず〉の高齢者の私でも、この一週間は慌〈あわ〉ただしく過ごし・・。

2011-09-11 11:02:25 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


このような生活を過ごして年金生活7年生となっているが、
この一週間ぐらいは、アメリカで2001年に発生した『同時テロ9.11』に関して、
10年目となるので、テレビで特集番組を視聴したり、読売新聞の特集記事を精読したりしている。

そして、過ぎし3月11日に我が国で発生した『東大日本大震災』そして『福島原発』は、
まもなく半年となり、やはりテレビで特集番組を視聴したり、読売新聞の特集記事を精読したりしている。

もとより『同時テロ9.11』、『東大日本大震災』そして『福島原発』は、
拙〈つたな〉い私でも、発生当時より震撼させられた。


『同時テロ9.11』には関しては、アメリカはもとより紛争国、そして世界の主要国は、
どのように変貌するのか、と時折ドキドキしながら、ここ10年近く私なりに注視してきた。

そして、『東大日本大震災』そして『福島原発』に関し、
数多くの被災地の方たちは、日常生活の困窮し、戸惑う中、
肝要の政権与党は、政局に時間を浪費し、迅速で具体的な復旧と復興の総合施策が遅延し、
自治体の県、市町村の首長、そして首脳陣を困惑させ、何よりも住民をおろそかにした状況に、
責務ある政権の首相、閣僚か、と私は知るたびに怒り、疲れ果ててきたのが実情であった。


このような心情の上、テレビを余り視聴しない私でも、
ここ一週間はNHKのBS1の特集番組などを視聴したり、そして読売新聞の特集記事を精読したり、
愚図〈ぐず〉で齢ばかり重ねた私でも、稀〈まれ〉な一週間となったりした。


その上、野田首相は、民主党の政権下で初めて『大人の政治』ができる方、と期待する中、
鉢呂吉雄(はちろ・よしお)経済産業相は、園児のような失言を発露し、辞任された。
氏は北海道大学を卒業された学業は優秀な方であるが、小・中学校の義務教育を受けた時、
礼儀作法や心の節度を学ぶことなく過ごされたのかしら、と私は苦笑している。


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東京郊外に住む私は、夜のひととき鈴虫、こうろぎの鳴き声を聴きながら、月を誉〈ほ〉め・・。

2011-09-10 18:32:31 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいる。

晩夏を過ぎ、初秋の昨今、鈴虫とこうろぎの2部合唱が、
早朝、夕暮れ、夜の3度ばかり鳴いている。

日中のひとときは、夏の盛りから蝉(せみ)が、今鳴かなくていつ鳴くの、というように、
やかましいほど鳴くので、私は晩夏の名残りと苦笑したりしている。

昨夜も私は月を誉(ほ)めようと、
玄関庭に下り立つ、しばらく月を眺めていたのであるが、
まもなく『十五夜』を迎えるので、月は私に微笑んでいるように見えたりした。
そして、鈴虫は盛んに鳴き、少し遅れるようにこうろぎが鳴き、
いつものように2部合唱となり、と私は微笑〈ほほ〉えんだりした。

こうした夜のひとときを、この時節に私はここ6年ばかり過ごし、
遥か遠い昔の千年前の頃、麗〈うるわ〉しき女性も過ごしたのかしら、
と齢ばかり重ねた私は微苦笑したりした。


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『としまえん、閉園前提で都が買収案…防災公園化』、東京郊外に住む私でも、何よりの朗報・・。

2011-09-09 18:31:27 | 時事【社会】

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
先ほど、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていたら、

《 としまえん、閉園前提で都が買収案…防災公園化 》

と題された記事を、たまたま精読した。

無断であるが転載させて頂く。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110909-OYT1T00643.htm?from=main1
☆【YOMIURI ONLINE】<==《 としまえん、閉園前提で都が買収案…防災公園化 》☆


私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みの地域に住む都民のひとりであるが、
最寄駅は小田急線ならば、『成城学園前』か『喜多見』駅であり、
京王線の場合は、最寄駅が『つつじが丘』か『仙川』駅で、徒歩で15分から20分ぐらいの所に住んでいる。

このような所なので、もとより練馬区にある『としまえん』は、
公共交通機関、災害避難場所から遥かに遠い場所であるが、
今回の東京都が買収案として、この案が結実した後、防災公園化を計画しているニュースを知り、
何よりの朗報と確信している。


過ぎし3月11日の東日本大震災に伴い、都心の各地も震度5度前後の地震に遭われ、
翌日のNHKのニュース、読売新聞などで、
震災発生の当日の夜、都内で学校などの公共施設で、
確か延べ1030カ所の一時待機施設に宿泊した人は約9400人。
或いは会社やホテルに何とか泊まれた人を含めると、帰宅できなかった人は300百万人以上であった、
と報じていた。

こうした中で、発生の夜には、大勢の人が都心の主要駅に押し寄せたり、
肝要のJR主要路線も終日運休となり、
駅から徒歩で帰宅を始め、歩道から人があふれた状況をNHKのニュースで視聴したりして、
特に現役の働いて下さる諸兄諸姉に、大変ですね、と無力な年金生活の私は感じたりしていた。


今後、首都直下地震が発生した時は、壊滅的な被害となる中で、
少なくとも都内の帰宅困難者は390万人に上る、と9月1日の『防災の日』で、学んだりした。
こうした緊急時の時は、行政は救助活動に追われるため、
都などは鉄道会社や周辺企業による対策協議会を対応の主軸と位置付けとして、
主要駅ごとにルールを決め、帰宅困難者を安全な場所に誘導することなどを計画している、
と私は知った。

このような悲惨なことは、もとより発生して欲しくはないが、
今回のニュースで、東京都が買収案として、防災公園化を計画しているニュースを知り、
何よりも優先施策として、結実してほしい、と願ったいる。

もとより都営大江戸線、西武池袋線を利用される方たち、或いは周辺の方たちに、
平素は芝生と雑木などで、やすらぎの公園として活用して頂き、
飲水できる水場、洗面所とトイレ、簡易な広い冷暖房対応できる数多くのある休憩所があり、
万一、非常時の場合は、毛布、非常食、発電装置のある電気設備、電話回線があれば、少なくとも帰宅困難者は、
何よりの避難場所と妄想を重ねたりしている。


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ここ一週間、読書よりテレビを視聴することが多く、学びながら改めて現実に悲しみを深めて・・。

2011-09-09 14:17:09 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


このような生活を過ごして年金生活7年生となっているが、
ここ一週間ぐらいは読書よりテレビを視聴することが圧倒的に多く、我ながら苦笑したりしている。

過ぎし3日の土曜日に、NHKのBS1に於いて、アーカイブスとして『BS1が見つめた9.11.テロ」の特集番組で、
午後の2時より、『なぜアメリカは戦うのか』、『翻弄された亡命イラク人 ~アメリカ ディアボーン~』を
私たちは4時間近く視聴した。

そして日曜日の4日の日曜日に於いても、午後の2時より、
『ジハードの返還』、『ハイジャク』、その後に『歴史学者J.ダワーが語る米テロとの戦い』を視聴した。

月曜日の5日の午前9時半になると、NHK BSプレミアムに於いて、
『9.11テロを撮ったカメラマン・衝撃の体験と迫真の写真』、
そして『テロを撮ったカメラマン~NYからアフガニスタンへ』を視聴した。

その後もNHK BSプレミアムに於いて、『アメリカ同時多発テロから10年』の特集番組を視聴し、
やむなく外出、庭の手入れの時は、録画して、
その後のひとときに視聴したりした。

ここ4日前頃から、読売新聞に於いても『9.11から10年 ~変わる世界~』として、
『9.11同時テロ』の関しての変貌するアメリカはもとより主要国の実態の記事が掲載され、
私は精読したりしてきた。


この間、過ぎし『東日本大震災』そして『福島原発』に関する問題も、
私は無力であるが深く関心があるひとりであるが、
NHKテレビの夜10時から、『明日へ 再起への記録』と題し『東日本大震災』に関連した
家族を主軸としたドキメンタリー連続番組を視聴したりした。
この番組は3月11日の被災された日から今日までの6か月の日常生活の状況はもとより、
その家族のひとりひとりの心の中までの深淵を描いた内容で、
私は圧倒的に感動させられて、涙ぐんだりしてきた。


こうした中で読書する時間より、テレビ番組を視聴してきた。
たまたま昨日は、日中は庭の手入れをしたが、夜の時間は私としては稀なテレビっ児となった。

夜の7時半過ぎから、NHKテレビで『クローズアップ現代』の番組に於いて、
『同時多発テロから10年』と題して、テーマは〈”テロ対戦争”続く戦場の悲劇〉、
〈アメリカの衰退・広がる不寛容〉、〈不気味なアルカイダの動き〉、〈中東の春〉、
〈世界はどこに向かうのか?〉を特例の1時間15分を視聴した。

その後は、殆ど毎日視聴している『ニュースウオッチ9』の番組後、
10時より、、『明日へ 再起への記録』を視聴した。

今回は、『家族は放射能の向こうに ~ある“原発避難者”の6か月~』であり、
番組の解説文をお借りすると、
《・・
津波によって3人の家族が行方不明となった木村紀夫さん。
しかし原発事故による放射能汚染が、家族の捜索を阻みその死を悼む機会さえ奪った。
「原発震災」の現実を伝える。

東京電力福島第1原発の1号機~4号機が立地する“グラウンド・ゼロ”福島県大熊町に住んでいた木村紀夫さん。
巨大津波によって家族3人が行方不明となったが、
未曽有の原発事故による放射能汚染によって、家族の捜索は困難を極め、
「死者を悼む」という尊厳さえも、踏みにじられてきた。

家族、自宅、そして仕事さえも失った木村さん。
“三重被災者”の姿を通して、「原発震災」が、人間にもたらした現実を見つめる。
・・》

主人公の木村紀夫さんは、妻と次女、そして父親が不明となり、
残されたち木村紀夫さんは長女と妻の妹、そして妻の実家の両親と共に、
半年の言動はもとより心情のうつろいを描いた概要である。
やがて父親が、そして妻が最後に乗っていた乗用車が見つかり、
あどけない長女の表情ながら、心の中は亡くなった祖父、お母さん、妹への思いが、
描かれて、私は圧倒的に心をしめつけられ、涙を流したりした・・。


この後、NHKのBS1に於いて、『ワールドWave トゥナイト 』に於いて、
『同時多発テロ9.11から10年(1)』と題して、
《・・
アメリカの9.11同時多発テロから10年ニューヨーク発の生中継・拡大スペシャル版
河野憲治アンカーがゆく「グラウンドゼロ」、そして青山学院大学・中山俊宏教授が見る10年は・・

と解説された内容を私は番組の途中から視聴したが、
中山俊宏教授がインタビューされた3名の方の発言を学んだりした。


このように、ここ一週間はテレビのドキャメンタリーの各作品を視聴してきたが、
『同時テロ』その後の世界の変貌、或いは『東大日本大震災』そして福島原発問題に関し、
少しばかり単行本、文庫新書、或いは総合雑誌、新聞などで読んできたが、
テレビの画像に於いて、登場されたそれぞれの人たちの心の中の深淵まで描いた作品を視聴すると、
改めて多々学びながらも、世界は混沌とし、日本は混迷を深めている現実を知り、
無力な私は悲しみを覚えた日々でもあった。


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庭の手入れ、初秋の情景にふさわしいように、私は汗まみれ泥まみれで孤軍奮闘しても・・。

2011-09-08 16:33:43 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
朝の7時半過ぎに、ぼんやりと玄関の軒下に下り立つと、
雲ひとつない青空を眺めたりし、ときおり微風を受けると秋めいた風の匂いに微笑んだりした。

朝方、天気情報は朝の6時は20度、昼下がりは29度前後、そして夕暮れの6時は26度前後で、
さわやかな快晴の日中を迎えます、と報じていたので、
B型のお調子者の私は、庭の樹木の枝葉も伸び、草も生い茂ってきているので、
初秋の情景にふさわしいように、庭の手入れをしょう、と思い立った。

玄関庭は、夏に愛惜を告げるように紫紅色の花の高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)が20数輪に咲き、
塀際に群生している蒼色の紫露草(ムラサキ・ツユクサ)花がひっそりと咲いている。

この時節の玄関庭は、平年と同様に、群生させた可憐なピンク色した花が咲く秋海棠〈シュウカイドウ〉、
純白色の玉すだれ〈タマスダレ〉が咲いて、晩夏から初秋の時節を彩〈いろど〉ってくれる。

そして紫式部〈ムラサキシキブ〉は、それぞれの枝に薄紫色に色合いを染め数多く付け、
花梨〈カリン〉の実はたわわに成っているが、色合いは黄緑色で、
数週間過ぎれば淡い黄色に染められるのが、平年の習〈なら〉わしとなる。
あとは雑木の樹木となっている。


9時半過ぎより、樹木の剪定を早々と済ませて、難問の草むしりをしたのであるが、
ドクダミの草が地面にへばりつくように繁っているので、労苦を要する。
或いは樹木のある地面も草が生えているので、
樹の下にもぐるように、はいつくばって草を取ったりすると、泥だらけになる。

陽射しの29度前後の中、孤軍奮闘していると、
やはり夏の名残りの暑さで汗まみれとなり、一時間ぐらい過ぎると、
玄関の軒下に簡易椅子を置いてに腰かけ、10分ばかり休憩する。

ときおり微風が吹き、身をゆだねると、秋めいた風は心地よく、微笑んだりした。
そして、冷茶を飲み、煙草を喫ったりし、
庭の草むしりの終えた場所を見つめたりし、残りはまだまだあり、
と実感させられながら、昼食抜きで奮戦した。


結果としては、2時過ぎに玄関庭は終了したが、
主庭の手入れを始めてまもなくして、体力の余力はなく、私は断念した。

若き40代のサラリーマン時代は、休日の時に炎天下の中でも、
7時間ぐらいは気力で、体力にまかせて庭の手入れをしたりしたが、
あの頃の自分の若さには適〈かな〉わない、と高齢者2年生の私は苦笑したりした。

そして、お風呂に入った後、3時半過ぎに、家内と共に玄関の軒下に下り立ち、
小綺麗になったわねぇ、と家内から私は云われが、
『手抜きで、簡略よ・・』
と苦笑し私は応〈こた〉えたが、体力を衰えを実感したりした。


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『禁煙』と『嫌煙』の風潮、ここ10数年なぜ世界の多くの人たちが変貌したのか、と私は思い馳せ・・。

2011-09-07 17:02:18 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
1963(昭和38)年の春に大学に入学し、
ワンダーフォーゲル部の夏季の合宿した時から、風邪を退いている以外は、
何故かしら私にとっては、心身の波長に良く45年ぐらい愛煙しているのである・・。

世の中の著名のひとり方が、毎日20本ぐらいを喫い続ければ、寿命が5年短くなる、
と何かのニュースで読んだりしたが、
我が人生は、ときおり煙草を喫いながら、深い思いの思索を重ねながら充実した日々もあるので、
単に健康ばかり気にし長生きしても意味がなく、残された人生を深く生きて過ごしたい、
と思っているひとりである。


昨今、本人の健康に良くない、もとより人さまに迷惑、と嫌煙の風潮があり、
そして水戸黄門の紋章のワッぺンのように、
かけがえのない地球を汚染するな、と称して環境問題まで云われる方がいる・・。

私は自動車などの方が圧倒的に地球を汚染していると確信しているが、
現在社会に於いては、必要悪と認めているひとりである。
このような心情の私は、公共交通機関の利便性にある地域に住む私は、
乗用車に乗らないように、2004(平成16)年の秋、定年退職後の免許書の更新の時、
破棄した理由の一因である。


私は民間会社に35年ばかり勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職し、
年金生活を始めて、殆ど毎日は買物、散策などの時に、季節のうつろいを享受し、
その時に思ったこと、思索したことなどを心の発露として、
このサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとしている。

日常の大半は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
そして音楽も聴いたりし、在宅の多い生活をしている。

そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。

こうした身過ぎ世過ぎの年金生活で、現役のサラリーマン時代と違って、圧倒的に在宅が多いので、
煙草の喫煙は、遅ればせながら蛍族に入門して、
主庭にあるテラスに下り立ったり、或いは玄関の軒下などで、
樹木を眺めたりしながら喫ったりしている・・。

そして、外出の時は、携帯の灰皿を持ち、指定されている喫煙場所で喫ったりしている。
或いは、遊歩道のベンチなどで喫う場合は、
人さまから少なくとも10メートル以上の離れた場所としている。

こうした中で、何よりも私が険悪するのは、路上に煙草の吸殻を見つけた時、
どなたか解からないが・・煙草を喫う資格がないょ・・
と心の中で怒りと悲しみをまじえて、やむえず私は持参している携帯の灰皿にしまうことも多い。

そして、ときおり世界は20数年前の頃は、
先進国の欧米の人たちの日常生活に於いて、確かに数多くの人々が愛煙していたはずであった、
と私は当時の映画のシーンを思い浮かべながら、微苦笑している。


こうした時、私は世界の多くの人たちが急激に『禁煙』の風潮となったことを思い馳せたり、
日本の社会に於いて、急激に嫌煙の風潮となり、昨今も加速している状況を思い返したりした。
日本に嫌煙ブームが始まったのも、確か平成になってからである。

これ以前の社会は、喫茶店でテーブルの上には、灰皿と喫茶店独自のマッチが置いてあったりした。
そしてJRの長距離の車内の座席の脇に灰皿が設置されたりして、
ときおり煙草を喫う方が見られたりした。

私は1991(平成3)年の春、ギックリ腰が酷く入院生活を28泊29日間で入院生活をしていた時、
整形外科のフロアーの片隅に6畳ぐらいの喫煙コーナーがあり、
煙草を吸わない人でも、松葉杖を伴い、人恋しく、憩いの場として、団欒していたのである。


そして1993(平成5)年の秋、私の現役のサラリーマン時代で、
たまたま会社が主催した『台湾 社内旅行』に行った時、
羽田空港から台北空港の往復路の時は、航空機の離着陸した後の水平飛行になると、
煙草を喫っても良い、とアナウンスされて、私は煙草を喫ったりしたひとりであった。

その後、1998(平成10)年の春に於いても、
会社が主催した『ハワイ 社内旅行』に行ったのであるが、一部の航空会社を除き、
やはり機内で喫煙可能となったりしていた。
私の場合は、日本航空の航空機であったが、たまたま私が煙草を取り出すと、
付近にいたアシスタントの客室乗務員の女性が、灰皿を持ちながら、片膝を床に着くように私に差しだして、
私は恐縮しながら灰皿を受け取ったりしていた。


昨年の初夏に、偶然に本屋で、『愛煙家通信 No.1』と題された単行本を見かけて、
購読したが、
この本には、喫煙の効果、そして禁煙の風潮はどのように発想されたか、
と明記されていたので、私は驚いたり、ため息を重ねたりして、精読したひとりであった。

この時の私の思いは、このサイトに於いて、
【 喫煙文化研究会・編集の『愛煙家通信 No.1』、時代のうつろいを学び・・。 】
と題して、昨年の2010年7月5日に投稿ているが、あえて再掲載をする。

【・・
私は愛煙家のひとりとして、あるサイトに2005(平成17)年の頃、
【 煙草は日本の文化のひとつである 】と題し、
昨今の嫌煙ブームの風潮に憂い、ブログのサイトで綴ったりした身でもある。

この程度のことは、この本の特集のひとつで、
《 喫煙は日本の文化だ 》と題され、数多くの著名人が綴られていたが、
私なりに学んだが、何よりも驚嘆したのは、
評論家の井尻千男(いじり・かずお)・著の『集団が生き残るための知恵』の寄稿文であった。

この中で氏は、宮澤政権の当時、
宮澤総理の辞令を受けて厚生省の審議委員になり、
毎月一回、禁煙派の医学関係者と論戦をたたかわせた、と述べられていた・・。

《・・
このときの同士は医事評論家の水野肇〈みずの・はじめ)氏は、
当時人口に膾炙(かいしゃ)するようになったアルツハイマー病患者が
非喫煙者に多いという統計を挙げて、
自分は脳を病んで人さまに迷惑をかけて死ぬより、
肺ガンで死ぬことを選ぶと勇ましく宣言した。

(略)

その審議会で面白かったのは、
初回こそ10人ほどいた禁煙派が厳しい口調で愛煙家を非難したが、
毎回同じ非難をすることの愚を悟ったのか、
次第に愛煙家の弁に耳を傾けるようになった。

水野委員はもっぱら、
痴呆症になって人さまに迷惑をかけながら、
そのことすら認識できず一日でも長く永生きようとするのか
(タバコの煙の中のなんとかという成分が、アルツハイマー病に予防効果のあることを繰り返し)、
それとも肺ガンになっても、最期まで明瞭な意識をもって生(せい)をまっとうしょうとするのか。

要は死生観の問題であり、徒(いたずら)に永生きすること自体に意味があるわけではない、
と毎回熱弁をふるった。
・・》
注)原文にあえて改行を多くした。

この後、井尻千男氏は、
《・・
今日のように禁煙派の差配する文明は、
清潔だけを大事にする衰弱せる文明だと批判しつづけた。

(略)

私は一人でも多くの人に聞いてほしいから、審議会の議論を公表してくれと
厚生省側に申し入れたが拒否された。
委員の身を守る(当然愛煙家の命)ためという理由だった。
・・》


私はこうした審議会の禁煙派、喫煙派の真摯な諸兄の討議内容を封印したのは、
時の厚生省が禁煙の風潮を更に増長させた諸因のひとつと確信を深めたりした。


そして禁煙の風潮のはじまりをこの本から、学んだのである。
解剖学者の養老孟司〈ようろう・たけし〉、劇作家の山崎正和〈やまざき・まさかず〉の両氏に寄る対談、
『変な国・日本の禁煙原理主義』と題され、初出は『文藝春秋』2007年10月号である。

《・・
山崎正和氏の発言
ベトナム戦争の後、アメリカをまとめていた愛国心やピューリタン的な道徳が根本から揺らぎ、
社会秩序も変った。

同性愛も妊娠中絶も、キリスト教以外の信仰も認めなければならない。
そのことに対して、皆、喉に何か引っかかったままだった。
そこで、誰もが一致して反対できる都合のよい”敵”を探し始めたのです。

あの当時、選択肢は二つありました。
たばこかエイズか。
ちょうどエイズが広まった時期でもありました。
しかし、結局はたばこが選択されました。

なぜなら当時エイズの原因とされていた同性愛を好むのは、
ハリウッドスターとか芸術家とか社会の上流層だけれども、
たばこを吸うのは社会の中流以下が多かったからです。

アメリカ人が大麻に寛容なのもまったく同じ理由です。

・・》
注)原文にあえて改行を多くした。


こうした禁煙の始まりがアメリカで発生し、何かとアメリカの属国ような日本に飛び火し、
厚生省の音頭で学界の一部の論を拡大させ、日本の禁煙風潮をあおり、
終局的には世界保健機関の採択した『たばこ規制に関する枠組条約』に基づき、
2004〈平成16〉年に日本の国会で可決され、
決定的な嫌煙ブームとなった、と私は思いめぐらしたりした。

しかし、大麻、エイズの原因とされる同性愛などは、何よりも険悪する私は、
ひと様の前では煙草を避けて、玄関の軒下、テラスなどで紫煙を楽しんでいる・・。
そして、あと何年か生きられるか判らないが、痴呆症だけは勘弁してほしいと思ったりしている。
・・】

このように投稿していた。

私は評論家の井尻千男(いじり・かずお)氏が、
《・・今日のように禁煙派の差配する文明は、清潔だけを大事にする衰弱せる文明だ・・》
と説は、正鵠なご高説と思っている。

飛躍を許されるならば、もとより政治、外交、軍事、経済などに於いても、
余りにも国民が清潔と潔癖だけを追求すると、国は衰退し、やがて国民は困窮するのは、
これまでの歴史が証明されているのである。

人は誰しも、良き言動だけでは生きられず、たえず光と影の両面をもつものであり、
良き面と悪しき面の比重の多さで、評価されてきたのである。


このように私は妄想を重ねたりしたが、たとえば宗教の世界であるならば、
私は仏教のごくありふれた曹洞宗であるが、たとえ隣人にキリスト教徒、イスラム教徒がいても、
険悪はしない。
まして煙草などは、嗜好品のひとつであり、たかが煙草、されど煙草、
と私は微苦笑しているのである。


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『ボケチィン・・』の私、その後の日常生活の中、ささやかな奮闘のひとつは・・。

2011-09-06 16:02:33 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
昨夜、深夜まで本を読んだりしていたので、今朝の目覚めは7時半過ぎで、
家内は洗濯で奮闘している中、ぼんやりと朝食を頂いた後、
いつものように読売新聞をゆったりと読んだりした。

この後、過日の3日の土曜日から毎日NHKのBS1に於いて、
アーカイブスとして『BS1が見つめた9.11.テロ」の特集番組を視聴してきたので、
本日は『暴走する聖戦(ジハード) ~9.11テロはこうして起きた~』と題し放送されていたので、
9時半過ぎから、私たち夫婦は視聴した。

この間、我が家の地域は、曇り空から小雨が降ったり、淡い陽射しになったりして、
めまぐるしい天候となり、私は昼過ぎから買い物に行く予定であったので、
番組終了後、大丈夫かしら、と空を見つめたりしていた。


私は、過ぎし8月26日にこのサイトに、
【 ときには、齢ばかり重ねた私は、家内から『ボケチィン・・』と呼ばれ・・。】
と題して投稿している通り、ときおり『ボケチィン』と家内から、呼ばれることがある。

【・・
私は民間会社を2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、年金生活している66歳の身である。

私達夫婦は子供も恵まれなかったので、2人だけの家庭であり、
東京郊外の調布市で古惚けた一軒屋に住んでいる。

私は日常の買物を担当し、ときおり庭の手入れを責務として、
家内は料理、掃除、洗濯などを担当して貰っている。

家内は日頃の多くは、私のことを、
『あなた・・』
と呼ぶことが多いが、
ときには、たわむれで
『XXクン・・』
と苗字で呼ぶこともある。


年金生活を始めてまもない頃、私は買物を終えて帰宅後、
台所にいた家内に手渡したのである。

まもなく、家内は冷蔵庫に収納したりした後、
『あらぁ・・お願いした品がないわ・・』
と家内は呟(つぶや)くように、私に云った。

『本当ぉ・・』
と私は云いながら、スーパーのチラシで、
家内が赤丸の印を付けたりのを、見ながら再確認した。

『本当だぁ・・買わなかったょ・・
次から気をつけるょ』
と私は明るく大きな声で家内に云った。

『ボケチィンねぇ・・』
と家内は笑いながら、私に云った。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』
と家内は笑いながら、私に云うのである。


私は齢ばかり重ね、少しボケてきたと反省をしながら、
一家の主(あるじ)も失墜したと思ったりした。

そして、現役時代の最後の5年間は年収一千万円台だった私の少しのプライドも、
今としては遠い昔の日々になった、と苦笑したりした。

尚、私は家内を呼んだりする時は、
『XXちゃん・・』
と婚約の少し前から呼び、今日まで35年を超えても、相変わらず一環し呼んだりしている。
・・】

このように私は、ときおり家内から『ボケチィンねぇ・・』と言われることがある。

昨今の私は、日常の買い物も7年生になっているので、
程ほどにベテランの状況となり、スーパーの陳列棚を見ながら、
購入品の品定めができている。


たとえば本日の昼過ぎに、買物の引き車と称される『キャリーカート』を曳〈ひ〉いて、
最寄りのスーパーに向い、
店内で、ブドウ、バナナ、トマト、キュウリ、ナス、キャベツなどの見て、
程ほどの価格で新鮮さを見定めて、
この他の家内から要望された数多くの品を選定して、
レジで支払いが終った後、段ボールを頂き、この中に購入品を入れる。
そして『キャリーカート』に段ボールを載せて曳いて帰宅した。

この後、少しばかり遠い徒歩15分ぐらいスーパーにおいて、
インスタント・コーヒーが、『お一人さま、一点限り』、
そしてティシュ・ペーパーが12ロール入った1ケース『お一人さま、2点限り』、
或いはトイレット・ペーパーが5箱入った1ケース『お一人さま、2点限り』の特売品があるので、
私は散歩を兼ねて、『キャリーカート』を曳〈ひ〉いてスーパーに向かったりした。


このように私は、年金生活の初めの頃は、
果物、野菜などは、鮮度が良いが値段は二の次であり、
家内は溜息〈ためいき〉をすることが多かったが、
いくら鈍〈に〉ぶ児の私でも、家内から優しい言葉で叱咤激励を受けた私は、
少しは成長したのかしら、と微苦笑している。


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防災グッズの紹介記事を見ながら、高齢者の私は迷いながら必要な物、と戸惑い・・。

2011-09-05 17:29:11 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
今朝いつものように読売新聞を読んでいたら、17ページの【家計】面の記事のひとつに、

《 防災グッズ 再確認を 》

と見出しされたた記事を精読した。

この記事とほぼ同一内容が、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】にも掲載され、
無断であるが掲載させて頂く。

http://www.yomiuri.co.jp/homeguide/news/20110905-OYT8T00119.htm?from=yolsp
☆【YOMIURI ONLINE】<==《 防災グッズ 再確認を 》☆

この後、30分過ぎた頃、家内はこの記事を読みながら、
『あなたの欲しい防災品は・・』
と家内は私に訊〈たず〉ねてきた。

『防災グッズの紹介の記事だろう・・欲しい物は沢山あるが・・
いざ避難を要する時に・・必要な物は・・』
と私は迷いながら、家内に微苦笑したりした。


私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
過ぎし3月11日の東日本大震災の時、
家も揺れ、本棚から10数冊の本が床に落ちたぐらいであったが、
我が家は防災に不備なことに気付かされた・・。

懐中電灯が2つばかりあるだけで、予備電池がないことも解かったりした。
そしてペットボトルの2リットルの煎茶が6本あるだけであった。

この後、改めて調布市から市民に配布された『調布市防災マップ』を見たりし、
この中の注意事項、連絡表の記載事項を互いに確認したり、
家内と共に買物に行った帰路に、指定された避難所の場所を近くを通り、確かめしたりした。

そして我が家は、そのうちに電池不要の手回しで電源が発生する軽い携帯ラジオを購入しょう、
と話し合ったりした。


その後、旅行用のショルダーもできるバックを居間の片隅に置き、
いざ避難所に行く時に、持って行こう、と互いに決めている。

この中身は、電池不要の手回しで電源が発生する軽い携帯ラジオ〈電池対応、可〉、
懐中電灯、電池、タオルを4枚、板チョコレートを4枚、ペットボトル500mlが2本、
百円玉を中核として10円玉も少しで、3000円。
そして私のメガネの予備、タバコ、
脇サイドには『調布市防災マップ』が入っているだけである。

無念ながら携帯電話は私たちは互いに使えないので、この程度ぐらいと思っている。
あとは、非常食として、乾パンぐらいは、購入しておかなければ、
と思いながらも、実行していないのが我が家の現状である。


今回の防災グッズの『防災お役立ちグッズ』であるが、
この【YOMIURI ONLINE】の右側にある添付されているが、
①『サバイバル・ブランケット』、③『安全ハイブリッドウェア』を私は見つめたりした。

『安全ハイブリッドウェア』に関しては、私たち夫婦は国内旅行の時に愛用しているアウトドアー着として、
このように近い冬用の防寒着、そしてスリー・シーズン用も持っているし、
これに応じたスポーツ・シャツも互いに5着は愛用しているので、迷ったりした・・。

いざ、緊急の避難勧告を受けた場合、私は動揺しながらも、
軽く強靭な生地で、保温で断熱効果もありそうな『サバイバル・ブランケット』は、
購入して、互いに一枚を我が家の非常用の旅行バックに入れようかしら、と微苦笑している。


そして万一、大地震が発生しても、その時はその時に対処すればよい、
と私は思い、何よりも肝要の平素の日常生活をたんたんと過ごし、
人生の余生を過ごせれば、よいと思ったりしている。


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『9.11同時テロ』に関する幾つかのドキュメンタリー作品、齢ばかり重ねた私でも、視聴し・・。

2011-09-05 13:58:59 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
一昨日の3日の土曜日の昼下がり、家内から、あなたの好きなドキュメンタリーの作品あるわよ、
と私は教えられた・・。

NHKのBS1に於いて、アーカイブスとして『BS1が見つめた9.11.テロ」の特集番組で、
午後の2時より、『なぜアメリカは戦うのか』、『翻弄された亡命イラク人 ~アメリカ ディアボーン~』を
私たちは4時間近く視聴した。

そして昨日の4日の日曜日に於いても、午後の2時より、
『ジハードの返還』、『ハイジャク』、その後に『歴史学者J.ダワーが語る米テロとの戦い』を視聴した。

そして本日の5日の午前9時半より、NHK BSプレミアムに於いて、
『9.11テロを撮ったカメラマン・衝撃の体験と迫真の写真』、
そして『テロを撮ったカメラマン~NYからアフガニスタンへ』を視聴した。

今後も下記のような特集番組が予定されているので、私は視聴しょうと思っている。

http://www.nhk.or.jp/archives/bs-archives/next/index.html
☆NHK BSプレミアム 『アメリカ同時多発テロから10年』☆


もとより『9.11同時テロ』は、2001〈平成13〉年9月11日にアメリカで発生した、
航空機を使った4つのテロ事件の総称である。
何よりも航空機を使った前代未聞の規模のテロ事件であり、全世界に衝撃を与えたのは周知の事実である。
その後、アメリカはアフガニスタン紛争、そしてイラク戦争を行うことになり、益々世界各国で混迷を深め、
特にアメリカ国民の誰しもに、心の中まで震撼させ、衝撃をもたらした。

何よりもニューヨーク市にある世界貿易センタービル・ツインタワーの北棟、南棟は、
航空機の突入による爆発炎上し、崩壊したことは、もとよりアメリカ国民に深刻な影響をさせて。

このことは、アメリカ本土が攻撃を受けたのは、アメリカの独立戦争でイギリスの攻撃を受けた以来で、
まして世界の富と権力の象徴とされたニューヨークの中心街のセンタービル・ツインタワーが、
テロによる航空機の突入、爆発炎上、そして崩壊は、
アメリカはもとより、世界の政治、外交、軍事、経済、社会などに、
どのように変貌するのかしら、と私は当日のNHKのニュースを視聴して、ドキドキした。

このような心情で、その後の国際のニュースを時折を視聴したり、
総合雑誌、新聞などで読んだりしてきたが、
今回のドキュメンタリーの各作品は、登場されたそれぞれの人たちの心の中の深淵まで描いた、
まぎれなく優秀な作品であると私は確信したりした。


先ほど、こうしたドキュメンタリーの作品を視聴すると、
果たして創作される小説家、映画の脚本家の方たちは、
どのような表現方法の切り口で『9.11同時テロ』に関する作品を今後に発表できるのか、
余計なことも思索させられたのである。



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台風12号は記録的豪雨に伴い、各地で大災害となり、死者21人・行方不明55人に・・。

2011-09-04 23:34:43 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
先ほど、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていたら、

《 記録的豪雨、死者21人・行方不明55人に 》

と題された記事を読んだりしていた。

無断であるが転載させて頂く。

《・・
大型の台風12号による大雨は、4日も近畿、中国地方など広い範囲で続き、
奈良県上北山村で8月30日の降り始めからの雨量が1800ミリを超えるなど、紀伊半島を中心に記録的な豪雨となった。

奈良、和歌山両県では、土砂崩れや河川の氾濫で民家が流されるなどの被害が相次ぎ、
読売新聞のまとめでは4日午後10時現在、9県で死者21人、行方不明者55人に上っている。
台風被害では、死者・行方不明者98人を出した2004年の台風23号以来、最悪となった。

奈良、和歌山、三重各県の要請を受け、自衛隊は4日未明から被災現場に部隊を派遣した。
しかし、道路網の寸断や悪天候のため、救助活動は難航している。

奈良県十津川村野尻では、3日夕、熊野川沿いの村営住宅2棟が鉄砲水に押し流されて倒壊。
同村職員の岡修作さん(33)とバス運転手の浦上圭三さん(33)、両家族ら計11人のうち7人が行方不明となった。
救助された4人のうち、岡さんの妻美佳さん(36)が死亡した。
さらに、同村長殿でも4日、同川近くの民家と空き家の計2棟が崩土で流され、
住人の男性(82)ら3人と連絡が取れなくなっている。

また、同村北隣の五條市大塔(おおとう)町でも同川があふれ、
家屋数棟が流されるなどして1人が死亡、11人の行方がわからなくなっている。

和歌山県田辺市伏菟野(ふどの)では4日未明、地滑りで6棟が倒壊。
うち2棟にいた山本正江さん(69)が死亡、高校生を含む4人が行方不明となった。

同県那智勝浦町では、寺本眞一町長の妻(51)と長女(24)が自宅周辺で濁流に流されたとみられ、行方不明になっている。


鉄道網や道路網にも被害が相次いだ。
那智勝浦町では、JR紀勢線の那智川橋梁(きょうりょう)(長さ約40メートル)の橋桁が流され、
江川橋梁(同約16メートル)もコンクリート橋脚が崩れた。

また、奈良県十津川村の熊野川にかかる国道168号の折立橋(同271メートル)も長さ90メートルにわたって流された。

(2011年9月4日22時18分 読売新聞)
・・》
注〉記事の原文に、あえて改行を多くした。


私の住む東京郊外の調布市の片隅の地域は、今回の台風12号は、
雨が強く降ったり、止んだりし、ときには風が伴ったり、余りにも進度の遅い台風に戸惑いながら、
この5日ばかり過ごした。

この間、NHKの天気情報を視聴したり、読売新聞を読んだりして、
各地の大災害の悲報を知ったりした。

不謹慎ながら、私たち夫婦は、旅行で訪れた各地を、
今回の記録的豪雨に伴い、各地で大災害となり、あの山里、あの橋も被害を受けられた状況を
茫然とテレビで知ったりした。
そして肝要の家屋を流失、大災害を受けられた方は、お気の毒しか言葉しかできない。

こうした中で、何よりもお亡くなりになられた方には、ご冥福を、
そして負傷なされた方には、早くご回復を、と祈るばかりである。


先ほど、この【YOMIURI ONLINE】で知ったのであるが、
《・・
和歌山県那智勝浦町では4日午後8時半現在、
川が氾濫して流されるなどして7人が死亡、13人が行方不明。

災害対策を指揮する寺本眞一町長も、
妻昌子さん(51)と長女早希さん(24)の行方がわからないままだ。

早希さんは近く結婚予定で、4日は結納だったという。
寺本町長によると、役場に泊まり込んでいた4日午前2時頃、
昌子さんから携帯電話に「外の様子を見に行った娘が流された」と連絡があり、
直後に通話が途絶えた。

寺本町長は「あの時、自宅が押し流されたのかもしれない」とショックを隠せない様子だった。

(2011年9月4日21時50分 読売新聞)
・・》
注〉記事の原文に、あえて改行を多くした。

この那智勝浦町の町長は、この地域の災害対策を奮闘しながら指揮される中、
ご家族の奥様、そして結納される当日の早朝に、
自宅周辺で濁流に流されたとみられ、行方不明になっていることに思い馳せると、
私は涙ぐんでしまう・・。

これからご家族それぞれ新たな人生を歩みだそうとした時なのに、余りにも過酷過ぎる、
と深く感じさせられたのである。


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五輪真弓さんの歌、齢を重ねた私が心の中で唄えば、若き日の頃を甦(よみがえ)り・・。

2011-09-04 13:56:26 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
先ほど、最寄りのスーパーに買い物で帰宅する途中、
橋の歩道がさわやかな風が吹いていたので、足を止めて身をまかせて受けていた・・。
そして、ぼんやりと遠方の情景を眺めていた時、脳裏からひとりの歌が突然に舞い降りて、
私は心の中で唄いだした・・。

♪枯葉散る 夕暮れは
 来る日の寒さを もの語り

【『恋人よ』 作詞、作曲・五輪真弓、編曲・船山基紀、唄・五輪真弓 】

と心の中で唄いだしていた。

そして、この後の私は自宅に向かいながら住宅街を歩いたが、
真弓ちゃんの歌かょ、と微苦笑しがら、私は五輪真弓さんの歌に魅せられた頃が浮かんだのである。


私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和39)年の秋に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をして、はかなくも敗退し、
やむなくコンピュータの専門学校で一年学んだ後、
遅ればせながら1970(昭和45)年の春に、ある大手民間会社に何とか中途入社ができた。

この民間会社は映像・音響メーカーであり、この中の一部に音楽事業本部があり、
数多くの大手のレーベルを傘下に収め、レコード業界の首位を独走していた。

まもなく、この中の大手レーベルが外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられた。


そして商品の現場を10ヶ月学んだ後、本社のコンピュータ専任者として配属されたが、
音楽に関しては、文学、映画の次の程度に関心がある程度であった。

1972(昭和47)年の初秋、私は日曜日で自宅でラジオを聴きながら、
身のまわりの整理をしていた。

♪あたたかい陽のあたる
 真冬の縁側に

【 『少女』 作詞・五輪真弓 】

私は思わず手を止めて、ソファに座り、煙草に火を点(つ)けた・・。

♪つもった白い雪が
 だんだん とけてゆくのを

【 『少女』 作詞・五輪真弓 】

私は専門外の音楽好きなの身であったが、感性の鋭い人と瞬時に感じて、
初めて作詞・作曲し唄っている人が、五輪真弓と知ったのである。


翌朝、会社で、たまたま私が朝礼の当番であった。

本社の営業本部、同じフロアーの営業所の数多くいる社員の前で、
私は前に立ちながら、ひととおり業務関係のことを云った後、
『・・CBSソニーさんから、凄い感性のある人でデビューします。
10月に発売されますが、五輪真弓という若い女性が・・
「少女」という曲で・・感性と感覚が際立った人て・・』
と私は他社のアーティトであったが、半分得意げで云ったのである。

たまたま営業の本部長の所に、邦楽の制作本部長が打ち合わせて来ていたのを、
後で知った。

この後、一時間後に、私は制作本部長とエレベータの中で、
偶然ふたりとなった。
『・・お前さんねぇ・・よく云うよねぇ・・』
と微苦笑された。

私はもとより音楽業界のレコード会社は中小業があり、
中堅のレコード会社で、コンピュータ専任者の身であったが、
世間に対しても怖いもの知らずの27歳の時であった・・。


私は偶然に五輪真弓の『少女』をラジオで聴いた後、
レコードのアルバムの発売日に待ち焦がれ、
『五輪真弓/少女』を買い求めたのは、確か1972(昭和47)年の10月の下旬であった。

この頃の私は、個室にレコード・プレイヤー、プリメイン・アンプ、そしてスピーカと、
この当時の普通の音楽ファンの機器構成で聴いていた。
しかし、この当時のオーディオ機器は、私の基本給の月収より数倍高く、私はローンで返済していた。

そして、私は帰宅後、このアルバムに夢中になり、殆ど毎日聴いていたし、
次兄にも賞賛をしたりしていた。

翌年の7月に『風のない世界』が発売されて、
特にこの中の一曲『煙草のけむり』には、この人の才能が満ち溢れている、
と友人らにも絶賛していた。

確か数年後であったと記憶しているが、
虎ノ門ホールで五輪真弓のコンサートがあり、この頃に交際していた女性と観たのである。

この女性はある音楽大学のピアノ専攻科を卒業したばかりで、
先生に師事しながら、ピアニストを熱望する人であり、
私はピアノを専攻する人に気後(きおく)れしながらも、
ピアノを弾きながら自身の作詞・作曲され歌を唄う五輪真弓のコンサートに、
誘い出したのである。

この女性とは、コンサートの終了後に食事をしていた時、
虎の門ホールの音響、そして五輪真弓に関して才能のある人ね、と私に語ったので、
私は五輪真弓さんのデビュー以来才能を認めていたので、
この女性に同意されたので、私の心は小躍りのような状態であった。

この人とは、渋谷、新宿で幾たびか待ち合わせ、夕食を共にした後、自宅に送り、
この方の母親に可愛がって頂だき、親愛の情をしぐさを見せてくれたりした。

そして私は、自宅に来て貰ったり、私の実家にも連れて行ったりしていた。

このような時、有数なソプラノ歌手のコンサートが東京文化会館の小ホールで開催され、
伴奏としてのピアノを弾く担当に選ばれ、
私は当然ながら、このコンサートを観たのである。

ただ会場、ロビーなどは演奏者はもとより、招待された方、音楽専門大学の卒業生、生徒たちの雰囲気が、
私の今までの人生で体験したことのない特有な雰囲気につつまれていた。


その後、まもなくして、私は結婚したい、と申し込んだ夜、
『貴方が思っている・・サラリーマンの良い奥さんには・・なれないわ・・』
と云った。

確かに毎日10時間前後はピアノ弾いているので、
サラリーマンの普通の生活ペースは無理であるが、私は承知の上だ、とも言葉を重ねたりした。

数ヵ月後、貴方に負担をかけたくないの、と私は言われ、
私は失恋をしたのである。

私は五輪真弓さんに関しては、スターとなった今、
何となく遠ざかり、シャンソンなどに夢中になり、深めていった・・。


私は数年後、妹の嫁ぎ先の親から、ひとりの女性を紹介され、
この人と結婚した。

私が家を建て始めて、ローンの負担が重苦しく感じ、数年続いた折、
私は懐かしい唄声を聴いたのである。

♪枯葉散る 夕暮れは
 来る日の寒さを もの語り

【『恋人よ』 作詞、作曲・五輪真弓、編曲・船山基紀、唄・五輪真弓 】

私は思わず、真弓ちゃんだ、と心の中で叫んだのである。
そして、相変わらず、才能を発露させ、確固たるスターの五輪真弓さんに、
しばらくぶりだったけれど、凄い詞を書いたよね、と心の中で祝杯したりしていた。

♪恋人よ そばにいて
 こごえる私の そばにいてよ

【『恋人よ』 作詞、作曲・五輪真弓、編曲・船山基紀、唄・五輪真弓 】

私はピアノニストに熱望した人は、今はどうしているか解らないが、
私にとっては、若き日の貴重な苦い想いのひとつである。


私は今でも五輪真弓さの『恋人よ』を聴いたりすると、
このピアニストの演奏だけで生活できるように熱望した女性が思い浮かび上がり、
私の若かった頃が蘇(よみが)るのである。

そして、ときおり思い出したかのように、小さな声で鼻歌を唄うこともある。

♪まるで忘却(ぼうきゃく) 望むよに
 止まる私を 誘ってる

【『恋人よ』 作詞、作曲・五輪真弓、編曲・船山基紀、唄・五輪真弓 】

このように私には、五輪真弓さんの歌には、
齢ばかり重ねた私は、ささやかな想いでを秘めながら、聴いたりする時もある。


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『読売(中学)受験サポート』サイト、誰でも解りやすい時事のひとつかしら、微笑んで・・。

2011-09-04 09:40:20 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
先ほど、ぼんやりと読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を開き、
検索している時、
読売新聞のプレミアム・サイトとして名高い無料会員制度の【yorimo】を見たりしていた。

そして、この中のひとつ【読売受験サポート】と命名されたサイトを初めて見て、
今回は『ここが出る! 新聞の読み方』が特集されていて、私は読みはじめた。

https://yorimo.yomiuri.co.jp/csa/Yrm0401_P/1221769822058
☆【yorimo】☆ お詫び・先ほど再チェックしましたら、会員になりませんと、このサイトが開けないようガードされている?!

私は読みながら、何かしら中学受験向けとされているが、
円高などの難題が優しく解説されているので、小学6年生から高齢者まで解り易い、
と微笑んだりした。


昨今、高齢者の私は読売新聞を読んだり、NHKのニュースを視聴したりして、
政治、経済、社会の状況を学ぶことが多い。

こうした中で、以前はNHKの『週刊 子供ニュース』などを視聴し、
これだったら誰でも解り易い時事ニュース番組だ、と絶賛したひとりであった。

今回、たまたまめぐり逢えた【読売受験サポート】、
無知は暗闇を歩くのと同じであり、今後は愛読者のひとりになろうかしら、と微笑んだりしている。


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堤 剛(つつみ・ つよし)氏の発露された言葉、私は遥か遠い50数年前の情景を思い馳せ・・。 【下】

2011-09-03 13:56:25 | 定年後の思い
私の生家は京王線の金子駅(現在・つつじが丘)か仙川駅が最寄駅であり、
15分ばかり歩いた処で、
程ほど広い田畑、竹林、雑木林があり、祖父と父が健在の時は農業をしていたが、
1953(昭和28)年の春に父が病死され、翌年の5月に祖父も死去し、
大黒柱の二つをなくした実家は旧家としては衰退した。

その後、私が小学5年の頃の1956〈昭和31〉年の前後から、
田畑、雑木林、竹林が住宅街に急激に変貌し、都心のベットタウンとなった。

このような状況の中で、私の実家の周辺も住宅街となり、
桐朋学園が徒歩で10分ぐらいの地域でもあったせいか、
桐朋学園の高校生、大学生の人たちが親戚、知人の家を頼り、下宿に利用された家、
或いは生徒の親御さんが転居されてきた家もあった。


私が鮮烈に記憶していることは、1963(昭和38)年の頃、
私は実家に居て大学生の身であり、近所の家からバイオリンの音色が、
毎日ある一定の時刻から聴こえはじめて、数時間は続いていた・・。
練習をしているらしく、今日はスムーズに聴こえてくる、と私なりに感じたりした。

その後、音色は途絶えたので、卒業したのかしら、と思ったりしていた。

数年後、日本の有数なバイオリニストになった、と私は新聞で知った。


この一年前の頃、実家の最寄に、音楽家の夫婦が引っ越されてきた。
斬新なデザインの家屋で、ご主人は、日本のある交響楽団でオーボエを担当され、
奥様はピアニストである、と風の噂で聞こえたきた。

日中からピアノの音色が聴こえ、
私なりに何回も聴いているうちに、そのピアノ独奏曲を覚えてしまった。
私が10数曲覚えた頃、海外に行かれた、と後日知った。

私が23歳になると、このピアニストは日本の国内の有数なホールで、
ピアノ独奏会を開催するまでになった。

数年後、あるレコード会社でレコードを3枚録音し、
ご主人と離婚されて、少し遠方にある小高い丘陵に一軒屋で過ごされている、
と私は知った。


私は映画・文学青年の真似事をして、敗退した後、
1970〈昭和45〉年の春に、ある大手の民間会社に何とか中途入社し、
この中の一部門が、まもなくレコード会社として独立し、私も異動させられて、
音楽の制作する部門でない管理系の情報畑、経理畑、営業畑、管理畑を35年近く奮闘し、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職となった。


私は住む家は実家の近くに住んで、小田急線の成城学園前、喜多見、狛江の各駅、
そして京王線の仙川、つつじが丘の各駅に、買い物とか散策に何かと行ったりしている。
そして仙川方面に往復するたびに、桐朋学園の高校生、大学生の人たちをよく見かける。

こうした時、私の高校生の頃は、棉か絹のブラウスとスカートの容姿で、
楽譜を右手に持ちながら、真摯に音楽を学ぶ生徒さんに眩(まぶ)しく見え、好感したりしていた。

或いは私が27歳前後に、他の音楽専門大学を卒業した25歳の女性でピアニストをめざしている方に、
交際して、やがて私はプロポーズしたが、あえなく断られて失恋した、
苦い体験もある。

こうしたささやかな体験がある私は、現代の桐朋学園の高校生、大学生の人たちを見かけると、
少しばかり複雑な心境で苦笑しながら、今・・頑張ばらなくて・・いつ学びのよ、と心の中で声援したりしている。


私は恥ずかしながら楽譜も読めなく、どの楽器も弾けない拙(つたな)い身であるが、
ただ音楽を聴くのは好きであり、その日に応じた感性で、音楽を聴いたりしている。
ときおり感動するあまりに、涙ぐむ時もある。
しかしながら、音楽にも素養のない私は音楽に直接に携わる人・・アーティストの心情は、
少しは理解できる程度が、無念ながら本音である。


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堤 剛(つつみ・ つよし)氏の発露された言葉、私は遥か遠い50数年前の情景を思い馳せ・・。 【上】

2011-09-03 10:12:46 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
昨夕、いつものように門扉の近くに設置してある郵便受け入れ箱を覗(のぞ)いたら、
調布市文化・コミュニティが発行する月刊誌『ぱれっと』が入っていた。

私は地元の調布市にある文化施設の『たづくりグリーンホール』の今後の音楽会などの案内書であり、
玄関の軒下で見たのであった。

今回の9月号のトップ記事として、11月27日に於いて、
堀 正文(ヴァイオリン)、堤 剛(チェロ)、清水和音(ピアノ)3氏に寄る
ピアノ三重奏のベートーヴェンの『大公』、チャスコフスキーの『偉大な芸術家の思いで』を演奏曲として、
明示されていた。

この記事の右側に、堤 剛氏のインタビューの記事が掲載されて、
《チェリストであり、桐朋学園大学学長の堤剛氏を、
桐朋学園仙川キャンパスの学長室に訪ねました。
堤氏は、ご自身も桐朋学園のご出身です。》
と明記されていたので、我が家から徒歩10分ぐらいにあるので、
少しばかり親近感を抱きながら、インタビュー記事を読みはじめた・・。

《・・
「私が仙川に通い始めたころ、このあたりは畑ばかりで、
キューピーの工場だけがありました。

藤沢の自宅から仙川までの通学は大変だったので、
一年ほど下宿していたのがチェリストの藤原真理さんの家でした。
ほら、そこが真理さんの家」
と堤氏は学長室から指してくださいました。

堤氏は8歳の頃、日本で戦後初めて作られた1/2サイズのチェロに出会います。
そしてご縁あって紹介されたのが、
小澤征爾氏や多くの音楽家を育てた斎藤秀雄氏でした。

「母と初めて斎藤先生のお宅に伺った時、母の方が緊張していました。
私は先生の前で悠々とブラームスの子守歌を弾いてみたところ、
入門が許可され、お月謝が500円と言われました」
・・》

こうしたインタビュー記事が掲載されていたのであるが、
《・・私が仙川に通い始めたころ、このあたりは畑ばかりで、
キューピーの工場だけがありました。・・》
と発露された言葉により、私は50年前後の情景を思い馳せられたのである。


堤剛氏は1942(昭和17)年7月生まれであるので、私より2年ばかり齢上のお方であり、
《・・父親からチェロの手ほどきを受け、8歳で第1回リサイタルを開催。
桐朋学園でチェリストで指揮者の斎藤秀雄に師事、
桐朋学園高校音楽科卒業後にインディアナ大学へ留学しヤーノシュ・シュタルケルに師事した。
1963年よりシュタルケルの助手を務める。

1957年、第26回日本音楽コンクールのチェロ部門で第1位と特賞を獲得、
1960年、NHK交響楽団の欧米演奏旅行に同行し、評判を博した。
その後、1963年ミュンヘン国際音楽コンクールで第2位、ブダペスト国際音楽コンクールで第1位を獲得し、
世界各地のオーケストラと多数共演、演奏活動を行う。
西オンタリオ大学准教授、イリノイ大学教授、インディアナ大学教授を歴任し後進の指導にもあたる。

ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル他より収録CD、演奏曲を多数発表。
古典音楽から現代音楽まで幅広い演目をもつチェリスト。
・・》
このように輝かしい世界的に著名なチェリストであり、
8歳の少年期の頃から、京王線の『仙川』駅から程近い桐朋学園の周辺の情景を知っているので、
私はこの当時の情景に思いを思いを重ねた・・。


私は調布市で農家の三男坊として、1944(昭和19)年に生を受けた。
そして、1951(昭和26)年の春に地元の京王線の金子駅(現在・つつじヶ丘駅)の近くにある小学校に入学した。

この当時の情景は、駅周辺は商店街があったが、この街を過ぎると、田畑が広がり、
雑木林などで緑豊かな地域であった。

私の生家は金子駅より15分ばかり歩いた処で、
程ほど広い田畑、竹林、雑木林があり、祖父と父が中心となって農業をしていた。
田畑の中に1メートルぐらいの川幅のある小川が流れ、長兄、次兄たちに竹に針を付けたりして、
ときおり鰻(ウナギ)を釣り上げたりしていた。

私は小学校を下校する時、ときおり遠回りして帰宅した。
校門を出て新宿駅方面のひと駅は仙川駅であり、この間の周辺を歩いた。
校門から少し歩くと畑道があり、その先は田んぼのあぜ道であった。
そして前方に丘のように少し切立った国分寺崖があり、この高台に仙川地域となっていた。

この間の田んぼのあぜ道の近くに流れる小川を眺めたり、
或いは崖下の小道を歩き、湧き水を見つめたりしていた。
そして授業の図画の写生の時などで、先生に連れられて、
崖の周辺の丘陵にあった高射砲台の跡地の見晴らしの良い場所で、クレヨンで描いていた。

こうした時代に調味料のひとつのマヨネーズ・メーカーのキューピーの工場ができたのであるが、
仙川、金子の駅の周辺から15分前後の地域が、次第に都心のベットタウンに変貌するのは、数年後であった。

いつの頃か確かでないが、夕暮れになる頃、
何かもの悲しいが何か先が明るいような不思議なメロディーが、私の家の畑からも聞こえてきた・・。

学校の小学3年の級達とお互いに何だろうなぁ、噂をしていた時、
音楽の女の先生が、
『あの丘陵に建った工場から夕方に流れるメロディのことねぇ・・
あなた達には・・少し難しいけれど・・ ドヴォルザークという作曲家の『新世界』なのょ・・』
と先生は私達に教えてくれた。

『先生・・ドヴォル・・何とか云う人・・難しくて・・解からないけれど・・
何となく悲しいようで・・でも、明るいような・・』
と私は先生がかっこいいので、無理に言葉を重ねていた。

その後、周辺は都心のベットタウンと急速に変貌し、田畑が消えうせた・・。


このような情景を思い浮かべながら、確か仙川駅はこの当時の1951(昭和26)年の頃は、
地上に建設された木造駅舎で、この下に今と同じように少し窪地に駅のプラットホームがあった。

そして南の方面を歩くと商店街があり、和菓子店、理容店、美容室、八百屋、魚や、
蕎麦屋、ラーメン屋、和服衣料店、洋服屋、鍋物などを扱う金物屋、
ハム、豚肉、牛肉の肉や・・などがあり、
こうしたこの当時の商店街の情景は、郊外のどこの町でも見られた商店街であった。

商店街の終わりには塘路の交差点があり、
左側の前方に教科書、書籍、雑誌、文房具を扱う書店があり、
右側には桐朋学園の正門があり、奥に程広い敷地に幾つかの白くペンキで施(ほどこ)した木造の校舎があった。

私は小学一年生のトボトボ遠回りした下校がえりの身ながら、
音楽専門学校、と叔母たちから教えられてきたが、
いじけた農家の児であったせいか、何かハイカラな校門、校舎を遠い世界を視(み)るような感じで、
この校舎から脇道を10分程とぼとぼと歩きながら、生家に帰宅した。

             
                           (つづく)

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