夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

熱中症が引き起こす「夏の死」のリスク 心筋梗塞、敗血症、DIC、高齢者の私は改めて学び・・。

2016-08-16 15:14:06 | ささやかな古稀からの思い
私は2004年(平成16年)の秋、ある民間会社に35年近く勤めて定年退職後、
多々の理由で年金生活を始め、早や12年生となっている。

平素の私の午前中は、年金生活を始めて以来、 平素の買物は自主的に専任者となった私は、
家内の依頼された品物を買い求めに、独りで殆ど毎日スーパー、専門店に買い物に行ったりしている・・。

我が家は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は、徒歩で15分である。

或いは小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は、徒歩20分となり、
そして私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

このような処で、私の生家も近く私は結婚前後の5年を除き、66年近くこの地に住んでいる。
           
いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。
                                
そして帰宅後も、再び独りで自宅から3キロ以内の住宅街、遊歩道、公園をひたすら歩き廻ったりした。

こうしたことは年金生活まもなく12年を迎えるが、
家内との駅前で買物、或いは都心で買物、そして国内旅行、冠婚葬祭、天候の悪化がない限り、
私の午前中の定例行事ようになっている。
             

本日の昼下がり、ときおり愛読しているネットの『デイリー新潮』を見ている中で、
【 熱中症が引き起こす「夏の死」のリスク 心筋梗塞、敗血症、DIC 】と見出しを見たりした。

そして私は、どのようなことですか、と私は思いながら、読んだりした。
          
この記事の原文は、『週刊新潮』2016年8月4日号に掲載された記事のひとつで、
『デイリー新潮』に8月15日に配信され、我らシニア世代は厳粛なテーマであり、
無断であるが記事を転載させて頂く。

《・・日本救急医学会に加盟する103の病院施設から報告された熱中症患者数は年間約2000人

炎天下で足元がふらつき、意識がぼーっとする。
熱中症かと思いきや、実は脳梗塞だった・・猛暑日が続く中、こうしたケースは多い。
さらに、脱水症状によって引き起こされる“熱中症由来の脳梗塞”にも注意が必要だと、専門医は言う。

熱中症が誘発する怖い病は、他にもある。
             
             
「高血圧、動脈硬化、糖尿病などの基礎疾患を持っている人のリスクは、脳梗塞だけではない。
血栓が肺で詰まれば、肺塞栓症、いわゆるエコノミークラス症候群を起こし、
心臓で詰まれば、心筋梗塞を引き起こす」(医学博士で米山医院院長の米山公啓氏)

熱中症に起因する「死に至る病」は、他にもある。
国立病院機構熊本医療センター救命救急センターの櫻井聖大(としひろ)医長はこう警鐘を鳴らす。

「人間は体温が上がりすぎると、各臓器に血流の低下と高温に起因する循環障害が起こり始める。
この段階からさらに体温が抑えられず、どんどん上昇が続くと、熱による直接的な臓器障害が起こります。

肝機能障害や腎機能障害、脳の中枢神経や消化器官にまで壊死が生じ、機能障害が進む。
むろんそのまま放置すると、多臓器不全で命を落とす。

この症状が体中で一番細菌が多く生息する腸に及ぶと、腸管粘膜損傷で、体全体に細菌がばら撒かれることになる。
極めて致死率が高い敗血症の発症です」

その後、重症化した熱中症の最果てには、いかなる終末が待ちうけるのか。

「全身で起こる炎症に血液の凝固機能が働き、腸内を皮切りに、
全身のありとあらゆる細かい微小血管内に血の塊、つまり血栓が大量にできます。

やがて血液の凝固成分が枯渇し、一転して今度は炎症を起こしても血が固められなくなる。
同じ人間の体内で大量の血栓の発生と大量の出血が起こるのです。

この段階の熱中症では、鼻や肛門などの粘膜を中心に全身から大量出血し、死に至る。
この病態を播種性血管内凝固症候群(DIC)と呼びます。

DICを起こした患者では、気管挿管したチューブから、熱せられた血液がブクブク泡を立てて噴き出してくるなど、
まさに凄絶としか言いようのない最期を迎えることになる」(同)

熱中症が実際にDICにまで至るケースは、どれくらいあるのか。
昭和大学病院救命救急センター長の三宅康史教授の話を聞こう。

「熱中症にもI度からⅢ度までの重症度があります。
意識障害等がある最も重いⅢで搬送されてきた方の1割がDICに罹っています」
             

☆“夏の死のリスク”予防法

日本救急医学会に加盟する103の病院施設から報告された熱中症患者数は、年間約2000人いる。
そのうちⅢ度の重症者は1100人ほどだから、DICの病態に陥った患者は100人強となる。

「このうち3分の2の方が命を落とされます」(同)
というから、60数人が死亡することになる。

いかに致死率が高いか理解できよう。
熱中症にならない、なっても軽度段階で抑えることが重要なわけだ。

予防策をいくつかお伝えしよう。

「なにより、水分補給をこまめに行うことです。この季節は一日に1~5リットルは水を飲みましょう。
一日中、家にいる女性であれば、1リットル分を2時間おきにコップ1杯ずつ。
暑い日にゴルフに出かける人は、3リットル分を1時間おきに飲んでください」
と、脳神経外科医の工藤千秋氏。

この際、水だけではなく、
「塩分も合わせて摂取してほしい。ナトリウムもきちんと摂らないと、
脱水が改善せず、低血圧になりすぎて血流が悪くなるからです。
スポーツドリンクのようにナトリウムも含まれている飲料がベストと言えます」
(日本脳卒中協会専務理事で、中山クリニック院長の中山博文氏)
             

室内にいても要注意だ。
「エアコンが嫌いで真夏でも、かけない人がいますが、熱中症の要注意ラインは30度。
適切に活用して室温をこれ以下に保つことが大切です。
就寝時にもタイマーを設定しましょう。

実は熱中症による死亡者の9割が屋内にいた人なのです」(工藤氏)

以上の点に留意し、日頃から予防に努めるのが、“夏の死のリスク”を未然に防ぐ道につながるのである。・・》

注)記事の原文にあえて改行を多くした。
             

私は過ぎし2010年(平成22年)の秋に、私は健康診断の結果、糖尿病と診断され、青色吐息となり果て、
内科の医師の指導、家内は野菜を多くした料理、そして私はウォーキングをほぼ毎日したりした。

そして翌年の2011年(平成23年)の3月の初旬、
最寄の内科に4週間毎に定期健診を受けて、糖尿病の範囲の対象から克服でき、
悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はすべて優等生となった。

この後は、4週間於きに定期検査日、次回は検査結果日、と四週間ごとに通院している。
そして血圧、脈拍などを受け、問診したり、検査日には血液検査、検尿などをしてきた。

そして隣接した薬局で、血糖を下げる薬、インスリンの分泌を促す血糖を下げる薬、
動脈硬化を防ぐコレステロールを下げる薬、いずれも錠剤の3種類を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。

こうした体験のある私は、原則として殆ど毎日、平素の買物の責務を果たしたり、
そして帰宅後も、独りで自宅から3キロ以内の住宅街、遊歩道、公園をひたすら歩き廻ったりしている。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
私はひたすら歩くこと、睡眠、程ほどの食事がセカンドライフ健康体の三種の神器として思い、過ごしている。
             

熱い時節になると、私の容姿として制服のようになった半袖のスポーツシャツ、
長ズボン、そして夏の帽子を深くかぶり、ウォーキング・シューズで足元を固め、
そして紳士バックを園児のように斜め掛けにして、颯爽と歩いたりしてきた。
         
しかしながら燦々と陽射しが照らす青空の中、歩いたりすると汗ばみ、
ハンドタオルで顔をふいたりし、ときおり扇子を取りだして扇(あお)いだりしているが、
汗がひたたり落ちる・・。
          
やむなくハンドタオルで顔などを拭いながら、できる限り樹の下にある歩道を歩いているが、
炎天下の道もあるので、高齢者の私でも、人生は気合いだ、と自身を叱咤激励をしたり、
或いは冬の寒さを思い浮かべて、 足早に歩いているのが実情である。

こうした時、ときおり ♪しあわせは 歩いてこない  だから歩いて ゆくんだね・・
【『三百六十五歩のマーチ』 作詞・星野哲郎、作曲・米山正夫、唄・水前寺清子 】
と何かと単細胞の私は、1968年(昭和43年)の頃に流行(はや)った歌を心の中で唄い、歩く時もある。
                          

しかしながら私は昨年の夏、33度以上の日は、駅前に買物に行く時は、
徒歩片道20分ばかり歩くことは断念して、利便性のある路線バスに乗り、車内の冷気に甘えて往復したりしてきた。

こうした根底には、やはり熱中症で倒れて、救急車で運ばれて、
目覚めたら病院のベットの上だった事態は、何かと単細胞の私でも困苦するので、
炎天下の中、歩くことを避けたりしてきた。

そして我が家は、この熱い時節になると、エアコンを27度に設定して、
冷気に甘えて家内と共に過ごしている。

『エアコン・・フル稼働していますから・・電気代が怖いわ・・』
と家内は呟(つぶや)くように私に、ときおり言ったりしている。

『熱中症で病院に入院するのは困るし・・電気代をケチらず・・我が家で熱い時期は過ごせる方が遥かに良いょ・・』
と何かと気弱な私でも、プラス思考で明るく家内に言ったりしている。

今回、改めて熱中症、そして誘発する怖い病状に動顛させられながら私は多々学び、
年男のまもなく満72歳を迎える私は、30度を超えた日は、歩くことは30分以内にして、
熱さ寒さ彼岸まで、と古人から銘言に基づき、ペースダウンして、爽やかな初秋を迎えよう、と決意したりした。

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蓮(ハス)、そして湧水(わきみず)、愛惜感を秘めた私、ささやかな想いは・・。

2016-08-15 14:49:57 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活のまもなく72歳の身であるが、
今住んでいる地域に、結婚前後の5年を除き、66年ばかり住み、
戦後から今日まで急速に変貌してきたことに、何かと心を寄せたりして愛惜感もある。

          
           ☆掲載した写真は、ここ一か月、都立・神代植物園に訪れた情景である☆

私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受け、
やがて兄2人、そして妹二人の間(あいだ)で、サンドイッチのように育ったが、
何故かしらいじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

私が地元の小学校に入学した1951年〈昭和26年〉の春の当時は、
祖父と父が中心となり、小作人だった人たちの手を借りながら、程々に広い田畑を耕したりしていた。
そして母屋の宅地の外れには土蔵、納屋小屋にあったりし、周辺には竹林、雑木林に囲まれた農家であった。
 
こうした中、この当時の周辺の情景は、京王腺の駅付近には商店街があるだけで、
周辺は田畑、竹林、雑木林など拡がり、緑豊かな村里の情景であった。
       
このような状況で、私が小学生の前半までは、父、祖父が病死されるまで、農家の児として育てられた。

私は地元の小学校に入学した頃は、独りで下校する時が多かったりした。
          

こうした時、通学路から外れて、田圃の畦道を歩いたりし、
ある日、小雨に降られた後、七色の虹が視えて、
この世でこんなに綺麗なことがあるの・・と長らく見惚(みと)れたりした。

或いは通学路を下校する時、祖父の知人宅に寄り、
70歳ぐらいの小父さんに、白い梅の花、桜より好きです、と私は言ったりして、
変わった児だねぇ、と私は言われたりした。

或いは祖父が所有していた田んぼの中には小川に流れたり、ある処には湧水(わきみず)があったり、
この近くに150坪ぐらいの半反程度の広さの蓮(ハス)専用の水田があった。
          
私は何かと湧水(わきみず)に魅せられて、
夏の季節であっても、冬の時節に於いても
コンコンと湧き出る水を、どうしていつまでも湧いてくる、と不思議そうに眺め、飽きることがなかった。
そしてこの湧水(わきみず)は、田んぼの中央に流れる小川に流れていった。

初夏になると湧水(わきみず)の周辺は、夏のお盆に使う紅紫色したミソハギの花が咲いたりしていた。
          
            ☆都立・神代植物園に隣接した『水生植物園』で撮った☆

後年、私が結婚した後、家内と湧き水を観に旅行をしたりした。
富士山の伏流水が湧き出る三島郊外の柿田川、或いは忍野八海の湧き水を観に行ったりした。

そして伊豆地方の湯島に宿泊した時、湯ヶ島にある山葵(わさび)が植えられている処があり、
杉木立の斜面の外れに湧き水があった。
小さな湧き水が四箇所あり、コンコンと湧き出て、やがて小川となっていた。


蓮(ハス)専用の水田に関しては、7月の下旬の頃になれば、蓮の花は莟(つぼみ)となり、
やがて8月の初めに私の住む地域はお盆を迎えるので、祖父か父が6本前後採ってきた・・。

そして私は祖父に懇願して、大きな葉をひとつ貰ったりした。
私はこの大きな葉に水を少し入れると、水玉になり、陽射しを受けると、
キラキラと水玉が輝きを帯びたりするので、幼児なりに魅了されて独り楽しんでいた・・。

そして泥だらけの中で、どうしてあんなに綺麗な白い花が咲くの、と子供心に不思議に思ったりした。
          

やがて生家のお盆は、古来より8月1日は『お盆の日』となっている。

そしてお盆の迎え火は、7月30日の夕方に行われるが、
この日の午前中には、仏間にある仏壇から位牌と仏具一式を取り出した後、
仏壇の扉は、このお盆の期間だけ閉じられていた。

この前に畳一帖ぐらい台に盆棚と称せられたこのお盆の時だけの棚が設置された後、
この盆棚に移された。

そして盆棚の中央の奥に位牌を置き、周辺に野菜、果物を供えられ、
胡瓜(キュウリ)に割り箸のような足を付け馬を見立て、
茄子(ナス)も同様な形で牛に見立てたものを飾っていた・・。

後年になると、叔父さんから、馬は祖先の霊に乗って、この世に戻り、
牛はお墓に戻る時に乗って帰られる、と私は教えられたりした。

台の手前は、座布団を敷き、その脇に桶に水を入れ、蓮の葉に茄子を小さく刻んだのを浮べ、
淡い紅紫色のミソハギを小箒(こぼうき)のように作ったのを、水にしたし、清めていた。
そして台の左右に、この時節の百合の花などの草花を飾り、この中で蓮(ハス)の花が中核となっていた。
          

やがて夏休みが終わった頃、蓮(ハス)の田んぼに行くと、
花が終り、可愛い蜂の巣のような実となっていた。

数週間過ぎた頃、この実を採り、少し剥(むく)とどんぐりのような形した白い実が出てきて、
食べたりした後、少し甘い香りが残った・・。

やがて蓮(ハス)の葉が枯れる頃になると、
祖父、父が泥だらけの地中から大きくふくらんだ蓮根を取り出し、
青果市場に父は出荷した後の残りが、生家の食卓を彩(いろど)った。

私は蓮(ハス)と呼んでいたが、
後年になると、レンコン、と世間の多くの人が言ったりしているので、
戸惑いを覚えたりしている。

このような想いでがあるので、
公園などで淡い紅色した華やかな大賀蓮(オオガハス)観かけた時とか、
名所と知られているある寺の観せる美麗な蓮(ハス)は、
あれは単なる鑑賞専用の蓮(ハス)であって、私が愛惜を秘めている蓮(ハス)じゃない、
と幼児の思いに還ったりしている。
          

定年退職した2004年(平成16年)の翌年の夏、
ある書物で、黒羽山の大雄寺の高僧が、蓮(ハス)のことについて、綴られているのを知った。

《・・泥中に生じ汚れなく、幽香を漂わせる蓮(ハス)の花は、
清浄、柔軟、可憐から、他の植物にはない特徴があることから、
仏教の象徴的な意味を持つものとなっている。

泥の中で成長し根を張り、清楚な美しい花を見せる。
そして、普通の花は、まず花が咲いてから実をつけるものだが、
蓮は花をつけると同時に実を中に詰めたつつみが出てくる。

このことから蓮は、過去・現在・未来を同時に体現しているとされている。・・》
このようなことを遅ればせながら学んだりした・・。

私の生家は仏教の曹洞宗で、齢ばかり重ねた私は、何かと無知なことが多いが、
蓮(ハス)は泥の中から茎を出し、純白な花びらを見せてくれるのに、
圧倒的な思いで魅了されている・・。


改めて蓮(ハス)の純白の花を眺めたりすると、
何かと定年退職するまで卑屈と劣等感の多かった半生の歩みを、
浄化してくれる随一の花と思っている。
          

このように私なりに深い思いを秘めているが、
私が小学生2年に父が病死し、この翌年に祖父も死去し、
生家は衰退したが、私の住む周辺は1955年(昭和30年)の初めに頃になると、
田畑、雑木林は急速に消え、もとより蓮(ハス)の水田も消え去り、やがて住宅街に変貌した・・。

そして、この間に曲がりくねっていた近くに流れる野川も、本格的に大きな川として護岸工事の上、
整備されたり、遊歩道や小公園も新たに設けられたりした。

こうした中で、私が農家の児として育った原景は、殆ど消え去ってしまった・・。

そして私は家内と共に国内の旅行をした時、
旅先で偶然に、田んぼある蓮(ハス)の花を見かけたりすると、
しばらくのあいだ見惚(みと)れながら、まぶたが熱くなってしまうことが多くなっている。
                  
     
こうした思いのある私は、愛惜を重ねるように、都立『神代植物公園』の園内を歩き廻ったり、
雑木林、かえで園の数多くのモミジ林などに、身に心も安らぐひとつとなっている。

或いは近くにある『水生植物園』に行ったり、田んぼの情景、湧水を眺めたりして、
私が育った小学の低学年の頃までの情景を思い重ねて、見たりしている。
          

このような心情を秘めた私は、都立の神代植物公園こそが私の心の第二の故郷(ふるさと)として、
少なくとも四季折々に訪ねて、園内を歩き廻ったりしている。

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老衰死 痛みや苦しみと無縁で、むしろ快楽覚えるものとされる、と私は学び、やがていつの日にか・・。

2016-08-14 15:16:08 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活のまもなく72歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後38年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、自動車もない稀(まれ)な家となっている。

たまたま本日の午前中、家内が駅前で買物したい、と要望されたので、
私は家内のボディガード、お供そして荷物持ちとして、スーパー、ドラッグストアなどを廻って、やがて帰宅した。

昼食後、ときおりネットで愛読している『NEWS ポストセブン』を見ている中、
【 老衰死 痛みや苦しみと無縁で、むしろ快楽覚えるものとされる 】と見出しを見て、
どのようなことですか、と思いながら、こっそりと読んでしまった。

この記事の原文は、『週刊ポスト』の昨年の2015年10月30日号に掲載された記事のひとつで、
関連の『NEWS ポストセブン 』に於いて、2015年10月16日に配信された記事であり、
無断であるが転載させて頂く。

《・・東京・世田谷にある特別養護老人ホーム「芦花(ろか)ホーム」。
今年3月、ひとりの老女が、家族に見守られながら、静かに息を引き取った。
最期を看取った同ホームの石飛幸三医師は、「死因は老衰死だった」と振り返る。
              

「この93歳の女性は、食事ができなくなっても、あえて胃ろう(*注)や点滴などの、延命治療はしませんでした。
一日の大半を眠って過ごすようになり、最期は家族に見守られながら、穏やかに息を引き取りました」
【*注:栄養などの摂取のために腹部に手術で穴をあけ、胃に直接チューブを入れて流動食を流し込む方法】

年老いて死を迎える女性を家族が見届ける様子は、
NHKスペシャル『老衰死 穏やかな最期を迎えるには』(9月20日放送)で紹介され、大きな反響を呼んだ。

番組は、認知症や様々な病を抱えた、平均年齢およそ90歳の高齢者約100人が生活する芦花ホームに半年間密着。
延命治療を施さず、徐々に人生の最終ステップに向かう人たちと、見守る家族の姿を詳細に伝えた。

超高齢社会の日本では、そうした老衰による死者が増加している。
1938年の9万8451人をピークに、老衰による死者の数は、減少を続けていたが、
2000年に2万1213人で底を打った後、大幅な増加に転じ、昨年は戦後最高の7万5340人を記録した(厚労省『人口動態調査』)。

この10数年で、およそ3.5倍に増加したことになる。
全死因に占める割合を比べても、2000年の2.3%(死因順位7位)から、昨年の5.9%(同5位)へと急伸している。

老いと向き合うとき、多くの人が不安を抱くのは、死に至るまでの「痛み」や「苦しみ」だ。
            

老衰死が間近に迫った高齢者は、呼吸が不規則になり、口をパクパクさせながら、
大きく肩を動かして「ハー、ハー」と音を出して、呼吸するようになる。

苦しみながら、必死に息をする痛ましい様子に見えるが、
石飛医師は「大丈夫。全然、苦しくない」と断言する。
 
「普段は使わない首や顎の筋肉を使って、パクパクするのは『下顎呼吸』といって、反射的なものです。
一見、本人は苦悶しているように見えますが、すでに意識はなく、苦しみもないのです」(石飛医師)

芦花ホームでは、入居者に下顎呼吸が見られても、酸素吸入などの処置を行なわず、
ただ静かに様子を見守る。

苦しみはなく、自然な状態とわかっているからだ。
そして迎える最期の瞬間も、痛みや苦しみとは無縁で、むしろ“快楽”を覚えるものであるとされている。
石飛医師が指摘する。

「死ぬ瞬間には、脳内に鎮痛効果や高潮感をもたらす神経伝達物質のエンドルフィンが分泌され、
苦痛を感じないとする研究結果が、世界中で出ています。
エンドルフィンは“脳内モルヒネ”と呼ばれるもので、食事が摂れなくなっても、空腹を感じることはありません」
            

老衰死する多くの高齢者の死にゆく様は、安寧そのものであり、
がんや心臓病などに見られる「闘病」というイメージは感じられない。
冒頭で紹介した93歳女性の最期を見届けた長男は、番組内でこう語っている。
 
「父が亡くなったときも、無理して命を延ばしても、かえってかわいそうだと延命治療をしなかったんです。
(母は)よくここまで頑張ったかなと。誉めてあげたい」
 
老衰死は、見守る家族にとっても、望ましいものとなることが少なくない。
他の病気などと比べて、衰弱が緩やかに進行し、死の時期も予見しやすいため、「その日」を迎える心の準備ができる。

石飛医師が語る。
「年老いて、人生の坂を下っていく親を見届けながら、
“いよいよ人生の終わりが近づいたな”と実感して、親の死を受け入れる準備ができる。

私はよく、患者から『ピンピンコロリで、死にたいなあ』といわれますが、賛成できない。
何の準備もなく急に死なれたら、残された家族はたまりません。
“こうしておけばよかった”といつまでも悔やみ、悲しみを癒すまでに長い時間がかかります」・・》

注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

ここ数年、月刊総合雑誌、新聞などに於いて、
到来する2025年には、団塊の世代が75歳以上となり、やがて2038年前後には、
推計約170万人もの人が亡くなる“多死社会”のピークが来る、と掲載されている記事が多くなっている。

こうした中で、医師の長尾和宏さんは、
「病院で死ぬ人が、在宅死を上回ったのが1976年。
40年前までは、家で死ぬ人のほうが多かった。

終末期を病院のベッドで過ごし、過剰な延命治療をすることが、果たして本当に幸せなのか考えてほしいのです」
穏やかな最期を迎える「平穏死」という考え方を提唱する。

「人が死に向かうときには、体の機能が徐々に落ちて終末期を経てから、やがて死を迎えます。
終末期に食べ物を受け付けなくなるのは、自然なこと。

しかし、点滴で無理に栄養を入れ過ぎてむくみ、もがき苦しみながら亡くなるというケースも。
医療の目的は、命を延ばすこと。
終末期以降も過剰な延命治療を続ける医療機関も少なくありません。

最期をどこで、どのように迎えるか、選択権は患者本人にあります。
しかし認知症や意識不明で病院搬送された後など、意思表明が困難なことも多いのです。
延命治療をどこまで希望するか、終末期医療の選び方によって、
穏やかな最期を迎えられるということを知ってほしいと考えています」

このような記事を私は数年前に読み、延命治療に対して拒否しょう思っていた私は、深く共感を深めてきた。
            

今回の老衰死の状況を学び、やがていつの日にか、晩年期が到来した時、
このような老衰で、この世とお別れできたら・・と念願したりした。

そして安らかに、逝きたいと願いながら、こればかりは神様か仏様の采配に寄る世界であるので、
何かと気弱な私は、いつの日にか、どうぞお願い致します、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

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つたない人生航路を歩んだ私でも、シニア世代の十人十色のセカンドライフ、多々深く教示されて・・。

2016-08-13 13:30:29 | ささやかな古稀からの思い
私は1944年〈昭和19年)9月に今住んでいる近くの東京の調布市で、農家の三男坊として生を受け、
1955年(昭和30年)の小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
やがて都心の高校に入学した直後から、遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。

こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞し、
映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、付随しているシナリオを読んだりしていた。

やがて東京オリンピックが開催された大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。
                                
そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をしている中、養成所の講師の知人の新劇の長老から、
映画で生活をするは大変だし、まして脚本で飯(めし)を食べていくは困難だょ、
同じ創作するなら、小説を書きなさい、このような意味合いのアドバイスを頂いたりした。

まもなく私は契約社員としての警備員などをしながら、文学青年のような真似事をして、
純文学の新人賞にめざして、習作したりしたが、やがて敗退した。
            
                     
そして何とか大手の民間会社に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
          
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属されたが、大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられた。
      
こうして中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に、制作に直接かかわらない情報畑、
経理畑、営業畑などで奮戦し30年近く勤め、
この間に幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。
                                   
こうした中で、1998年(平成10年)に音楽業界全体の売上げピークとなり、
この少し前の年からリストラ烈風となり、やがて私も出向となっしまった。

そして各レコード会社が委託している音楽商品のCD、DVDなどを扱う物流会社に5年半勤め、
何とか2004年(平成16年)の秋に定年を迎えることができたので、
敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。
            

このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在であり、
何かと半生記は自慢史が多い中で、私は砂漠にある一粒の砂に過ぎない、と感じ深めたりしている。

このように悪戦苦闘の多い中で、敗残者のような状況であったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活を始めた・・。
                               
そして60代の10年間の年金生活を過ごして、
一昨年の9月に古稀と称される70歳となり、まもなく9月の誕生日を迎えると72歳となる。
            

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

世の中は夫65歳以上、妻は60歳以上の夫婦のみの無職世帯は、
高齢夫婦無職世帯と称しているが、我が家も同じだよなぁ、と私は漠然としながらも心の片隅にあるが、
私たち夫婦は息子、娘がいなく、もとより孫もいないので、実感が乏しいが本音である。

そして私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

年金生活を始めた当初から、午前中の殆どは、平素の我が家の買物として、
家内から依頼された品を独りでスーパー、専門店で求め、買物メール老ボーイとなっている。

この後、独りで自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などを歩いたりして、
季節のうつろいを享受している。

こうした根底には、定年前の私は、現役のサラリーマン時代は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた・・。

こうした家内のささやかな時間を壊すのは、天敵と私は確信して、
定年後の年金生活を始めた時から、私はこのような午前中の生活を過ごしている。
            

午後の大半は、私は随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

こうした中、家内は相変わらず料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
私はせめてと思いながら、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
何かと愚図な私でも、素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。


私は年金生活を12年ちかくを過ごしてきた中で、
私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

或いは、知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらく、と私は笑いながら逢ったりして、
ビール、水割りのウィスキーを飲みながら、談笑をしたりしている。

こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

そして、ときおり小庭の手入れをしたり、家内との共通趣味の国内旅行で、
私たち夫婦は海外の地は苦手であるので、せめてと思いながら、
元気なうちに行きたい所を行こうょ、と日本の四季折々の各地を訪ねてきた。
   
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
私はひたすら歩くこと、睡眠、程ほどの食事がセカンドライフ健康体の三種の神器として思い、過ごしている。
            
            
私の父は私が小学2年の三学期に、肝臓を悪化されて亡くなり、
母は私が53歳の時に、婦人系の癌で死去した。

家内の父は、私が民間会社のサラリーマンの定年退職の2004年〈平成16年〉の秋の直前に、
腎臓を悪化されて亡くなり、私たち夫婦のお互いの両親は、無念ながら家内の母だけとなっている。

そして家内の母は、我が家から電車・バスなどを乗り継いて2時間ばかりの千葉県の八千代市で、
一戸建ての独り住まいの生活をされている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、独り住まいの生活をされて、まもなく12年となるが、
家内の母は、5年前の81歳を過ぎた頃から膝(ひざ)を悪化して、杖(つえ)を突いて歩く身となった。

まもなく市の福祉課を通して、『要支援2』と認定されて、
市の福祉課からのアドバイスにより、住まいの一部を補修したりしたが、
介護の助成金のお蔭で、たった一割負担で済んだりした。

やがて昨年の5月下旬より、家内の母は膝(ひざ)、腰も悪化して、大学病院に入院した後、
リハビリで近くの病院に行ったりし、市の福祉課が再審査を得て、『要支援2』から『要介護1』と認定されたりした。

こうした中、家内と家内の妹は交互に、大半は家内の母宅に宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、
或いは通院の付き添いなどしているので、必然的に多くなっている。

こうしたことに伴い、ときおり我が家は、私が独りぼっちの『おひとりさま』の生活を過ごすこともあり、
私たち夫婦の年金生活に、少し影響を受けて、私は独り微苦笑する時もある。
            
           
この間、私は中小業の民間会社に奮戦している50代の時、同僚が病死されたり、
そして知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。
           
やがて私は2004年(平成16年)の秋に定年退職した後、
年金生活を始め、やがて62歳の時、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
       
まもなく、知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。

こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。
                                               
                                 
やがて私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。
            
ここ数年は会社時代の少し先輩、或いは後輩の68歳が、いずれも大病で入退院を繰り返した後、この世を去ったり、
ご近所の私と同世代の知人が、突然に脳梗塞で死去されて、数か月の先は誰しも解らない、冷厳なこの世の実態に、
私は震撼させられたりしてきた・・。
             

このような年金生活を過ごしているが、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

私は年金生活を始めて、まもなく偶然にブログの世界を知った・・。

そして2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)1月19日に加入し、
この日から4105日が過ぎている。

しかしながら、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    
        
このような軌跡で、ブログの世界を知って丸11年が過ぎて、早や12年生となっている。
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
                                           
               
こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。
                                               
私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、
そして年金生活の日々の心情を脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、
あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。
       
恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。
                       

こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは4年近く前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。
         
私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
不勉強の為に筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。

しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省する時もある。
                                                         
      
このように私は自身の投稿文も大切であるが、文愛人(ふみあいびと)のひとりの私は、
この間、数多くの御方の投稿文を読ませて頂いたりした。

そして日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い馳せながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ哀歓を感じながら、年金生活を過ごしたりしている。

こうした数多く投稿文を読ませて頂く中、たとえたった一行の綴りでも、
瞬時に琴線(きんせん)が静かに奏(かな)で始め、
やがてその御方のブログの愛読者のひとりになってきた・・。
            

そして果てしない広い世界でも、私が長らく愛読者している数多くのブログを御方には、
お逢いしていないが、シニア世代の十人十色のセカンドライフの過ごし方を多々学び、
感謝を深めている昨今である。

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Google検索が100倍便利になる裏ワザ、老ボーイの私は初めて学び、やがて微笑み・・。

2016-08-12 15:34:27 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の71歳の身であるが、
2004年(平成16年)の秋に定年後、多々の理由で年金生活を始めた。

そして午前中は、平素の我が家の買物は、家内から依頼された品をスーパー、専門店で求め、
買物メール老ボーイとなっている。

この後、独りで自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などを一時間半前後を歩いたりしているが、
ここ2週間は30数度の熱い日が続き、熱中症が怖くて、30分ぐらい歩いたりして、帰宅することが多くなっている。

昼食後、ときおり愛読しているネットの小学館公式サイトのひとつ「@DIME(アットダイム)」を見ていたら、
【 Google検索が100倍便利になる裏ワザ【初級編】 】と見出しを見て、
ときおりネットで検索する時に戸惑う私は、こっそりとクリックして読んだりした・・。

この記事は、諸原龍之介さんの寄稿文であり、『@DIME 』に8月12日に於いて配信されていたが、
無断ながら転載させて頂く。

《・・ひと口に“ググる”と言っても、皆が同じ“ググり”体験をしているわけでは、ありません。

あなたが雑音の多い検索で、時間を浪費している傍で、
Google検索を便利にする小技を知っている人は、望む検索結果だけをサクサクと効率的に集めているとしたら・・?

今回は、あなたの日々のGoogle検索を100倍便利にする(かもしれない)小技を5つ選んで紹介します!

記事を読んだ後にすぐ活用できる小技だらけです。
            

1.“引用符”でより的確な検索を

検索語句を引用符「“”」で括れば、“引用符内の語句を順番どおりに含むページ”のみを
結果として表示してくれます。

例えば、「imagine all the people」などの歌詞の一部や名言の一部を探したい場合などが考えられます。
調べたいことが、はっきりしている場合、これによって“雑音”を減らすことが期待できるでしょう。

例)” imagine all the people”

Google曰く「誤って有用な結果を除外しないように、
正確に同じ語句またはフレーズを探している場合にだけ使用してください」とのことです。

誤字・脱字は通常通り修正してくれますので、ご安心を。
            

2.ハイフン - で単語除外検索

「トイレなどの水まわり住宅総合機器メーカー」・「スポーツ振興くじ」・「アメリカのロックバンド」・・
これら3つ全てが、TOTOという1つの名称によって知られています。

しかし、例えばあなたがTOTOのヒット曲は知りたくて、
新しいウォシュレットを探していないのだとしたら、どうしますか?

そんな時に役立つのがハイフン「-」です。

「TOTO -トイレ」と検索すれば「トイレなどの水まわり住宅総合機器メーカー」が、かなり高い確率で除外され、
「TOTO -トイレ -くじ」と検索すれば、「スポーツ振興くじ」も一緒に除外されます。

※実際に「TOTO -トイレ -くじ」と検索してもらったら分かるのですが、
世界中のあらゆる「TOTO」を明るみに出すことになってしまい、
かえって「アメリカのロックバンド」が埋もれてしまいました。

この場合は「TOTO バンド」と調べた方が効果的であることは、間違いありません。
利用タイミングの見極めが肝心ですね!
            

3.site:URLでサイト内検索

「Googleの関連記事について調べたい。けれど@DIME内だけで・・」

そんな時に検索窓に打ち込むべきは「Google site:http://dime.jp/」です。

これによりhttp://dime.jp/内で「Google」を含むページが検索結果として表示されます。

特定のニュースサイト内のみの情報を調べたい時などは、かなり有効でしょう。

また、site:以下に“組織名/組織種別/国・地域コード(.co, .org, .jp, .ioなど)を当てはめることも可能で、
日本国内のみのPokemon Go現象を知りたい場合は「Pokemon GO site:.jp」などが有効でしょう。
            

4.アスタリスク*でなんとなく検索

「検索したいモノがある、けれどもはっきりと思い出せない・・」

検索したい語句やフレーズの一部を忘れてしまって、どうやって調べたらよいか分からない時もあると思います。
そんな時は、半角のアスタリスク*を分からない部分に、挿入してください。

例えば、「井の中の蛙」を調べたい人が「井」の部分をド忘れした場合、
「*の中の蛙」と検索するだけで、あとはGoogleが予測して検索結果を表示してくれます。

*はワイルドカードとも呼ばれます。
            

5. &それともOR?

「バットマンとスパイダーマンは、コラボしないのかな? どんな関係があるのかな?」

そんな時には、“バットマン“ & “スパイダーマン“で検索。

すると、バットマンとスパイダーマンの両方ともが言及されているページが表示されます。

また、

「バットマンとスパイダーマン、どちらかの情報が欲しい」

そんな時には、“バットマン“OR “スパイダーマン“で検索。

すると、バットマンのみか、スパイダーマンのみが言及されたページが主に表示されます。

引用符「“”」を忘れずに!

いかがでしたでしょうか?

使い方次第では、どれもかなり時間短縮や精度の高い検索に、つながるのではないでしょうか。

日常のGoogle検索にどんどん活用してみてくださいね!・・》

注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私は今年の9月に誕生日を迎えると72歳になる身であるが、
私は母の遺伝を素直に受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
      
しかしながら私は、年金生活の中で齢を重ねるたびに、物忘れが多くなった、と改めて気付き、
独り微苦笑したりした・・。

家内とテレビの旅番組を共に視聴したりしている時など、
あそこも行ったよねぇ、と私は家内に言ったりした時、その地の情景などは鮮やかに重ねることができても、
肝心の地域名が言葉に出来ないことが、もどかしさを感じることがある。
       
今回、私は特に学んだのは、《・・4.アスタリスク*でなんとなく検索
「検索したいモノがある、けれどもはっきりと思い出せない・・」・・》であり、
私に取っては朗報だよねぇ、と微笑んだりしている。

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くも膜下出血と急性心筋梗塞 死ぬ時はどのくらい苦しいか、気弱な高齢者の私は学び、動顛して・・。

2016-08-11 15:30:04 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活のまもなく72歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後38年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、自動車もない稀(まれ)な家となっている。

我が家は平素の日々の買物は、私が定年後に年金生活を始めて以来、
私は自主的に買物専任者として宣言し、家内から依頼された品を求めて、
独りで殆ど毎日、スーパー、専門店など歩いて行き、買物メール老ボーイとなっている。

こうした中で、家内が駅前のスーパー、ホームセンター、専門店などには3週間に一度ぐらい行くが、
たまたま本日の午前中、老ボーイの私は、家内のボディガード、お供そして荷物持ちをして、帰宅した。

昼食後、ときおりネットで愛読している『NEWS ポストセブン』を見ている中、
【 くも膜下出血と急性心筋梗塞 死ぬ時はどのくらい苦しいか 】と見出しを見て、
何かと気弱な私は、どのようになってしまうの、と思いながら、こっそりと読んでしまった。

この記事の原文は、『週刊ポスト』の2016年2月5日号に掲載された記事のひとつで、
関連の『NEWS ポストセブン 』に於いて、2016年1月29日に配信された記事であり、
無断であるが転載させて頂く。
            

《・・誰しも安らかに、逝きたいと願うもの。
また、愛する人や親しい人には、どうか苦しまずに、旅立ってほしい。

しかし、「死ぬ瞬間」に感じる辛さは、その死因によって残酷なまでに異なると
米山医院院長の米山公啓医師が指摘する。

「医療技術は、格段に進歩しましたが、激しい痛みや苦しみを伴って、亡くなるケースはまだあります。
残念ながら、死に至る苦痛は、平等ではないのです」

死ぬ瞬間、人はどのような辛さを感じるのか。
まずは日本人の死因の上位を占める脳卒中と急性心筋梗塞を見てみよう。
            

脳梗塞や脳出血などの脳卒中(脳血管疾患)の一種で、
とくに激しい痛みで知られるのが、くも膜下出血だ。

3年前に発症したAさん(58歳)が、当時を振り返る。

「最初は突然、足に力が入らなくなり、思わずしゃがみこむと、
後頭部をガーンと思い切りハンマーで、殴られたような衝撃を感じた。
これまでの人生で経験したことのない痛みでした。

次第に激しい吐き気を感じたかと思えば、今度は寒気が襲ってきて、その場から一歩も動けなくなりました」

すぐ病院に搬送されたAさんは、幸いにして一命を取り留めた。

しかし、そのまま死に至ってしまうケースが少なくない。
医療ジャーナリストで医師の森田豊氏は、「くも膜下出血を発症された方の3分の1近くが、
亡くなられている」という。

「元気だった人が突然、頭を押さえて表情を歪め、そのまま亡くなることも多い。
ほとんどのケースで予兆がなく、いきなり症状がやってきます。

この病気は、脳内の狭いスペースで出血するから、痛みが圧縮されて激痛となる。
じわじわした痛みではなく、唐突に生じる痛みです。
あまりの衝撃に、苦悶の表情を浮かべたまま、気を失う患者もいます」
            

救急救命士で帝京平成大学健康メディカル学部の鈴木哲司准教授は、
救急医療システム学が専門で、救急医療の最前線を経験している。
そんな鈴木准教授が生死の懸かった現場で、患者が「辛そう」だと感じたのが、急性心筋梗塞だ。

「心臓に酸素や栄養を送る血管である冠動脈が、突然詰まって血栓ができ、
血流がストップして、心臓が壊死してしまう病気ですが、多くの搬送を見てきた中で、最も苦しそうでした。

経験された方々は、“バットで思い切り、胸を叩かれた感じ”、
“熱した鉄棒を、左胸のあたりに、突き刺されたみたいだった”と口にしていた。

手足をバタつかせて、もがきながら、救急車内で搬送中に、心肺停止するケースもありました」

重態の場合は、発症から3時間以内に絶命するケースが、
ほとんどで「それまでが治療のゴールデンタイムなので、迅速な119番を心がけてほしい」と話す。・・》

注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私たち夫婦は子供に恵まれず、もとより子供に介護などは頼ることは出来ないので、
いつの日にか介護を要する身となった時は、介護施設に入居するか、或いは自宅でするか、
漠然としながらも思案し、ときおり私たち夫婦は話し合ったりしている。
        
ここ数年、私が何よりも恐れていることは、認知症となり、自身が正常に自覚をできないことである。
私は親戚の方、知人の方とか、本などで認知症の悲惨さを少しばかり学んだりし、
たとえば私が認知症となり、介護をしてくれる家内の身を案じるとたまらないのである。

或いは逆に家内は認知症となり、私が看病する場合も同様である。

認知症の本人は介護して下さる方も解らず、
何よりも介護する方は、看病する張り合いがないと思われるからである。
                                     

このような私の思いから、認知症になる前に、ポックリとこの世と別れを告げたい、と思ったりしている。
            

過ぎし6年の晩秋ある日、私の自宅の近くの川沿いの遊歩道を歩いていた時、
この遊歩道は片側が帯状に小公園となり700メートル前後あり、
樹木、草花が四季それぞれに彩(いろ)っている場所で、私の散策の好きなひとつのコースでもある。
      
そして、いつものように木のベンチに私は座り、煙草を喫いながら、少し休息をした・・。

この時に、どうした思いか解らないが、いつの日にか命が果てる時は、
晩秋の午前のやわらかな陽射しの中、ポックリと死を迎えられたら本望である、と脳裏をかすめたりした。

この遊歩道で、独りで歩き、好きな本を抱(かか)えて、突然に命が果てる、
といった状況を願ったりしたのである。
                                              

或いはいつの年か身体の変調を感じて、自宅で寝ていて数日し、悪化を増す中、
布団の中でオシッコを一度だけ漏らしたりして、死去後のことなどを家内に伝言する。
やがて救急車で病院に運ばれて、入院して数日後に死去する。

そしてこの間に家内からは
『あなたとの生活・・楽しかったわ・・』
と心の中で感じてくれれば充分である。

やがて私の葬儀の中、家内が私の兄妹、知人に、
『一週間前の頃は・・いつものように買い物に行ったり、散歩もしていたの・・』
と家内が言ったりしてくれれば、私はあの世で満足していると思われる。
                                      
          
こうした心情を重ねてきた私は、数年前に「ピンピンコロリ」は難しい、とネットの記事で学んだりした・・。

がん医療の権威で終末期医療に詳しい大野竜三医師(愛知県がんセンター名誉総長)は、
『・・ピン・ピン・コロリ。それは中高年なら、誰もが願う生き方でしょう。
でも、そう簡単なことでは、ありません。

現実的に60歳以上の日本人がコロリと逝くとしたら、心筋梗塞か、脳出血か、脳血栓かと思いますが、
救急搬送されれば、救命措置が施されるでしょう・・』
と私は学び、やがて微苦笑したりした。
          
このように70代か80代のいつの日にか末期となると思われるが、
こうした「ピンピンコロリ」と突然にこの世とお別れになるか、
或いは入院もわずかで死去したい、と念願しているが、どのようになるか、今の所は漠然としてきた。
                        

このような深情で過ごしてきた私は、今回の記事を読み終わった後、動顛させられた。

『くも膜下出血』は、《・・「最初は突然、足に力が入らなくなり、思わずしゃがみこむと、
後頭部をガーンと思い切りハンマーで、殴られたような衝撃を感じた。
これまでの人生で経験したことのない痛みでした。

次第に激しい吐き気を感じたかと思えば、今度は寒気が襲ってきて、その場から一歩も動けなくなりました」・・》
と読みながら、何かと気弱な私は、このような病状は勘弁してほしい、と瞬時に感じたりした。

或いは『急性心筋梗塞』にしても、《・・、“バットで思い切り、胸を叩かれた感じ”、
“熱した鉄棒を、左胸のあたりに、突き刺されたみたいだった”と口にしていた。
・・手足をバタつかせて、もがきながら、救急車内で搬送中に、心肺停止するケースもありました」・・》
と学び、勘弁してほしい、と瞬時に思いを深めたりした。

私は小心者であり、せめて終末期は痛くないように眠るように、この世にサヨナラを願っているが、
こればかりは神様か仏様の采配で亡くなるので、つたない人生航路を歩んだ私は、果たして・・と思ったりしている。

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おひとり老後のサバイバル術、ときおり「おひとりさま」になる私は、改めて多々教示されて・・。

2016-08-10 15:36:42 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活のまもなく72歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

世の中は夫65歳以上、妻は60歳以上の夫婦のみの無職世帯は、
高齢夫婦無職世帯と称しているが、我が家も同じだよなぁ、と私は漠然としながらも心の片隅にあるが、
私たち夫婦は息子、娘がいなく、もとより孫もいないので、実感が乏しいが本音である。

そして私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
                              

我が家の両親は、無念ながら家内の母だけとなり、我が家から遠い地で独り住まいをしている。

そして家内の母は自身の身の周りは出来ても、長女の家内は季節の変わるたびに、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどで、
7泊8日前後で母宅に泊りがけで行っているのが、ここ11年の恒例のようになっていた。

やがて昨年の5月下旬より、家内の母は膝(ひざ)、腰も悪化して、大学病院に入院した後、
リハビリで近くの病院に行ったりしている。

そして家内と家内の妹は交互に、家内の母宅に宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、
或いは通院の付き添いなどしているので、必然的に多くなっている。
            
こうした関係で、ときおり私は我が家で、独りぼっちの『おひとりさま』の生活を過ごしている・・。
            

このような私は『おひとりさま』の生活となった当初は、
私たち夫婦の安楽な年金生活の日々が、いつまでも永遠に続くことは叶わなく、無念ながら、
どちらかが、いつの年には片割れとなり『おひとりさま』となる、と学んだりしてきた。

こうした状況を思案させられた時、私は家内より先にあの世に旅立つことを思い、
残された家内が生活に困苦しないように、私は公正証書の遺言書を作成したのは、
定年後の年金生活を始めて、まもない時であった。

しかしながら、この世は予期せぬことがあり、万一、家内に先立たれて、
私が独りぼっちの『おひとりさま』の生活になることも考えられるので、
特別予行演習かしら、と思いながら私は過ごしている。
            

先程、ネットでニュースを見たりしている中、
【 おひとり老後のサバイバル術教えます 】と見出しを見て、
高齢者の男性でも、ドキンとし、どういうことなの、と思いながらこっそりと読んでしまった・・。

この記事の原文は、女性月刊誌として名高い『日経WOMAN』の9月号に掲載された記事のひとつであり、
『日経ウーマンオンライン』に8月9日に配信生活にされていたが、無断であるが転載させて頂く。

《・・「ひとりの老後に一番大切なのは、仲間をつくること」。

☆日頃から信頼関係を築き頼み事ができる人を持つ

「ひとりの老後に一番大切なのは、仲間をつくること」。
こう話すのは、女性ひとりの老後を支援するSSSネットワーク代表の松原惇子さん。

「老後の元気な時期に、夫や子供、孫がいなくて寂しい思いをする人も多い。
若いうちから、気の置けない友人と信頼関係を築いておくと、
老後に生活の困り事を助け合えるし、日々を楽しく過ごせます」。
            

また、FPの山田静江さんは、親族の大切さを指摘する。
「入院や施設入居時に求められる保証人や、手術の同意書にサインする役割などは多くの場合、
親族に求められる。
姪(めい)や甥(おい)などといい関係を築いておきましょう」。

頼れる親族がいない場合、後見人を立てる方法も。
「後見人がいれば、施設入居時の身元保証人の代わりと、見なされることが大半です。
おひとりの高齢者は、他人や親族に財産を狙われることも多い。

判断能力のあるうちに、信頼できる司法書士などと任意後見契約を結んでおくといいですよ」
と成年後見センター・リーガルサポート副理事長の川口純一さん。
            

☆老後に「頼れる人」を持つために、今からできる6つの習慣

1. 気になる人には自分からアプローチ
      今の友達との関係も大切にしたいが、互いの生活環境の変化で疎遠になることも。

      「何歳からでも友達はできます。
      気になる人と知り合ったら自分から声を掛けて食事にでも誘ってみて」(松原さん)。

2. おしゃれや見た目に気を使う
      「初対面同士が会う場で、マスク姿で服装にも構っていないような人は、敬遠されます。
      華やかな服やアクセサリーを身に着けるだけで、声を掛けられやすくなり、友達の輪が広がりますよ」(松原さん)。

3. 趣味や価値観が同じ仲間を見つける
       「同じ趣味を持つ人、価値観が似ている人とは、長く付き合える可能性が高い」と松原さん。
       「スポーツでも政治運動でも興味のある活動に参加してみては。
       一生の友達ができるかもしれませんよ」。
            

4. 兄弟、甥・姪など、親族を大切にする
       「おひとり老後には、各種手続きで親族に頼らざるを得ないこともあります」と山田さん。
       入院や施設入居時の身元保証人や身元引受人、手術時の同意などが頼めるよう、兄弟や甥・姪を大切に。

5. 隣人とは挨拶し、感じ良く接する おひとりの高齢者の様子を心配し、
       災害など緊急時にサポートしてくれるのは、近所の人であることも多い。
       日頃から挨拶をしておき、ちょっとしたことを助けてもらえる関係をつくっておこう。

6. かかりつけ医を持っておく
       定期的に健康診断を受けるとともに、信頼できるかかりつけ医を持つと安心。
      「風邪で受診する内科でも、婦人科などでもいい。
      隠れた病気を早期に見つけてもらえる場合もあります」(山田さん)。

(略) 「これ以上の情報をお読みになりたい方は、日経WOMAN誌面でどうぞ。」・・》

注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私は年金生活を12年ちかくを過ごしてきた中で、
私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
    
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
私はひたすら歩くこと、睡眠、程ほどの食事がセカンドライフ健康体の三種の神器として思い、過ごしている。

この世の中は、まさかの予期せぬ出来事に遭遇することがあり、
いつの年に私を残して家内が先き立たれて、常時『おひとりさま』になった時は、
ときおり『おひとりさま』とは、もとより大いに変貌となる。

私は家内と日頃から、子供がいない一代限りの為か、葬儀、お墓のことも何度も話し合ったりしている。
葬儀は兄妹などの親族関係だけの家族葬とした後、お墓は樹木園に埋葬し、
それぞれ好きな落葉樹の下で土に還る、
そして四十九日が過ぎたら、その時の心情でお墓参りをすればよい、とお互いに確認し合っている。
                       

私は家内が亡くなった時は、世の中はこのようなこともあるの、
と茫然(ぼうぜん)としながら失墜感を深めて、やがて四十九日を終えて、樹木園に行き、埋葬をすると思われる。

そして家内に先立たれた時、こうした古ぼけた家でも小庭の手入れも含めて維持管理するのは、
私たち夫婦の長き航路を歩み、愛惜感もあり、苦痛が増したりするので住めないだろう、と私は改めて感じている。

やむなく小庭のある古惚けた一軒屋を処分し、都立の大きな公園が隣接した場所で、
小さな2DKのマンションに転居すると思われる。

そしてスーパーと本屋に徒歩10分前後で行けた上で、
大学総合病院に公共の交通機関の利便性のある場所を選定するだろう。
                                                       
この前提として、もとより住まいが狭くなるので、
やむなく本の大半は処分し、500冊前後に厳選した上、
映画作品のDVD、そして音楽のCD、DVDは程々に多いがすべて移動する。

こうした独り身の『おひとりさま』になった時の私の日常生活は、
付近の公園で四季折々の情景を眺めながら散策したり、
スーパーでお惣菜コーナーの売り場で買い求めたり、本屋に寄ったりして、数冊を購入する。

小さな2DKの12畳は居間として、少し大きめのテープルを置き、壁一面に本と映画・音楽の棚で、
テープルにはバソコンを置き、窓辺のバルコニー越しにマンション敷地内の大きな樹木が数多く観え、
食事もこのテーブルを使い、四季折々の常緑樹、落葉樹の情景を眺める。

そして6畳はベットの下には、収納棚に下着と靴下、壁側は衣服棚・・
付近の区立の小公園を散策代わりに、毎日のように歩く。
                                                    
                                             
こうした中で、週たった一度だけ定期便のような居酒屋に行き、
中年の仲居さんと談笑し、からかわれながら、純米酒を二合ばかり呑むだろう。

そして私は家内の位牌の代わりに、定期入れに愛用した革のケースに、
家内のスナップを入れて、いつも持ち歩くと思われる。
               

こうした日常生活を過ごすと思われるが、
私は国内旅行も好きなので、少なくとも年に4回ぐらいは2泊3日前後で、各地を訪れるだろう。

劇作家のチェーホフの遺(のこ)された、
《・・男と交際しない女は次第に色褪せる、女と交際しない男は阿呆になる・・》
と人生の哲学のような名言は、
どうしたらよいの、と私は考えたりするだろう。

やむなく、私は宿泊先の仲居さんで、お酌をして下さる方たちと、
やさしくふるまいながら語りあうと想像される・・。

そして、その夜は枕元に革ケースを置いて、
人生はいつまで続くの・・、と天上の人となった家内に呟(つぶや)きながら、眠るだろう。
                                                      
私たち夫婦は幸運に大病せずに今日に至り、そして安楽な日々を甘味しているが、
こればかりは幾数十年継続できないので、このような私の方が実質『おひとりさま』になってしまった時を、
小心者の私は思いめぐらす時がある。

しかしながら『おひとりさま』の生活をしてゆく中で、健康寿命は終わりとなり、
人生の晩秋期の最大の難関である介護が必要となった終末期は、漠然とし思案しているが、
こればかりは確かなことが判らず、余り考えたくない、と私は思ったりしているが昨今の心情である。

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暑い夏は「お昼寝」すると、人生が2倍になると、年金生活の老ボーイの私は学び、微苦笑して・・。

2016-08-09 16:37:04 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の71歳の身であるが、
2004年(平成16年)の秋に定年後、多々の理由で年金生活を始めた。

そして午前中は、平素の我が家の買物は、家内から依頼された品をスーパー、専門店で求め、
買物メール老ボーイとなっている。

この後、独りで自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などを歩いたりしている。
私は今住んでいる地域に、結婚前後の5年を除き、66年ばかり住み、
戦後から今日まで急速に変貌してことに、心を寄せたりして愛惜感もある。

そしてイギリスの湖畔詩人と称されたワーズワースは、湖水地方の緩やかな谷と丘が連なる道、
或いは小さな町の田舎道を、何十キロでも平気で歩いたと伝えられているが、
私も少しばかり真似事をして、歩き廻ったりし、季節のうつろいを享受している。
            

帰宅後の午後の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

こうした生活は、小庭の手入れ、家内と共に都心に買物、冠婚葬祭、国内旅行などに出かけない限り、
大半はこのような日程で過ごして、まもなく年金生活を丸12年となる。

そしてこのような年金生活を過ごしている中、ときおり読書に熱中して深夜まで読んだりすると、
昼食後しばらくすると眠くなり、昼寝をしてしまい、やがて目覚めた時は、
いつでも昼寝ができるので、年金生活のボーナスだ、と微笑んだりしている。
            

昨夜、ネットで愛読している『アゴラ』を読んだりしている中、
【暑い夏は「お昼寝」すると、人生が2倍になる 】と見出しを見て、
どういうことなのょ、と好奇心に負けて、読んだりした。

この記事は、資産デザイン研究所代表取締役の内藤忍(ないとう・しのぶ)さんの寄稿文であり、
『アゴラ』に於いて8月8日に配信され、無断であるが転載させて頂く。

《・・東京は8月に入ってから、とても暑い日が続いています。
Tシャツで仕事をしていても、外出するだけで、アスファルトの照り返しの暑さと、
部屋に入った時の冷房の温度差で、体が参ってしまいます。

そこで最近試しているのが「お昼寝」です。

以前勤務していた会社で、ランチタイムに10分程度仮眠を取っている人がいましたが、
私のお昼寝はもっと本格的(笑)です。

午後2時くらいから2時間程度、
ベッドに入ってぐっすり眠ってしまうのです。
起きる頃にはもう夕方。外も随分涼しくなっています。
            

このようなお昼寝を導入すると、どうなるか。

まず、朝が早起きになりました。
5時、6時くらいには目が覚めて、午前中の集中力の高い時間帯を、長時間確保できるのです。
食事をするお昼まで、たっぷり時間が使えて、夜に仕事をするよりも、能率は上がります。

そして、食事を摂って、少し休憩すると、そのまま寝てしまい夕方に備えます。
これで、一番暑い時間帯に体力が温存できます。

夕方になったら、また活動開始です。
お昼寝をしているので、夕方になっても、朝起きた時のようなすっきり感があって、
バテてしまうといったことはありま せん。

また、睡眠を挟んでいるので、別の一日が始まったような錯覚も半分くらいあって、
気分が一新されるメリットもあります。

人生が2倍になるというの は、少し大げさかもしれませんが、
1日中ダラダラしているよりは、メリハリが効き、夜の寝る時間まで、
肉体的な疲労感をまったく感じないのが、メリットで す。
            

子どもの頃は昼寝をすると、夜寝られなくなって困ったものでしたが、
今はそんなことありません。

睡眠時間は短くなりますが、深夜になる前には、再び眠りに就くことができます。

元々睡眠時間が長めで、生まれながらに朝型の生活スタイルだったので、
お昼寝スタイルにも、適応しやすいのかもしれません。

トータルの睡眠時間は、夜寝る時間が短くなるので、あまり変わりません。

これから1か月くらいは、まだ暑い日が続きそうです。
予定が入っている日は無理ですが、秋の涼しい季節になるまでは、
出来る限りお昼寝を採りいれて、1日に2回起きるライフスタイルを続けてみようと思います。

夏バテの対策は、やはり睡眠と栄養ですね。・・》

注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

今回の記事を読み終わった後、内藤忍さんは資産デザイン研究所代表取締役で重責の身であり、
責務の効率を配慮して、熱い夏の季節には昼寝をされて、一日をあたかも二日ように過ごされている、
と私は多々教示された・・。

私は気楽な年金生活の身で、この熱い時節にも昼寝をしたりしてきた。
昼食後、眠くなった時は簡易ベットを居間のエアコンの冷気がある所に敷いて、
夏掛け布団を掛けて、横たわると、何かと単細胞の私は寝付いてしまう・・。

いつ日だっか震度3ぐらいの地震があっても、目覚めることなく、
後で家内から教えられて、微苦笑したりしてきた。

しかしながら秋のお彼岸を迎える頃、体重は確実に数キロ増えて、夏バテで痩せることなく、
肥満体77キロとなってしまい、苦笑を重ねてきた。
            

このような事情で、今年の夏は昼寝禁止令、と自身を叱咤してきたが、
一度だけ眠さの誘惑に負けて、昼寝をしてしまったので、微苦笑したりしている。

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人生が二度あれば、と叶わぬ夢を老ボーイの私は、ときおり独り微苦笑して・・。

2016-08-08 16:14:13 | ささやかな古稀からの思い
シンガー・ソングライターの井上陽水さんには、『人生が二度あれば』(1972年)という名曲があり、
もとより人生は、誰しもやり直しが叶わぬことであるが、ときおり老ボーイの私は、
あの時、人生の岐路に於いて選定が変わっていたら、つたない人生航路を歩んできた私でも、
大幅に変化していたよなぁ、独り微苦笑したりする時もある・・。

私は過ぎし45年前の頃、青年時代に於いて、映画・文学青年の真似事をして敗退したひとりである。
                             

多く人は、若き日のひととき、小説、随筆などを読み、読書に魅せられ、
やがて一部の人が、ある作家たちの作品に魅了され、多くの作品に感銘さえ感じることだろう。

或いは世界、日本文學全集などで読む中で、圧倒的に魅せられる作家を見いだし、
単行本、文庫本、文藝雑誌を読んだりすると思われる。

こうした中で、一部の人は、このくらいの作品であったならば、
私だって書けると錯覚して、習作されると思ったりするが、
もとより読者と創作する作者とは、天と地以上に差異があることに気付かされたりする。

或いは魅了されている作家の作風、文体を真似ていたことに気付き、
創作者にあこがれるが、創作者には到底なれないと自覚させられ、断念する人が多い。

こうした中で、この作品を書き上げなければ、一歩先に進めない、と自覚する方で、
独自な作風、文体を確立しそうな方だけが、作家の第一歩に相応しい、と感じている。

従って、どのような分野の作家も、魅了された先人の創作者の模倣から始まり、
やがて独自な作風、文体を確立できなければ、職業作家としては失格となる。

こうしたことは小説の世界にとどまらず、映画の作品も同様である。
ある作品を観れば、先人の創られた作品に影響され、あるシーンを巧みに模倣している、
と気付いたりすることもある。

或いは音楽の世界でも、メロディーラインも同様なことが発生し、多くの方も気付いていると思われる。


私は定年後の年金生活11年半が過ぎている中で、読書は好きであるが、
小説を読むことは激減して、随筆、ノンフェクション、近現代史を読むことが圧倒的に多い、
と微苦笑したりしているのが、昨今となっている。
            
                              
私は1955年(昭和30年)の小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
やがて都心の高校に入学した直後から、遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。

新潮文庫本、岩波文庫本を中核に読み、ときおり単行本を購読したのであるが、
創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。

たまたま小説に熱中していた私は、ある小説家の作品を読んでいたら、
このくらいの作品だったら、僕だって書けそうだ、
と自惚(うぬ)れながら、高校一年の夏休みに50枚ぐらいの原稿用紙に、 初めて習作した。

そして 私は写真部に所属していたが、まもなく文芸部の先輩に見てもらったりした。
やがて一週間が過ぎた頃、川端康成(かわばた・やすなり)さんの影響を感じられるが、
何よりも青年の心情が感傷過ぎている、と苦笑されたりした。

こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞し、
映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、付随しているシナリオを読んだりしていた。

こうした中で、脚本家の橋本忍(はしもと・しのぶ)さんの『切腹』を脚色された作品
(原作・滝口康彦、監督・小林正樹、1962年)を観て、
圧倒的に感銘させられ、やがて東京オリンピックが開催された大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。
                                 

そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。

その後、養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、
映画で生活をするは大変だし、まして脚本で飯(めし)を食べていくは困難だょ、
同じ創作するなら、小説を書きなさい、
このような意味合いのアドバイスを頂いたりした。

この当時の私は、中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいの文学全集を読んでいたが
その後に講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた全22巻の文学全集を精読したりした。
こうした中で、純文学の月刊誌の『新潮』、『文學界』、『群像』を愛読していた。

或いは中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりしていた。

こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上靖(いのうえ・やすし)さん、そして立原正秋(たちはら・まさあき)さんの両氏であった。

やがて私は契約社員の警備員などをしながら、生活費の確保と空き時間を活用して、
文学青年のような真似事をして、この間、純文学の新人賞にめざして、習作していた。
                      

しかし大学時代の同期の多くは、大学を卒業して、社会人として羽ばたいて活躍を始めているらしく、
世の中をまぶしくも感じながら、劣等感を秘めて私の方からは連絡も避けていた。

そして私はこの世から取り残されている、と思いながら、
明日の見えない生活をしながら、苦悶したりしていた。

こうした中で確固たる根拠もなかったが、独創性はあると思いながら小説の習作したりし、
純文学の新人コンクールに応募したりしたが、当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、
こうしたことを三回ばかり繰り返し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

こうした時、私の実家で、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤された。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向を決意した。
                      

そして何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
          
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部の大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられた。
      
やがて中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
この間に幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。

そして最後の5年半は、リストラ烈風が加速される中、あえなく出向となったり、
何とか2004年(平成16年)の秋に定年を迎えることができたので、
敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。
                       

この間、私は40代の少し前、あるレコード会社で社内のシステム開発で奮戦していた時、
若き日に映画・文学青年の真似事をして、創作家にあこがれを持ち、
小説家になりたい、と念願していたことが、いかに甘かったか、と遅ればせながら気づかされたのである・・。

こうした心情の奥底の思いは、私と似たような作家志望の人たちに対して、
後年に長年に出版社の光文社で、ご活躍された山田順(やまだ・じゅん)氏が、的言している。

氏の長年の編集者の体験をした発露のひとつ、
《・・私の経験から言うと、作家志望者のほとんどが、実際には印税や名声を望んでいるだけである。
彼らが作品を書くのは、それを得るための手段に過ぎない。

ほとんどの作家志望者は、社会に伝えたい明確なメッセージや思想を持っていないし、
それを裏付ける経験もない。・・》
このように明言され、今後も創作者をめざす人には、貴重な哲学のような銘言と私は感じたりした。
                       

そして小説家をめざす数多くの人は、文学部で学び基礎を習得し、その中のほんの一部の方が、
純文学の『新潮』、『文學界』、『群像』などの雑誌で掲載される機会があり、
こうした方たちでも、果たして筆一本で妻子を養っていける方が少ない、と学んだりした。

若き日に私が、たとえば偶然に純文学の新人賞を得たとしても、
その後の作品を書き上げて、掲載される保証もなく、才能も乏しく、
やむえず生活の為に、この世に多い教養講座の文藝講師などに、ありつければよい方だろう・・。

そして、たえず生活費に追われながら、文學の夢を捨てきれない時期を過ごしていただろう、
と深く思ったりした。
                                  

このように私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された定年退職後の人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
                       
          
ここ10数年の出版業界の不況を、読書好きな私は憂いたりしている。

作家・瀬戸内寂聴さんが確か2009年(平成21年)10月に於いて、
読売新聞社・主催の講演会で、発言されたことを思い重ねている。

《・・私を見習って、もしもみなさんの中に小説を書こうと思っていらっしゃる方がいれば、
お勧めしかねますね。
非常に険しい道でございます。
そして人が認めようが認めまいが、芸術というのは、その人に才能がなければ意味がないんですね。

一に才能、二に才能、三に才能なんです。
あとは運ですよ。
努力なんてしなくても、才能があればモノになる。
これは芸術だけでございます。

作品がどれだけ読まれるか、残るかというところで、勝負がつきます。
だいたい流行作家のよく売れてる本というのは、死んだら3年と持ちませんよ。
                       

わたしの先輩の円地文子さんが、女流作家では最高のところにいらっしゃった方で、源氏物語も訳した方なんです。
その方が顔を見るたびに、言ってらっしゃったんです。
「作家なんて生きている間だけよ、生きている間に稼ぎなさい」と。

私もその教えが身にしみていますから、本当に死ねば、誰も読んでくれなくなるんですよ。
・・
文学というものは量ではなく質です。
私がなかなか文学賞をもらえないように、これも量ではなく質の問題で、
いくら量を書いても、意味がないんですね。
          
しかしその中でも、人は認めないけれども、私がよしとするものもあるんです。
それがないと作家なんてやってられませんからね。
小説家で通す、書くことだけで生活する、というのは、やはりとても難しいことです。

私は長く生きて、長くこの世界におりますけれど、今また最低の時代がやってきました。
本屋に行くと、山ほど本がありますよ。
読みきれないほど、新刊本が並んでおります。
その中でどれだけ残るかわからない。

目まぐるしく人の嗜好(しこう)が変わっておりますからどんどん読み捨てになっています。
出版社がだんだん、もちきれなくなっている。 (2009年12月3日 読売新聞)一部を引用 ・・》
                                 

こうした出版業界と創作者の作家の状況の中、電子書籍の時代の著作権が不明確のまま到来、
何よりも出版社と著作者に無断のまま、本を裁断してコピーし、販売する業種も出現し、
出版社などは、大揺れの状況下となっている。

或いはアマゾンなどのネット書店に席巻されて、街にあった中小書店が激少し、
出版業界全般として縮小している。


昨今、私が衝撃を受けたは、芥川賞作家の柳美里(ゆう・みり)さんが、インタビューされた記事の中で、
《・・多くの作家が経済的に困っている状態ということですか、と問いに、
柳美里さんは、「書くことだけで食べている作家は、30人ぐらいではないか」という話を聞いたのですが、
かなりリアルな数字だと思います。
ただ「貧乏は恥ずかしい」と考えている方が多く、公にしないだけだと思います。・・》

こうしたことに私は動顛させられた。
                       

そして私が勤めてきた音楽業界のレコード会社の各社でも、
1998年(平成10年)に売上のピークで、これ以降今日まで下降している。

主因としては、経済の低迷化の中で、ネットの違法な音楽配信の蔓延化、そして社会全般の多趣味化であり、
やがて正規な音楽配信元でも、無料、或いは有料の音楽利用料金が普及してきたが、
著作権を有するアーティストに対しての対価は、余りにも廉(やす)過ぎる、と私は感じたりしている。

このような環境下では、肝要の音楽アーティストの多くは、
収入の激少化となり、生活もままならず、創作意欲がなくなってしまうのではないか、
或いは転職を余儀なくされてしまうのではないか、と憂いたりしてきた。
                    

この世には職業には貴賤がないといわれているが、
たとえば政治家の諸兄諸姉は、法律を立案や憲法を改定したり、外交が破綻した時は戦争をしたり、
或いは財界人は経済を発展させる基盤を施策したりして、国民の豊かさを享受させる能力を有する方が、
ここ百年でも歴然としている。

こうした方の前では、小説家とか音楽アーティストなどの創作者の多くは無力であるが、
しかしながら一部の人に圧倒的に感動させたり、感銘させる心を豊かにする作品に、
私は小説家になれなかった劣等感の為か、創作者には敬意し絶賛してしまう習性が、ここ50数年の深情である。
            

年金生活をまもなく丸12年を迎える私は、年金生活の中、都立の神代植物園に四季折々散策したりしてきた。
こうしたある日、人生が二度あれば、神代植物園の園長になれれば良かった、と夢想したりした。

こうしたことの前提として高校、大学も勉学に励み、やがて難関の都庁に勤めて、都立の公園を管轄する部署で精進し、
そして定年退職する前の3年間ぐらい神代植物園の園長で、現役働く生活を終える。

このようなことを思案したりしたが、過ぎ去った70数年の今、もとより叶わぬ夢であり、
老ボーイの私は、独り微苦笑したりすることもある・・。

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無縁墓を防ぐには「墓じまい」という方法が有効と学び、私たち夫婦のささやかな『お墓』の思いは・・。

2016-08-07 15:47:29 | ささやかな古稀からの思い
私は1944年(昭和19年)の秋に、東京の調布市の片隅ある農家の三男坊として生を受け、
生家の近くに、分家のような形で住んでいる。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、『お墓』に関しても一代限りとなる。
そして生家である実家のお墓の近くに墓地を買い求めるのに、長らく躊躇(ためら)ってきた・・。

こうした根底には、いつの日にか、私たち夫婦が亡くなった後、
長兄の子供である甥っ子ふたりに、何かと面倒をかける、と思いであった。
                   

私が40歳を過ぎた頃の1985年(昭和60年)の2月、
亡き小説家・立原正秋さんの作品のひとつに描かれた信州の別所温泉に、私たち夫婦は一泊二日で訪ねた。

こうした中で、あるお寺を散策していた時、お寺の隣あわせに里山を切り開いたように、
緩やかな傾斜のある広大な墓地があり、お花が数多く飾られ、お線香の煙がたなびいていた・・。

その外れに松林のゆったりした丘があり、ここに数多くの墓石が転がっていた。

人が訪ずれた形跡もなく、墓石に松葉が音もなく舞い降り、
苔に覆われた墓石が横たわっていたり、松の葉で埋もれかけた墓石もあった。
こうした無縁の墓地に、木漏れ日が地上を彩(いろど)っていた。

このような情景を偶然に視た私は、人が土に還える、とはこうした事だろう、と思い重ねたりした。
こうした思いから、通常のお墓でなく、無縁仏に近いことを考え始めた・・。
                         

その後、10年過ぎた頃、岩手県のあるお寺で樹木葬を知り、
これだったら土に還える、と私は納得しながら、家内に言った。

『俺が先に死んだら・・花巻温泉で静養し、気が向いた時でいいから ・・・
お墓には寄ってくれればよい』

お墓といっても、里山に墓石もなく、私たちの好きな樹木のひとつがある下で、
土の中に埋葬されるだけである。

このように私たち夫婦は、お墓は樹木葬と決め、7年前の頃に伊豆大島にも樹木園ができた、
とか学んだりしてきた。

その後、幾つかばかり樹木葬ができる墓地を検討したりした。
いずれも永代使用権、永代供養料、永代管理料などを一括納入すれば、
私たち夫婦たちのどちらかが残された方は、体力の衰えた身であっても、お墓参りが出来る、と思ったりしてきた。
            
          
こうして思いばかり重ねてきたが、私は男性の平均寿命は80歳と認識しているので、
私たち夫婦は元気な今、樹木葬のできる墓地を決断しょう、と思い、
今年の5月、私たち夫婦は樹木葬の墓地(埋葬地)として、最有力地として、
伊豆大島にある『千の風 みらい園』を訪ねたりした。

そして里山の傾斜に、それぞれお気に入りの指定した場所・・永眠できる地・・
前方は海が見られ、天候に恵まれれば彼方には、伊豆半島、富士山が聳え立つ景観であった・・。

いつの日にか、この地で私たち夫婦は埋葬されて、やがて土に還ることは、私たちは望ましい、
と思い深め、やがて後日に契約をしたりした。
            

こうした心情を秘めた私は、ネットで愛読している『NEWS ポストセブン』を見たりしていた中で、
【 無縁墓を防ぐには「墓じまい」という方法が有効 】と見出しを見て、
どういうことなのです、と思いながら記事を精読してしまった・・。

やはり『お墓』に関しては、十人十色それぞれの御方なりに、難題もある、と教示されたりした。
この記事は『NEWS ポストセブン』で8月6日に配信され、無断であるが転載させて頂く。


《・・8月に入り、お盆シーズンが間近だ。
お盆休みを利用し、地方にある実家に帰省して、お墓参りするという人も多いだろう。

ところが、中高年を中心に頭を悩ませているのが、その「お墓」の問題だ。
都心の一極集中化に加えて、少子高齢化により、墓守をする人が少なくなり、
先祖代々のお墓が、無縁化の大ピンチを迎えているのだ。

お墓を巡る問題は、これに限らず多岐にわたる。
それらを解決するヒントとなるのが、葬儀・お墓コンサルティングの第一人者である吉川美津子氏が
このほど上梓した『お墓の大問題』(小学館新書)だ。

吉川氏にお墓に話を聞いた。
            

──最近、夫と同じ墓に入りたくないという妻が、増えているそうですが。

「縁もゆかりもない土地にある夫の先祖たちと同じ墓に入りたくない。
夫の家族と折り合いが悪いなど様々な理由があります。
実際に拒否することはできます。“死後離婚”という言葉があります。


これは法的に、死後離婚できるわけではないが、
配偶者の親族と縁を切りたいために『姻族関係終了届』を出す人が増えています。

これは、離婚と同様に、配偶者の血縁者と親戚関係を修了するというもの。
配偶者の父母や兄弟姉妹等の扶養義務も例外を除いて、なくなります。

ただ、厄介なのは墓の名義人が、仮に妻だった場合です。
その場合、夫の遺骨だけでなく、先祖代々の遺骨も妻が所有することになり、管理する義務も生じてしまうのです」
            

──子どもがお墓の承継を拒否するケースもあると聞きます。

「墓の承継は、財産の承継とは異なり、墓守という負担を背負うことになります。
子どもが都心に家庭を持っている場合、田舎のお墓の管理をするというのは、手間もお金もかかります。

離婚・再婚等で、家族関係が複雑なケースもあり、それで承継を拒否する人も増えているのですが、
悲観する必要はありません。

神仏や祖先の祀りを、祭祀といいます。
祭祀に関連する家系図や仏壇や墓地などを祭祀財産といい、
これらの相続については、金品の相続とは切り離されて考えられているからです。

祭祀財産の承継者については、民法に以下のような条文があります。
1,被相続人の指定に従って、祖先の祭祀を主宰すべき者があるときは、その者が承継する。
つまり、遺言で子どもを祭祀承継者と指定すれば、本人がどう思おうが指定されてしまうのです。
また拒否権もありません。
ところが、そこまでして子どもに負担をかけたくないという親御さんが、増えているから悩みが尽きないのです」
            

──ある調査によると無縁墓になると考えている家庭は、5割を超しています。

「無縁墓の問題は、今に始まったことではありません。
しかし、それが顕著になった背景には、日本の核家族化があります。

団塊の世代など現在60代後半から中盤にかけての世代は、
兄弟姉妹が多く、墓守の問題が顕在化することは少なかった。

ところが1960年代からの人口の都市集中化により、
親世代は生まれ育った場所で、死を迎える人が少なくなりました。

子世代は年に数回、故郷に行く程度でしょう。
菩提寺があった土地への帰属意識も薄れていくのも当然です。

地域を離れ、家を手放し、墓を手放すという流れは、ごく自然な流れなのです。
加えて、少子化も無縁墓増加に、拍車をかけています」
            

──無縁墓になるのは忍びない。何とかする方法はないのですか。


「『墓じまい』という方法があります。
といっても、単に古い墓石を撤去しておしまい、というわけにはいきません。
その墓には、先祖の遺骨が入っています。

管理ができなくなったお墓を撤去して、中の遺骨を取り出し、
新しいお墓に移すことを『墓じまい』というのです。

核家族化、単身世帯の増加、子どものいない夫婦の増加、未婚・非婚化、離婚率の上昇など、
家の永続性が保たれていない社会問題を背景に、
『墓の問題は、自分たちの代で、解決したい』という声が大きくなりました。
そのひとつが『墓じまい』なのです」
            

──確かに現代においては『墓じまい』は有効な方法ですね。

「ただ、簡単にすまないのが『墓じまい』の難しいところです。
まず、費用も安く人気のある公営霊園は倍率が高く、中々当選しません。

また、運良く当選したとしても、『墓じまい』をめぐって親族とトラブルになるケースも多いのです。
特に本家・分家意識の強い地域などでは、
『ご先祖様を縁もゆかりもない、ほかの場所に移動させるなんてとんでもない。
この地域に眠ることに意味があったのだ』と言い出す親戚も多く、
墓じまいがきっかけで、親族同士の仲に亀裂が入ってしまうことが本当に多いのです」

──私の知り合いでも親族同士がもめたケースがありました。

「それと寺院との関係も、複雑に絡み合ってきます。
墓じまいをするということは、多くの場合、檀家をやめることになります。

このことを離檀というのですが、お寺によっては『離檀するなら200万円を用意するように』と
“離檀料”と称するお布施を要求されたり、
『離檀料を払わないならば、改葬(お墓の引っ越し)に必要な埋葬証明は出さない』と
脅迫まがいの圧力をかけるお寺も一部にはあります」
            

──お墓を巡る問題は本当に厄介ですね。

「そうですね、今では一般化している散骨にしても、
自治体によっては、条例で禁止しているところもありますから注意が必要です。

それに民間霊園の場合など、指定の石材店で墓石を買わないと、
墓地を購入する権利がないというケースも多いです。

一般の人にはあまり知られていない”掟”のようなものが、たくさんあります。
まずは膨大な情報を整理して、頭に入れていくことが最も大切だと思います」・・》

注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私の生家である実家のお墓も、過ぎし年に『墓じまい』の記憶がある。

遠い昔、1953年(昭和28年)の春、父は病死して近く墓地に埋葬され、
翌年の1954年(昭和29年)の晩春、祖父も病死された。

この当時の墓地は、近く旧家の多くが、ある旧家の雑木林の一角に、ご厚意で借地していて、
土葬であった。

やがて私が高校一年の1960年(昭和35年)だった頃と思われるが、土葬は禁止されて、火葬になった時、
この墓地は、ある旧家に返納することとなり、
たまたま長兄、次兄も小用があり、私は旧家の小父さんと共に、お墓を掘り起こして、
私の生家の先祖代々の御骨を拾い、保管した体験があった。
            

そして同時に、母が同じ曹洞宗である寺院にある墓地を買い求めて、
この間、金銭を含めた気苦労は、後年に私は知ることとなったが、
やはり『墓じまい』は何かと難題があった、と私は学んだりした。

今回、改めて『お墓』に関して、数多く教示されたが、
何かと大変・・と思いを寄せたりしている。

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年金生活の確かな基盤のニュースを知り、何かとプラス思考の71歳の私は、微笑んで・・。

2016-08-06 16:03:45 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して黙祷したのは朝の5時過ぎであった。

私は1944年〈昭和19年)9月に今住んでいる近くで農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に敗戦となった。

そして敗戦時は私は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
8月6日のこの日の午前8時15分に、
対戦中のアメリカが人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下され、
少なくとも15万人の人が即死し、数多くの方が被ばくされたことは学んできた。
          
このことは戦勝国となったアメリカの歴史をどのように描いても、厳然たる事実である。

そして沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
そして15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』は、黙祷をして49年は過ぎている・・。

こうした根底には、かの大戦で、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
こうした日は、人々に哀悼の意を表して、黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。
            

やがて購読している読売新聞が配達されて、私は読んだりした・・。
一面の中段には、【 社会保障給付 最高112兆円 14年度 】と大きく見出しされ、
私は精読して、やがて微笑んだりした・・。

無断であるが、年金生活をしている私としては、安堵したニュースであり、転記させて頂く。

《・・国立社会保障・人口問題研究所は5日、
2014年度の年金や医療、介護などの社会保障給付費が、前年度比1・3%増の112兆1020億円となり、
過去最高を更新したと発表した。
高齢化進展に伴う医療費や介護費の増加が影響した。

分野別に見ると、年金が54兆3429億円(前年度比0・5%減)で、全体の48・5%を占めた。
ただ、統計を取り始めた1950年度以降初めて、前年度比で額が減少した。
2013年10月から、年金給付額の段階的な減額が、実施されたことなどが影響したとみられる。

このほか、医療が36兆3357億円(同2%増)、介護が9兆1896億円(同4・6%増)だった。
介護の伸びが大きかったのは、介護を受ける人の増加や、14年度の介護報酬引き上げが影響したという。

社会保障給付費は、国民が利用した医療や介護などに対し、国や地方自治体が、支払った費用。
主に税や社会保険料を財源とし、国民の自己負担は含まない。

国民1人あたりの給付費は、前年度比1・4%増の88万2100円だった。・・》

注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

この後、三面の政治面を読んだりしている中、小さく扱われた記事が掲載されていた。
【 厚生、国民年金 黒字続く 】と見出しされ、私は精読して、やがて微笑んだりした・・。
無断であるが、安堵したニュースであり、やはり転記させて頂く。

《・・厚生労働省は5日、公的年金の2015年度の収支決算を発表した。
サラリーマンが加入する厚生年金は、2兆2635億円の黒字で、
自営業者らの国民年金も、1157億円の黒字だった。

厚生年金の黒字は、雇用改善による被保険者の増加などが理由という。
黒字は厚生年金が5年連続、国民年金は7年連続となる。

厚生、国民両年金を合わせた積立金残高(時価ベース)は、142兆7078億円で、
前年度より3兆2458億円減った。
「年金積立金管理運用独立行政法人」(GPIF)が運用する株式の評価額が下がったことが影響した。・・》

注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私は今回は《・・前年度より3兆2458億円減った。・・》と知っても、
一喜一憂にすることはないよなぁ、と何かとプラス思考の私は心の中で呟(つぶや)き、やがて安堵をした。

私が安堵した根底には、過ぎし7月30日で読売新聞を読んで、微苦笑させられたからである。
無断であるが、読売新聞を45年ばかり購読していることに甘えて、大半を転記させて頂く。

《・・公的年金の積立金を運用する「年金積立金管理運用独立行政法人」(GPIF)は29日、
2015年度の運用実績が5兆3098億円の赤字になったと発表した。
世界的な株安が影響した。運用実績で赤字になったのは、10年度以来、5年ぶり。

赤字の内訳では、国内株式(3兆4895億円)、外国株式(3兆2451億円)が大きかった。
比較的安全な資産とされる債券は、国内が2兆94億円の黒字だったが、国外は円高の影響もあって6600億円の赤字だった。

運用を本格的に始めた2001年度以降で見ると、2015年度の赤字幅は、リーマン・ショックがあった2008年度(9兆3481億円)、
2007年度(5兆5178億円)に次ぐ3番目の大きさとなった。

運用が大幅な赤字となった背景には、中国経済の減速への懸念などから、国内外の株価が大きく下落したことがある。
2014年10月には、国内外の株式や債券の割合を定めた基本ポートフォリオ(資産構成)を変更し、
国内外の株式割合の目安をそれぞれ12%から25%に引き上げたことで
株価の影響を受けやすくなり、赤字幅を拡大させた。

ただ、今回の赤字を含めても、2001年度以降の累積収益は計45兆4239億円の黒字を維持している。
運用収益などの年金積立金から得られる財源は、全体の年金給付額の1割程度で、
今回の含み損が直ちに、給付額に影響を与えるものではない。・・》

注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私は年金の運用は、赤字続きだと困苦するが、《・・累積収益は計45兆4239億円の黒字・・》と学んだので、
一喜一憂にすることはなく、長期で眺めて安定運用だよねぇ、と微笑んだりしてきた。

我が家は、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、私と家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

まもなく私は9月の誕生日を迎えると72歳となり、年金生活も早や丸12年となる。
こうした中で生活の収入の基盤は、厚生年金であるので、厚生年金と国民年金の動向を注視してきた。

今回のニュースを読み、何かとプラス思考の私は、当面は安定飛行だよねぇ、微笑んだりしたが、
今朝の6時過ぎであった・・。

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糖尿病でない人も起こる「低血糖」、脳にダメージ与え認知症リスクにも、と高齢者の私は学び・・。

2016-08-05 16:26:23 | ささやかな古稀からの思い
私は過ぎし2010年(平成22年)の秋に、私は健康診断の結果、糖尿病と診断され、青色吐息となり果て、
内科の医師の指導、家内は野菜を多くした料理、そして私はウォーキングをほぼ毎日したりした。

そして翌年の2011年(平成23年)の3月の初旬、
最寄の内科に4週間毎に定期健診を受けて、糖尿病の範囲の対象から克服でき、
悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はすべて優等生となった。

この後は、4週間於きに定期検査日、次回は検査結果日、と四週間ごとに通院している。
そして血圧、脈拍などを受け、問診したり、検査日には血液検査、検尿などをしてきた。

そして隣接した薬局で、血糖を下げる薬、インスリンの分泌を促す血糖を下げる薬、
動脈硬化を防ぐコレステロールを下げる薬、いずれも錠剤の3種類を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
            

本日の昼下がり、ソナエ 自分らしく人生を仕上げる終活情報サイトの『ソナエ 』を見ていた中、
【 気になるこの症状】糖尿病でない人も起こる「低血糖」 脳にダメージ与え認知症リスクにも 】と見出しを見て、
どういうことなの、と思いながら記事を精読してしまった・・。

この記事の原文は、産経グループから発刊されている『夕刊フジ』2016年7月27日に掲載された記事のひとつで、
終活情報サイトの『ソナエ 』に8月4日に配信された記事であり、 無断であるが記事を転載させて頂く。

《・・日本糖尿病学会と日本老年医学会は、高齢の糖尿病患者の血糖管理目標値を、一般成人より高めにした。
低血糖を起こすのを防ぐためだ。
低血糖は、脳が発令する緊急事態のサイン。
糖尿病でない人も起こす場合があるので注意しよう。
            

【脳が危機を感知】

健康な人の空腹時、血糖値の正常値は70~110(mg/dL)。
それが60~70(同)未満に低下すると、低血糖の症状が現れる。

東京都立多摩総合医療センター・内分泌代謝内科の辻野元祥部長が説明する。
「脳は、常にブドウ糖をエネルギー源にしているので、低血糖になると、危機を感知して、
血糖を上げるために、体の交感神経の働きを総動員させる命令を出します。
そのため、低血糖になると冷や汗や動悸(どうき)、手のふるえなどの交感神経刺激症状が現れるのです」

さらに血糖値が50(同)を超えて低下すると、
異常行動、けいれん、昏睡(こんすい)といった状態(中枢神経症状)に至るという。
            

【注意すべき3薬】

糖尿病治療中の高齢者が、低血糖になりやすいのは、
腎機能低下で、薬が長く効いたり、食事を抜いたりすると薬が効きすぎてしまうからだ。

「高齢者が重い低血糖を起こすと、脳にダメージを与えて認知症のリスクが高まるのです。
それに動脈硬化の人も多いので、低血糖の交感神経刺激がきっかけとなり、
心筋梗塞や危険な不整脈が出るリスクもあります」

ただし、糖尿病治療薬のすべてが、低血糖を起こすわけではない。
いまは低血糖になる可能性がきわめて低い薬が主流。
低血糖に注意するのは、「インスリン注射」「SU薬」「グリニド薬」のいずれかを使っている場合に限られるという。

「今回2学会では、この3薬のいずれかで治療中の75歳以上の高齢者、
あるいは軽度認知症の合併例では、血糖コントロール目標にヘモグロビンA1cで7・0%という下限値を設けました」
            

【すぐブドウ糖を取る】

糖尿病でない健康な人でも、低血糖になる場合がある。
それは菓子や飲料などで、糖分を過剰に取ったとき。

膵臓(すいぞう)からインスリンが多く分泌されて3~4時間後に「反応性低血糖」を招くのだ。

「低血糖で怖いのは、症状が出ても何も対処せずに、
昏睡を何回か繰り返すうちに、交感神経刺激症状が現れない『無自覚低血糖』になってしまうことです。
そうなると、いきなり中枢神経症状が現れ、意識を失い、発見が遅れると、命に関わる恐れもあります」

低血糖になったときの対処は、交感神経刺激症状が現れたら、
すぐに10グラム程度のブドウ糖(あめや飲料でもいい)を取ること。

5分以内で改善しなければ、さらに摂取を追加する。
早く低血糖から脱出することが重要になるという。
            

《低血糖の主な症状》

【空腹時血糖値が60~70mg/dL未満】

冷や汗・心臓がドキドキする・手がふるえるなどの交感神経刺激症状

【空腹時血糖値が50mg/dL未満】

目のかすみ、空腹感、眠気、異常行動、けいれん、昏睡、意識消失などの中枢神経症状・・》

注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私は過ぎし2010年(平成22年)の秋に、私は健康診断の結果、糖尿病と診断された後、
内科の医師の治療方法を丁重に受けた。

そして隣接した薬局で、血糖を下げる薬、インスリンの分泌を促す血糖を下げる薬、
動脈硬化を防ぐコレステロールを下げる薬、いずれも錠剤の3種類を頂き、朝食後に服用するように言われたりした。

この他に、ブドウ糖(固形タイプ)を二袋を手渡しされた。
一袋を見たりすると、2.8gX2個と明記されて、体調がすぐれない時、必ず服用して下さい、
と麗(うるわ)しき若き女性の薬剤師さんから、私は言われたりした。

そして懇切丁寧な説明を受けた後、映画の『ゴッドファーザー PARTⅢ』(1991年)に於いて、
主人公のアル・パチーノが扮したマイケルの晩秋期、糖尿病という病魔が忍び寄って、
やがて病状は進行し、時には低血糖発作により崩れ落ちてしまうという深刻な状態に陥ってしまうシーンを
私は思い浮かべて、うろたえたりした。
            

しかしながら幸いに、半年後の翌年の2011年(平成23年)の3月の初旬、
糖尿病の範囲の対象から克服でき、こうした中でブドウ糖(固形タイプ)を数年後まで大切に持ち続けてきたが、
服用を必要とする事態はなかった。

昨今は我が家の薬箱に保管しているが、今回の記事を読み、
改めて低血糖になる事態は怖いなぁ、と教示されたりした。

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葬式代、相続トラブル防止に使える「遺言代用信託」、初めて私は学び、やがて微笑み・・。

2016-08-04 15:10:47 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の71歳であるが、
本日もいつもように家内から依頼された品を求めて、スーパーで買物をする買物メール老ボーイの責務を終えた後、
この後、いつもように独りで自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などを目指して歩いたりするが、
本日も燦々と陽射しが照す33度前後の青空の中、熱中症が怖くて、近廻りして帰宅した。
           
やがて昼食後、居間のクーラーの冷気に身をゆだねたりして、
私はネットで信愛を重ねている小池都知事の動向が気になり、各ニュースを見ている中、
【 葬式代、相続トラブル防止に使える「遺言代用信託」って? 】と見出しを見て、
恥ずかしながら「遺言代用信託」は無知であったので、クリックして読んだりした。

この記事の原文は、光文社から発刊されている週刊誌の『女性自身』に掲載された記事のひとつで、
8月3日に配信された記事であり、 無断であるが記事を転載させて頂く。
            

《・・「『相続するほどの財産はないが、葬式費用は自分で用意したい』と思う方は多いでしょう。
ですが、銀行預金は、契約者が亡くなった時点で『凍結』され出金も入金もできなくなることがあります。

凍結は相続の手続きが終わるまで続き、せっかく用意した葬式費用が、間に合わない事態も。
そんななか、注目を集めているのが『遺言代用信託』です」
そう語るのは、経済ジャーナリストの荻原博子さん。

遺言代用信託とは、契約者があらかじめ払い出しの時期や金額、受取人を決めて、
信託銀行などにお金を預け、時期が来たら、銀行が契約どおりにお金を払い出す仕組み。

その注目度は2011年にはわずか67件だった契約が、
2012年から急激に増え、昨年末には累積契約数が13万人を超えたことからも明らかだ。

そんな遺言代用信託の特徴は大きく3つあるという。荻原さんが解説してくれた。
            

【1】葬式費用を確保し簡単に出金できる

「契約者は自分の死後、たとえば200万円を一時金で、喪主となる子どもが、受け取る契約を結んでおきます。
実際に契約者が亡くなったら、受取人である子どもが、死亡診断書や身分証明などを提示して手続き。
一時金は受取人の口座に振り込まれるため、預金凍結に関係なく出金できます」

【2】相続のもめ事を防ぐ遺言書代わりになる

「信託協会の調査では、50歳以上で1000万円以上の資産を持つ方の83.8%が相続対策をしていません。
その理由を問うと、53.3%が『相続税がかかるほどの財産はないから』と答えました(2015年)。

ですが、遺産分割が原因で、家庭裁判所が調停や審判を受理するのは、年間約1万5000件。
うち、遺産総額が1000万円以下のケースが31.9%、
5000万円以下まで広げると、74.9%にのぼります(2014年・司法統計)。

相続でもめるのは、相続税の対象になる資産家より、ごく普通の家庭が多いのです。
遺産がそれほど多くない家庭では、遺言書を作成しなくても、
遺言代用信託などで遺産分配を決めておけば、ある程度相続のもめ事は防げます」
            

【3】管理手数料が無料で、元本が保証される

「遺言代用信託は。預入金額が200万~3000万円が一般的です。
信託銀行は、まとまったお金を預かり、運用した利益の一部を受け取るため、手数料を取らない銀行が多いです。
顧客の預けたお金が、減らない安心感が、人気の一因でしょう」

ただし、遺言代用信託の対象は、現金・預金に限られるため、不動産は別の対策が必要だ。
(略)親がまだ元気なうちに、相続を「争続」にしないための話し合いを始めてみては?・・》

注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私は亡くなわれた当人名義の銀行預金などは、契約者が亡くなった時点で『凍結』され、
やがて相続の手続きが完了するまでは、出金も入金もできなくなることは、
亡くなった母の時、或いは親戚の方より学び、知っていた。

そして我が家は、子供も恵まれなかったので、私と家内とたったふたりだけの家庭となっている。
こうした中、収入源の年金などはお互い名義で、それぞれささやかながら貯金をしている。

いつの日にか、どちらかが死去した時は、残された方が、一時的にこうした貯金を活用すれば、
と私たち夫婦は話し合ったりしている。
            

そして悩ましい相続に関しては、親戚、友人から争議となり、互いに確執になった、
と私は学んだりしてきた。

私は2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、多々の理由で年金生活を始めて、
まもなく公正証書の作成できる処に出向き、
残された家内の生活が困苦しないように、私の遺言書を作成したりした。

私は年金生活を始めた当初は、お酒は好き、タバコも喫うし、これといってスポーツもしなし、
散策する程度であるので、家内より先にあの世に行く、と漠然としながらも思ったりしてきた。

私たち夫婦は、幾たびも人生の荒波を乗り越え、私は家内に対して戦友とも感じ深めて、
私の葬儀、お墓、そして家内の独りの老後に於いて、
程ほどに生活できそうな状況のことも、話し合ったりした。

そして自宅を処分して、2DKのマンションを購入して、残された人生を過ごされれば、
と私は家内に言ったりしてきた。
                      

今回、「遺言代用信託」に関して、初めて私は学び、こうしたことができれば、
いつの日にか、どちらかが死去した時は、何かと気落ちして心情が定まらない時、
的確に手続きが進む「遺言代用信託」は、良いかしらと微笑みを浮かべたりしている。

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会社員の老後資金、持ち家なら65歳で3500万円と学び、年金生活12年生の私は微苦笑して・・。

2016-08-03 16:24:10 | ささやかな古稀からの思い
私は民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦して、
2004年(平成16年)の秋に定年退職をした身であるが、
この間に幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。

やがて最後の5年半は、リストラ烈風が加速される中、あえなく出向となったり、
何とか定年を迎えることができたので、敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。

そして定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。
            
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
世の中の多く人たちから、人生の3大支出は教育資金、住宅資金、老後資金と学んだりしているが、
たまたま我が家は子供の「教育資金」は不要となったので、定年した直後から年金生活を開始できたことも事実である。

こうした中で、私たち夫婦は雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごし、
まもなく9月の誕生日を迎えると72歳となり、年金生活も早や丸12年となる。

そして家内は、私より5歳若く、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
                         

先程、ときおり愛読しているネットの『NIKKEI STYLE』を見ている中、
【 会社員の老後資金、持ち家なら65歳で3500万円 】と見出しを見て、
改めて学ぼうと思いながら、精読してしまい、やがて何かとプラス思考の私でも、
人生の晩年期が最大の難関だ、と微苦笑させられてしまった。

この記事の原文は、『日本経済新聞』2016年7月20日の朝刊に掲載された記事のひとつで、
関連の『NIKKEI STYLE 』に於いて、7月25日に配信された記事であり、
無断であるが記事の大半を転載させて頂く。

《・・65歳でリタイアしたとき、老後資金はいくらあればいいのか。
多くの人は公的年金だけでは賄えない可能性が大きいが、不足額は老後の暮らし方や夫婦の年金、持ち家の有無などで千差万別。
タイプごとの不足額やどう用意するかを考えた。
            

老後資金は少なくとも、4人に1人が生きている年齢までを考えるのが一案だろう。

国立社会保障・人口問題研究所の予測では、2050年時点で男性は93歳、女性は98歳なので、
今回はこの中間に当たる95歳までを想定した。

まずは持ち家を前提に支出を考える。総務省の家計調査では、高齢夫婦無職世帯の1カ月の支出は約28万円。
これを「平均的な生活」とみなすと30年で1億80万円だ。

しかしファイナンシャルプランナーの紀平正幸氏は
「介護やリフォーム費用などの予備費を少なくとも夫婦で600万円は見ておこう」と話す。
すると1億680万円になる。

一方、生命保険文化センターの意識調査で「ゆとりある老後生活のための費用」を聞いたところ、
月35万円だった。

旅行や趣味などにお金をかけたければ、必要額は増える。
この30年分と予備費600万円を足すと、支出は1億3200万円となる。
            

年金は夫婦の職業などで大きく変わる。

会社員(厚生年金と基礎年金)と専業主婦(基礎年金のみ)の場合、
厚生労働省が想定するモデル世帯は月22万円。30年で7920万円だ。

しかし厚労省の財政検証では、30年度の所得代替率(現役世代の平均的な所得に対する年金額の比率)は
現状より1割前後減る。

財政検証では実額は、必ずしも減らないとみるが、厳しめに所得代替率の減少と同じ1割減として
計算すると7128万円だ。

平均的な生活には3552万円、ゆとりある生活には6072万円足りない。
大企業の会社員の退職金は平均2000万円強なので、平均的な生活なら退職金とは別に1500万円強、
ゆとりある生活は4100万円弱の準備が必要だ。

ただ退職金は企業により大きく異なるし、住宅ローン返済などで、全額は手元に残らない例も多いのは要注意だ。
            

忘れがちなのが持ち家でない場合の老後の賃貸費用だ。
実は家計調査での住居費の支出は、月に2万円弱。
持ち家の比率が9割超だからだ。

賃貸の人が月10万円の家賃で30年暮らすと、3600万円かかる。
紀平氏は「現役時代に住宅ローン負担が軽い分を貯蓄し、老後の住居費を確保しておくことが不可欠」という。

自宅での最低限の介護費用は、予備費として織り込み済みだが、
いずれ有料老人ホームへ入居を希望する場合は、別途大きな支出が生じる。

施設などでまちまちだが「入居一時金と、平均で5年程度の費用を合わせると2000万円程度必要なケースも多い」
と井戸氏は指摘する。

今回の試算はあくまで一例だ。
自分の収入や支出に合わせて修正しながら、老後資金の準備を早めに始めよう。(編集委員 田村正之)・・》

注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私たち夫婦は子供に恵まれず、たったふたりだけの家庭であるが、
セカンドライフの生活の改めて話し合ったのは、 1999年(平成11年)の新春の当時で、私が54歳あった。

私は1970年(昭和45年)の春、この当時としては大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部のあるひとつの大きなレーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられ、やがてこのレコード会社で、制作に直接かかわらない情報畑、
経理畑、営業畑などで奮戦した。
                                   
こうした中で、1998年(平成10年)に中小業の多い音楽業界全体の売上げピークとなり、
この少し前の年からリストラ烈風となり、やがて私も出向となり、
各レコード会社が委託している音楽商品のCD、DVDなどを扱う物流会社に勤め始めた時であった・・。

こうした時に、私が定年退職を出来た後、どのような生活をしたいか、そして生活資金などを話し合った。
具体的には、私たち夫婦の第二の人生は、どのように過ごしたいのか、主題であった。
                     
やがて結論としては、定年退職後の60歳以降は、
私は働くことを卒業し、お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよいなぁ、と漠然に念願したりした。
                                      

こうしたことを実現するためには、現在の我が家の貯金の確認、定年退職までの年収、退職金など、
そして年金の推定額も算出し、収支概算表を年別に作表し、平均寿命までの年を総括表にしたりした。

そして、毎年の月別は、家計簿の応用で収入の項目、支出の保険、税金等を含め、
予定表も作成したりした。

この時の私は、幸いに住宅ローンを終えていたが、
私は1944年(昭和19年)9月生まれであるので、
年金の満額の支給は62歳であり、それまでの2年間は、満額のほぼ半分となるので、このことも配慮した。

そして年金が満額となった62歳からの生活の収支は、
私たち夫婦の共通趣味である国内旅行費、そして冠婚葬祭など諸経費は例外として、
原則として生活費は年金を頂く範囲として、収支の概要を作成したりした。

こうした結果、私の年齢、家内の年齢を主軸に、1998年(平成10年)から私が80歳を迎えるまで、
年次別の収支と残額を作成し、パソコンに入れて、計画、実績、差額を毎月入れたりしていた。
                                                        
こうした中、不慣れな遠い勤務先の出向会社に私が奮戦している時、
出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたりした。

この間、経済にも疎(うと)い私が、信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読み、
デフレ経済の蔓延している中、公的年金を受け取りながら堅実に年金生活をし、
預貯金が3000万円あれば、少しづつ取り崩して生活すれば、少しはゆとりのある年金生活ができるかしら、と学んだりした。
                          
                       
我が家の年金生活の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

こうした中で私たち夫婦は、月初めには家計簿をお互いに確認しながら実施している。

もとより社会の少子高齢化の中で、公的年金は目減りは減少してきたので、
私たち夫婦はお互い趣味の費用を捻出する為に、収支の実態をお互いに確認し、
ささやかに生活を過ごしたく、家計簿の月次決算をしている。
           
私たち夫婦は年金生活をして12年目となるが、我が家の銀行、郵便局、信託銀行などの貯蓄は、
安全利回りが原則で、周知の通り金利はわずかである。

そして年金生活を始めて数年は、200万円前後の赤字となったりしたが、
その後は毎年は120万円前後の赤字の実態なので、予定通り貯蓄の残額は減るばかりとなっている。

こうして私たち夫婦は、経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしている。
                        

私たち夫婦は、雑木が多い小庭の中で、古惚けた築後38年の家に住んでいるが、
家を建て直すと、少なくとも数千万円を要し、老後資金が大幅な減少するので、断念している。

そして私たち夫婦は、少しペンキが剥がれかかった窓枠などを見たりして、
たとえ家屋が新しく良くなっても、老後資金が乏しくなり、訪れたい国内の各地にも旅行費の捻出に、
困苦すると思われるので、やむなく私は微苦笑したりしている。

この間、私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

今回の記事に於いても、《・・有料老人ホームへ入居を希望する場合は、別途大きな支出が生じる。
施設などでまちまちだが「入居一時金と、平均で5年程度の費用を合わせると2000万円程度必要なケースも多い」・・》
と改めて教示され、何かとプラス思考の私でも、人生の晩年期が最大の難関だ、と溜息をさせられてしまった。
                        

こうして私は年金生活を11年半を過ごしてきた中で、
私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
    
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
私はひたすら歩くこと、睡眠、程ほどの食事がセカンドライフ健康体の三種の神器として思い、過ごしている。

やがていつの日にか、自助努力も肝要であるが、神様か仏様の采配で、あの世に旅立つが、
悲観的になっても一日、楽観的に過ごしても一日、私は気楽に過ごして晩年期に向かって過ごしたい、
と自身を激励したりしている。


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『ウィンドウズ10』、やむなく主力機は『ウィンドウズ7』に戻し、何かと愚図の私は、微苦笑して・・。

2016-08-02 19:50:38 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
私は恥ずかしながらガラケーと称される携帯電話、
そしスマホと省略されているスマートフォンも使えない時代遅れの国民のひとりとなっている・・。

こうした中、せめてと思いながらインターネットは固定有線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
据え置き型のパソコンとノートパソコンを利用している。
          
過ぎし年の2004年(平成16年)の秋に定年後、多々の理由で年金生活を始め、
まもなくブログの世界を知り、国内旅行とかパソコンの故障がない限り、
毎日に一通は投稿し、丸11年半が過ぎている。

私は年金生活を過ごしている中で、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

年金生活を始めて2年を迎える寸前、たった一台のバソコンが故障して、
修理などで2週間、パソコン迷子となって困苦してきたので、
やがて主力機と予備として補助機として、恥ずかしながらパソコンだけは2台所有している。

この後、『ウィンドウズ』に対応したパソコンは、『X』、『7(セブン)』『8.1』とグレードアップされるごとに、
順応して買い改めてきた。
            
           ☆左側が7月25日時点で、主力機として愛用している『ウィンドウズ7(セブン)』、そして右側は補助機『ウィンドウズ 8.1』☆
          
こうした中で、昨年より、『ウィンドウズ7(セブン)』、『ウィンドウズ8.1』に関して、
最新の『ウィンドウズ 10』に無償でアップグレードできる、とパソコンを立ち上げるたびに表示されてきた・・。

私は、『ウィンドウズ7(セブン)』には、充分満足して主力機として愛用している。

こうした中で、風の噂として、『ウィンドウズ 10』一部に不安定な要素があると学び、
何かとパソコンの技量に乏しい私は、ためらってきたひとりであった。

私は主力機のウィンドウズ7のパソコンは、外部記憶装置(2テラ)を連結させて、殆ど毎日愛用している。
基本ファイルとして、『ドキュメント』には私の文書、家計簿など、大量となっている写真を『ピクチャ』、
或いはブログに添付している為に、写真を縮小する為に『ペイント』機能を活用している。

このようにウィンドウズ10に昇格した時、どのように基本ファイルの『ドキュメント』の私の文書、家計簿など、
そして定年後から撮りだめた15000枚ぐらいの写真が『ピクチャ』に、
どのような機能で、ファイルなどが扱われるか、具体的な表示、使用方法が、無念ながら解らないである。

やがて、ウィンドウズ7の延長サポート期限は2020年1月まで、と学び、
これからの3年半の間に、ウィンドウズ10のシステム管理のOSが更に安定、そしてアプリ関係のファイルの更なる安定など、
ウィンドウズ10の普及の状況などを学んで、いつの日にかウィンドウズ10にすればよい、と思ったりした。
            

しかしながら無償で『ウィンドウズ10』に昇格できるのは、7月29日と幾たびも画面に表示していたので、
何かと愚図な私でも、突然に私は思い立ち、7月26日に主力機の『ウィンドウズ7(セブン)』、補助機の『ウィンドウズ 8.1』を、
何とか『ウィンドウズ10』にアップグレードした。

そして本日の昼下がりまで、『ウィンドウズ10』は、こんな機能もあるのか、と戸惑いながら、
微苦笑をしたりしてきた。

先程、いつもように主力機から連結させたプリンタ(キャノン・iP4500)で印刷しょうとしたら、駄目で、
遅ればせながらプリンタに対して、『ウィンドウズ10』に対応させるインストール作業がしていなかったことに気付いたりした。

そしてキャノンの公式サイトより、インストール方法を見ていると、
無念ながら古いキャノン・iP4500は、『ウィンドウズ10』に対象外と知った。

確か私は、8年前の頃に買い改めたプリンタであったので、やむなく最新のキャノンのプリンタを、
ネットで見ると、2万円前後で購入できることを知ったりした。

そして最新のプリンタに買い改めようと思案していた時、肝要の主力機の苦い体験を思い馳せたりした。
            

過ぎし年の2011〈平成23〉年の6月、この当時の主流の『ウィンドウズ7(セブン)』の新機種を買い改め、
選定した機種は、ソニーのディスクトップのテレビ不要型であった。

ディスプレイは、この当時から流行したワンタッチパネルの21.5型のワイド画面で、
CPUはインテルの最強版、メモリは4GB、ハードディスクは1TBであった。

そして付属のドライブ装置は、ブルーディスク対応で、
この上に、外部ドライブ装置として、ある専用メーカーのハードディスクの2TBを連結させたりした。
            

やがて2014年(平成26年〉の9月28日の夜、愛機となっているパソコンを立てあげた時、
どうしたことか『起動』ができず、色々と対処を試みたが、修復できなかった。

この後、29日、30日に於いて、メーカーの相談窓口と再三連絡して、
指示を受けながら、復旧の作業を私は試みたりした・・。

結果として、30日の午前のひととき、メーカーの相談窓口から、
ハードディスクが破損していますから交換して下さい、と明言され、私は困惑した。

もとよりハードディスクには、私の長年の写真、私のメモ、我が家の家計簿などあるので、
どこまで外部のハードディスクに保存しているか、と思いめぐらしてしまった。

確か3か月前には、長年の写真をブルーディスクのDVDでバックアップをしていたが、
この他は・・消えてしまうのか、と困惑したりした。

そして10月1日の午前中、霧雨降る中、左手は雨傘を差して、
右手はディスク・トップ型の17キロ前後の重いパソコンを持ち、
買い求めた家電の量販店の修理専門に、ハードディスクの新品交換を依頼した。

やがてハードデイスクの交換はメーカーを通すので、数週間は要します、と私は言われて、
やむなく2013年(平成25年)12月中旬に買い求めた最新の『ウィンドウズ8.1』を対応したノートパソコンで、
不慣れな画面を見ながら、キーボードで投稿文を綴ったりして、代行したりした。
            

このようなラップトップと称される固定据え置き型の愛機は、果たしていつまで機能してくれるか、
そしてウィンドウズ7の延長サポート期限は2020年1月まで、と改めて思い浮かべたりした。

やがて私は、この愛機が故障した時は、ノートパソコン型の『ウィンドウズ10』を購入することとし、
現在のプリンタ、そして大量のインクを生かす為に、
やむなく愛機の『ウィンドウズ10』より『ウィンドウズ7』に戻す作業をした。

結果的には、主力機は『ウィンドウズ7』、そして補助機は『ウィンドウズ10』となったりし、
果たして私の主力機は、あと3年半の2020年1月まで故障もしないでいてくれるか、
或いは私がボケてしまい、パソコンなどは忘れてしまうか、
こればかりは解らないよなぁ、と独り微苦笑したりしている。

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コメント (2)
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