峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

since 2005

自律は自立で自由へ

2008年02月01日 | 学校教育
有紀さんの通う高校ではね、授業開始と終了を知らせるチャイムが鳴らないんだよ。だから、時間がきたら生徒は自ら席に着く。今、ケータイで聞いてみたんだけど、先生が来る前にちゃんと席に着いているんだそうだ。チャイムが鳴らなくても始業時間がくれば自ら席に着く。なんだかかっこいいよね。自律的であるってこと。
授業を受けることって権利なんだから本来、主体的であるはずなんだ。有紀さんもくるみさんも橘香館のそんな自由を保証してくれる校風が気に入ったんだね。言いかえれば、生徒を信頼している学校とも言える。

自由って、責任を持って何かをすることに束縛や強制などがないことだよね。大人に言われなくても、何かにせかされなくても自分がやりたいこと、また、やるべきことは責任を持ってやる。それは、とりもなおさず自分たちの自由を譲り渡さないってことなんだ。だから「自由」と「自律」って不可分の関係にある。
まぁ、そうはいっても多くの中高校生にその実感はない。それは、この国の教育がゆがんでいるせいさ。一方的に教師の価値感をおしつけるだけの、また、一方的に知識を詰め込むだけの、そして、より高い偏差値の大学に合格させるためだけに四苦八苦する授業に、子供たちが価値を見いだせるはずもない。

橘香館ではケータイも自由に使えるんだ。さすがに授業中には応じてくれないけど、休み時間には返信が来るし、話すこともできるよ。いつでも連絡がつくというのは何かの時に有り難い。さっきも今回の真子ちゃんとのやり取りを話したところだよ。私のブログを読んで、あそこまで描くのとか、笑っちゃったとか、2人で笑いあったとこさ。掲示板も見てくれるよう言っといたよ。

ケータイを悪魔の道具呼ばわりし、生徒には決して持たせないようにと親を洗脳する学校もあるように聞くけどケータイが気の毒だ。確かにケータイで悪事をたくらむ大人もいるようだけど、それはケータイを使用する大人の問題だ。決してケータイそのものが悪いんじゃない。ケータイが悪魔の道具だなんて言う教師は、おそらく自分がやばいことやってるに違いない。実際、そういう教員多いから笑い話にもならないけどね。

ケータイは今や必需品だ。今後、さらに私たちの生活にとってその重要度はますます高まっていくだろう。少年期から子供たちが自律心を育くむように接するのは大人の責任だ。それが、今日の私たちの社会ではすべて逆のことがなされてる。学校教育などその最たるものだ。ケータイに関していえば、子供たちからケータイを取り上げたり、遠ざけるようなことをして、それがいったいどれだけの教育的効果を生むと考えているんだろう。それは、むしろ権威をふりかざす者に対しては隠れてやればいいんだ。見つからなければ何をやったっていいんだというようなことを教えているに等しい。これでは、自律心を育む方向とは全く逆の向きだね。食品偽装も、構造計算書偽造も、収賄も、着服も、横領も、み~んなこの延長線上にある。そのことを親も教師も正しく認識すべきだ。
使い方に問題があるのならば、教師はそれをきちんと教えてやるべきだ。学校に持って来ちゃいけないなんて言ってるのは教師が生徒を信頼していない証拠さ。つまり、生徒にケータイなんか持たせた日にはロクなことない、なんて思っているんだ。

家庭においても、もはや中高校生になった子供を説得できるような親なんてほとんどいないし、それが子供にとって良いか悪いか考える余裕もない親もいる。いや、ほとんどの親がそうかもしれないし、判断の基準を持ち得ていない親も多いだろう。歴代政府の無策がお父さんやお母さんから心の余裕を奪ってしまったし、何より学校教育が機能してこなかった。自律は自立に通じるが、真に自立した大人はどれほどいるんだろう。大人は自分自身のことで精一杯。それこそ自律がきかず、自身がケータイを悪用している親や教師もいる。教師がケータイを悪魔の道具呼ばわりするには訳があるんだね。

それから、目標を達成するために今はがまんしろなんていう大人がいるけど、どうかと思うな。より偏差値の高い大学に合格するため全てを犠牲にするなんてバカげてる。私たちは、今を生きてるんだから今を目的に生きるべきだと思う。だって、明日のことなんかだれも分かりやしない。今やっていることを楽しまなきゃね。自立した人はそれができる。勉強だってそうさ。子供たちに勉強を楽しくないものと思いこませた大人の罪は大きい。たとえ、受験勉強であっても、その中に学問の持つ面白さは存在する。つまらない周囲に振り回されてない人は子供であってもそれを知っている。
真子ちゃん、これからも主体的に生きていこうぜ☆
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新しい人

2008年02月01日 | 学校教育
私のHPの掲示板に愛知県に住む真子さんという高校2年生から「自律」「自由」についての意見が述べられました。
そのことについては、私もかねてから思うところがあり、真子さんに応える形で私の考えを述べました。私の分だけここに2回に分けて転載いたしますが、HPの方をご訪問いただき高校2年生の真子さんの意見にも目を通していただければ幸いです。HPから来ていただいた方には重複することをお許しください。

真子ちゃん。いい問題提起だね。

「自律」という言葉を広辞苑で引くと[自分で自分の行為を規制すること。外部からの制御から脱して、自身の立てた規範に従って行動すること][カントの倫理思想において根本をなす観念。すなわち実践理性が理性以外の外的権威や自然的欲望には拘束されず、自ら普遍的道徳法を立ててこれに従うこと]とあるね。

ポーランドの小児科医であり、児童文学者で、子供の教育に命を捧げたヤヌシュ・コルチャックさんという人は次のような言葉を遺してるんだ。
「いかなる名著も、いかなる名医も母の熟慮と精察には遠く及ばぬことを知ってほしい。自ら悩み、自ら生み出した思想、それこそがこの世で最も尊いことを知ってほしい」

実はこの前「あひる学級」という乳幼児を持つ若い母親たちのための講座でね、私はこのコルチャックさんの言葉を彼女らに贈ったんだ。
そう、自律的に生きるためには先ず自身で規範をたてることが必要であり、自ら普遍的道徳法を立てることが必要であり、自らの思想を生み出すことが必要なんだ。それなくして、いかに自らを律しようとしても自分の行為を規制したり、欲望を制御するのは困難なんだ。それができない母親の元で育たなければならない赤ちゃんのことを思うと辛い。

赤福や吉兆やミートホープやその他多くの私たちの国の経営者は残念ながらそれを生み出すことが未だできずにいるんだ。いや、彼らだけでなく教師が、公務員が、政治家が、そして多くの親が、大人がそれらを確立させ得ないまま、陳腐【ちんぷ】な権威やまやかしの常識や商業主義者の恫喝【どうかつ】、あるいは甘いささやきに翻弄【ほんろう】され続けているんだ。

真子ちゃん、自分の意見を他者に伝えるためには自らの思想を持っている必要があるんだ。
真子ちゃん、この2年間でいい学びができているね。「自主・自律」を校訓に掲げている学校は山ほどあるんだろうけど「自律」について、あなたのように深く考えている教師や生徒はどれくらいいるんだろう。
大人の言いなりにならないで、自らの頭で深く考え、主体的に判断し行動してほしいと願います。
真子ちゃん、もはや、あなたを育てているのはあなた自身なんだね。
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