峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

since 2005

そして、今の私が在る

2006年10月23日 | 父親と子
土曜日、翌日に開かれる大綱引き大会の会場設営の手伝いに出かけると、同じく手伝いに出ていた高校時代からの友人で「さざなみ」の町内会長をやっている藤田くんが、同級生の大徳くんが佐々に帰ってきていると言います。ちょうど、そこへ現れた大徳くん、道ですれ違っても分からないほど変貌【へんぼう】していました。高校以来というと40年近く時が流れているのですから当然といえば当然です。お互い様です。しかし、名乗り合えば、やはり少年の頃の面影はあります。話を聞くと、おくさんの実家の印刷所を継ぐことになったそうです。彼のおくさまも同級生でした。数少ない仲のいい女子の友人でした。
「今度ね」と、そのときは、それで分かれたのですが、夕方、藤田くんから電話が入り、たまたま帰省している同級生が2人いるということで今晩飲もうということになりました。

夕方6時半、この日は藤田くんが迎えにきてくれました。待ち合わせの居酒屋に行くと、懐かしい顔がそろっていました。大徳くんの他、山口くん、中島くん、それに川村くんです。
後年、分かったことですが、川村くんは高校生の頃、西町に住んでいました。その後、結婚して隣町に居を構えて今日に至っています。彼のお父様は、そのまま西町に住んでおられましたが、ご高齢になり、お独り暮らしが難しくなり、2・3年ほど前、川村くんの家で一緒に暮らすことになられたのでした。彼との久し振りの対面は、私が民生委員の立場で彼のお父様のお宅に伺っているときでした。彼のお父様は、私の3代前の民生児童委員を務めておられたという関係であり、川村くんが現在住んでいる所は、私が高校時代に住んでいた町であり、今も母と弟が暮らしている所という縁があります。それどころか、この夜、母と弟が犬を連れて散歩している運動公園で挨拶を交わす仲だということがわかりました。
母と弟はほんの近くに住んでいて、彼らは誘い合って早朝・夕方に、弟のところの犬と一緒に近くの運動公園を散歩するのを日課にしているのを聞いていました。同様に、犬を連れて散歩する川村くん、二人を見て、私の母と弟だと思っていたというのです。実は、母が風邪を引いたというので、昨日、吉井の母の家を訪ねた際、弟が、その旨声をかけられたそうです。いろいろなご縁の中で生きていることを思います。

杯を重ねるうちに名前が挙がった江迎の重永くんにも電話を入れ呼ぼうということになり、結局7人そろいました。
みんな、風貌【ふうぼう】も変わりました。糖尿病が2人、痛風【つうふう】になっている者もいます。しかし、みんな元気です。
重永くんは高校時代、ホンダのバイクCB250に乗っていました。もちろん校則違反です。帰る方向が同じでしたので、よく後ろに乗せてもらいました。車体をグラッと右に大きく傾け右側の車線に出、前を走る車を追い越していく感覚、体で風を切り裂く快感を今でもよく覚えています。その後、バイクの免許を取る機会に恵まれませんでしたが、いつの日かバイクの免許を取りたい、今でも思い続けています。
その重永くんは現在、ビートルズのコピーバンドを結成し、がんがんやっているといいます。先日は「親父バンドコンテスト」に出場したそうです。
重永くんは高校時代、野球部のエースでもありました。中学時代から県北では名の知られた投手でした。ただ、球はめっぽう速いものノーコンでした。バイクなんか乗り回さず、真面目に練習やっていたらすごい投手になっていたのになぁ等と、この夜、真面目に彼に語ったものでした。

他の友人たちとのことを書いていたらきりがありません。とにかく、あの頃の僕や僕の仲間は自由に好きなことだけをやっていました。自慢にはなりませんが、僕は子供の頃、学校の勉強というものをしたことがありませんでした。高校も大学も受験勉強など、まったくしませんでした。特に高校時代は授業をサボって友人とよく映画を見にいったりしたものです。体育祭・文化祭は、お客様みたいなものでした。修学旅行にも行きませんでした。中学生時代、学校や教師に押さえつけられ反発できず、鬱積【うっせき】していたものが一気に解き放たれた感覚でした。
だからといってタバコを吸ったり、酒を飲んだりということではありません。そんなことより、もっと根っこのところで僕は、大人に・その後ろにある何か訳の分からない大きな不当な力に逆らいたかったのだと思います。
当時、江迎町に「家主【やぬし】」と皆に呼ばれる友人がいました。両親が他の別々の所で暮らし、彼はおばあちゃんと2人で暮らしていました。その彼の家の2階が僕らのたまり場になっていて、いろんな高校からやんちゃな連中が集まってきていました。それで、彼は「家主」と呼ばれていたのです。部屋の真ん中に大きな灰皿が一つでんと置かれ、いつもタバコの吸殻が一杯でした。
私も時々、勧められましたが、なぜかタバコを口にすることはありませんでした。何故、断ったのか、今、考えても分かりません。それほど僕は友人からも自由でした。
そして、その気分は今もまったくかわらないように思われます。
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