寒い日曜日。それでも今日はミサに出かけました。お御堂の中は、外と同じくらい寒いです。今年からは、ミサには仕事がたまっていても行こうと 決めました。ミサから帰ると風邪をひいたのかと思うくらい体がぞくそくしました。早めに昼食をとると、疲れが出てきて横になりたくなりました。NPO法人の経理の仕事がたまっています。証憑や伝票でテーブルが散らかります。どうしてこんなに休みもなく私の生活を侵食してくるのだろう と思いました。
少し休もうとソファーに横になりNHKアーカイブスの「比叡山 千日回峰 ~一日一生 今を生きる~」を見ました。確かNHKの番組で酒井雄哉さんを見て、本を求めたことがありました。ごく普通の人が仏にであったり、神に出会うことで人生が大きく変わることがあります。番組では修行を終えた酒井さんを「生き仏のよう」と信者の方が言っていました。人にはそれぞれ「業」のようなものがあり、それを背負って生きるのが「人生」の「行」のように思えました。自ら求めた仕事であれ、それを選んだ人生は理屈では言い切れないことがあるように思えるのです。「なぜ?」この道を行くのか?
酒井さんとは月とすっぽんどころではないのですが、私はこのNPOの仕事を続けるのが私の「行」であり「十字架」なのではないかと思えたのです。神との出会いもこのことがなければありませんでした。自分のすべてを出し切れる「行」なのではないのか と思えたのです。そのために多くの出会いがあり、多くの支えがあり、多くの感謝があるのではないかと。
少し休もうとソファーに横になりNHKアーカイブスの「比叡山 千日回峰 ~一日一生 今を生きる~」を見ました。確かNHKの番組で酒井雄哉さんを見て、本を求めたことがありました。ごく普通の人が仏にであったり、神に出会うことで人生が大きく変わることがあります。番組では修行を終えた酒井さんを「生き仏のよう」と信者の方が言っていました。人にはそれぞれ「業」のようなものがあり、それを背負って生きるのが「人生」の「行」のように思えました。自ら求めた仕事であれ、それを選んだ人生は理屈では言い切れないことがあるように思えるのです。「なぜ?」この道を行くのか?
酒井さんとは月とすっぽんどころではないのですが、私はこのNPOの仕事を続けるのが私の「行」であり「十字架」なのではないかと思えたのです。神との出会いもこのことがなければありませんでした。自分のすべてを出し切れる「行」なのではないのか と思えたのです。そのために多くの出会いがあり、多くの支えがあり、多くの感謝があるのではないかと。