旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

中山道紀行2 板橋宿~蕨宿

2010-12-04 | 中山道紀行

「板橋宿」 11:20
 中山道の板橋宿は、品川宿、内藤新宿、千住宿とともに、江戸四宿として栄えた。
なるほど江戸を発つ旅人がわざわざ日本橋に行くわけではない。
板橋から出発し、見送りも出迎えもここまでが一般的であったそうだ。
それゆえ板橋宿は酒楼や茶店、多くの遊女を抱え中山道一賑わっていたという。

「志村一里塚」 12:10
 志村一里塚は中山道の3番目の一里塚として築かれたものだ。
明治9年(1876年)の「一里塚廃毀」の法令以降、多くの一里塚が消滅するなかにおいて、
今日でも二基一対で残っている希少な一里塚で、現在は国の史跡に指定されている。
往復6車線、道幅25mの国道17号がすっぽり収まっているのだから驚きだ。

「清水坂」 12:35
 志村の立場を過ぎると清水坂に差しかかる。都営三田線が地上に飛び出す辺りだ。
旧中山道で最初の難所で志村の台地から荒川流域の低地に下る急坂で、
途中大きく曲がっていて街道で唯一富士を右手に一望できる名所であったと云われる。

「戸田の渡し」 13:30
 幕府は荒川架橋を禁じ、現在の戸田橋の100m下流に渡しがあり中山道を繋いでいた。
「戸田の渡し」は明治8年ここに橋が架かるまでまで続いた。
天保年間の戸田渡船場書上帳によると、渡し場は長さ70間、幅8間を十三艘で渡した。
見張所があった戸田河岸には、江戸から積んできた塩、砂糖、雑貨品などが降ろされ、
江戸へ帰る舟には、大根や漬物など、この付近の特産物が積み込まれたそうだ。
荒川を渡ると埼玉県に入る。

「蕨宿」 15:10
 右手を新幹線が駆け抜けていく戸田橋を渡り、マンションが林立する戸田市を抜け、
やがて中山道は、左にカーブする国道17号と分かれて蕨宿に入って行く。
蕨市の歴史民俗資料館は小さいながらも資料が豊富。宿場のことをしっかり学習してきた。
板橋宿から戸田渡しを経て蕨宿までは8.9km、3時間の行程。第2日目も元気に歩きました。