太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

ビロウな話

2015-02-18 10:14:29 | 日記
年末から、夫と私と順番に風邪をひき、1ヶ月ほど朝のウォーキングを休んでいたのを再開した。

起伏のあるコースを、早足で30分余。5時半だと、まだ星がこうこうと出ている。

近所にある広いコンドミニアムは、都会にあるようなビルではなく、コテージ風の建物が点在している形で

全体が大きな公園の中におさまっている感じだ。

そのまわりを歩く。活動しはじめる町を歩くのは気持ちがいいのだが、ひとつ困ったことがある。



歩くと、内臓の動きが活発になるのか、ときどき「もよおす」のである。

「大」のときもあれば「小」のときもある。

出かける前に用をたしても、内臓が動く前ではあまり意味がない。

これが、いつ、どのあたりで来るのかが大変重要で、

引き返したほうが賢明だという地点と、このまま進むしかない地点とあり、

いずれにしろ、もよおしてから、MAXになるまでの時間は悲しいほど短い。


それは前触れもなく突然やってくる。

まだしばらく我慢できる、というところから、海の波のように「もうダメかも」と

「まだいける」が繰り返し襲ってくる。

その感覚は短くなり、「もうダメかも」の波の強さは増してくる。

公園のようなコンドミニアムであっても公園ではないから、公衆トイレなどはない。

無口になり、嫌な汗が吹き出てくる。

もう一人の自分が、適当な茂みを探しているのを知って、愕然とする。

ハイキングコースじゃあるまいし、まるっきりの住宅地のいったいどこに「適当な茂み」などあろうか。



いつか記事にしたかもしれないが、私にはこういう過去がたくさんある。



いきたいのにいけないという状態で苦しむ、という体験を、うんざりするほど重ねてきた。

なぜいつもこんな目に、と思ったけれど、そのことにエネルギーを使いすぎるからそうなったのだろう。

その過程は同じだ。

無口になり、心の中で気を紛らせるために歌を歌う、しりとりをする。

もしダメだったらという妄想が頭をかすめる。

思いつく限りの祈れるものすべてに祈る。

あと何分、あと何分、と自分を励ます。



1度だけ、ダメだったことがあった。

小学生の頃の遠足のバスの中で、「もうダメかも」の大波がやってきて、

それは去らなかったのである。

内股にあたたかい感触が広がってゆき、そうなってしまったら、もう我慢しなくていいのだというヨロコビさえあった。

すべてが終わってしまうと、腹をくくって被害状況を確認すべく、お尻の下に手をいれてみた。

ところが、まったく濡れていない。

腰を浮かせて、バスのシートを触っても、乾いているのだ。

膀胱のすっきり加減からいけば、出るものは出てしまったことは間違いない。

狐につままれたような気分で椅子に座り直したとき、ズボンのポケットに硬いものがあるのに気づいた。

それは出掛けに祖母がくれたお守りだった。

このお守りが守ってくれたんだろうか。

やみくもに祈った祈りが、だれかに通じたんだろうか。




さて、「もよおす」のは私だけではない。

夫も同じで、これがまたうっとうしい。

耐えているとき、私はひたすら無口になるのだけれど、

夫は「うぐっ」とか「くぅぅーー」とか、時折立ち止まったり、腰に手をあてたり

天を仰いで白目を見せたり、「うっ  ハァーー・・」などとうるさいことこの上ない。

自分がもよおしていないときに、人がもよおしているのを見るのは、その辛さを知っているにもかかわらず

ただうっとうしいばかりである。


夫一人をくくってアメリカ人というのもどうかと思うが、

アメリカ人てのはまったくこんなふうにストレートな人種なのだ。



1年ほど前まで、40分かけてコンドミニアムのまわりを2周歩いていたのだが、

2周目の真ん中近くにもよおすと、引き返すのも歩き続けるのも大変つらい。

こんな理由から、1周にして、30分に切り詰めた。



車の中から、ジョギングやウォーキングをしている人たちを眺めながら

あの人たちはどうするんだろうか、と他人の膀胱や腸の心配までしているのである。










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