太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

暗黙のルール

2024-03-28 10:40:07 | 食べ物とか
回転すしで思い出した。
回らない普通の寿司屋が苦手である。
と言っても、遥か昔に、その場の流れで仕方なしに何度か行った程度だが、行くたびに、もう行くまいと思う。

カウンター席につき、醤油皿と寿司をのせる木の台が出てくる。カウンターの向こう側には二人ぐらいの板前さんが、忙しそうに立ち働いている。
ものを知らない私は、何から頼めばいいのかがわからない。
いきなりウニなんて頼んだら邪道なのか、タマゴは好物だけど、いつごろ頼めばいいのか。

「エンガワをつまみでね」

中年の紳士が、慣れた調子で頼んでいる。
一緒に行った連れには、どう頼めばいいのか聞きたくない。私は二十歳そこそこで若く、変な意地があった。
今なら、「最初からウニなんか頼んでもいいかしら」なんて板前さんにしゃあしゃあと聞けるほどの面の皮なのに。

壁に掛かっているネタの札を眺めて、中トロあたりなら良さそうではないかと思う。
が、今度は、頼むタイミングがつかめない。
板前さんたちは忙しそうで、手のあいた隙に頼もうとすると、他のお客と話を始めたり、さあ今だ、と思うとくるりと背を向けて他のことをしたり。
タイミングを掴もうと、ジーっと板前さんたちの挙動を凝視している私に、連れが、
「頼まないの?」
と聞いてくる。
だから今頼もうと思ってるんじゃないよ!と心の中で言い、思い切って、
「中トロ、ください」
と言ってみる。
けれど、声が小さかったのか、誰も振り向かない。
もうここでお寿司なんかいいから帰りたくなる。
もう一度、「中トロ、ください」とボリュームをあげて言って、ようやく一人の板前さんと目が合う。

「へい、中トロ」

ようやくのことでお寿司が目の前に出てくる。
さあ、次は何を頼もうか。板前さんの挙動を監視し、と、以下同じことを繰り返し、帰るころにはヘトヘトになっている。

寿司屋の敷居が高いと感じるのは、私が若かったからだろうか。
あの緊張感は何だ。
恐怖のラーメン屋「再見」ほどではないにしても(「再見」の記事はコチラ)、居心地の悪さという点では似たようなもの。

いつだったか、東京の有名な寿司屋のドキュメンタリー映画を観た。
その店は何か月も先まで予約が埋まっており、静寂の中でカウンターについたお客たちが、出てくるお寿司を恭しく食べ、隣同士で「美味しいですね、さすがですね」などと小声で言い合ったりする。
まるで、ありがたく食べさせていただく、というような感じで、私はたとえ無料で連れていってくれると言われても、行きたくない。

余談だが、昔、フランス料理の高級な雰囲気のレストランに行った時、食前酒を聞かれた。
お酒はあまり飲まないし、どんな種類があるかもわからないので、唯一思いついたマティーニを頼んだ。
ウェイターが去ったあと、連れが
「女の人がマティーニを頼むのは、ちょっと変だよ」
と言った。
あの時代、スマホがあったら、その場で調べることもできたのに、私はそんなものなのかと思っただけだった。
そのことを思い出して、今の夫に聞いてみたら、
「そんなことないよ。何を飲もうがその人の勝手じゃん」
と言う。
そうだそうだ。何を飲もうが私の勝手じゃ。
女はマティーニを頼まないだなんて誰が決めた!決めたやつ連れてこーい!
と、何十年もあとになって息巻いた。


私はいまだに、ほんとの寿司屋で最初に頼んでいいものと悪いものが何かわからない。
この先、ほんとの寿司屋に行くことがあるとしても、暗黙のルールなんかどうでもよく、食べたいものを食べようと思っている。

ハワイには、元気寿司という回転すし(これは回っているらしい)があるが、それができる前に、夫がホノルルの寿司屋に行ったときのこと。
マグロ(ハワイではアヒ)を頼んだら、板前(現地人)が
「おまえはマグロを食べたくはない!」
と言って、別のネタを出してきたという笑い話のようなホントの話。
「寿司屋ってどうなってんの?」
まったく、どうなってんの。














回らない回転すし

2024-03-28 09:21:54 | 日記
日本の友人から聞いたのだが、最近、日本の回転すしは回っていないのだという。
調べてみたら、コロナの影響、共有の醤油さしなどを舐めている動画が問題になったのも原因であるらしい。

「回らずにどうなってんの?」

「タッチパネルでオーダーすると、それがテーブル横のレーンに乗ってくるのよ」

またタッチパネルか。
12月に4年ぶりに日本に行った時、コンビニの支払いがタッチパネルになっていて戸惑ったのを思い出す。
支払い方法の、あまりに多種多様なのに目がクラクラした。現金とクレジットカード以外の支払い方法は、てんで何がなんだかわからない。

レーンがあるのなら、一応、流れてはくるのだろうか。
なにしろ、回転すしなんて、デザートから何から流れているのを取って、最後にお皿の数を数えてもらって支払っていた頃しか行ったことがない。
子供でもいれば、家族で出かけることもあっただろうが、手軽に持ち帰りできる店も増えたこともあって、私にはお寿司は買って帰るものだった。

「じゃあ、回らないんなら、もう回転すしじゃないじゃん」

「そうなんだけどねー」

確かに、取る人がいなくて干からびていくイカが悲しく回っていることもなく、お皿を数えるための店員もいらず、客は欲しいものが出来立てで食べられて、回ることをやめた回転すしは、双方にとっても良いことなのかもしれない。
しかし、干からびていくイカに情が移り、私が取らねばゴミ箱行きか!という変な正義感が生まれ、取ってしまうという、妙な駆け引きも興味深かったし、お皿が重なっていく楽しみや、どれでも取っていいのだというワクワク感がなくなるのは、やはり寂しいと私は思う。

回らないなら、回転すしという名前も変えなきゃならなくなるのでは。