年末から、夫と私と順番に風邪をひき、1ヶ月ほど朝のウォーキングを休んでいたのを再開した。
起伏のあるコースを、早足で30分余。5時半だと、まだ星がこうこうと出ている。
近所にある広いコンドミニアムは、都会にあるようなビルではなく、コテージ風の建物が点在している形で
全体が大きな公園の中におさまっている感じだ。
そのまわりを歩く。活動しはじめる町を歩くのは気持ちがいいのだが、ひとつ困ったことがある。
歩くと、内臓の動きが活発になるのか、ときどき「もよおす」のである。
「大」のときもあれば「小」のときもある。
出かける前に用をたしても、内臓が動く前ではあまり意味がない。
これが、いつ、どのあたりで来るのかが大変重要で、
引き返したほうが賢明だという地点と、このまま進むしかない地点とあり、
いずれにしろ、もよおしてから、MAXになるまでの時間は悲しいほど短い。
それは前触れもなく突然やってくる。
まだしばらく我慢できる、というところから、海の波のように「もうダメかも」と
「まだいける」が繰り返し襲ってくる。
その感覚は短くなり、「もうダメかも」の波の強さは増してくる。
公園のようなコンドミニアムであっても公園ではないから、公衆トイレなどはない。
無口になり、嫌な汗が吹き出てくる。
もう一人の自分が、適当な茂みを探しているのを知って、愕然とする。
ハイキングコースじゃあるまいし、まるっきりの住宅地のいったいどこに「適当な茂み」などあろうか。
いつか記事にしたかもしれないが、私にはこういう過去がたくさんある。
いきたいのにいけないという状態で苦しむ、という体験を、うんざりするほど重ねてきた。
なぜいつもこんな目に、と思ったけれど、そのことにエネルギーを使いすぎるからそうなったのだろう。
その過程は同じだ。
無口になり、心の中で気を紛らせるために歌を歌う、しりとりをする。
もしダメだったらという妄想が頭をかすめる。
思いつく限りの祈れるものすべてに祈る。
あと何分、あと何分、と自分を励ます。
1度だけ、ダメだったことがあった。
小学生の頃の遠足のバスの中で、「もうダメかも」の大波がやってきて、
それは去らなかったのである。
内股にあたたかい感触が広がってゆき、そうなってしまったら、もう我慢しなくていいのだというヨロコビさえあった。
すべてが終わってしまうと、腹をくくって被害状況を確認すべく、お尻の下に手をいれてみた。
ところが、まったく濡れていない。
腰を浮かせて、バスのシートを触っても、乾いているのだ。
膀胱のすっきり加減からいけば、出るものは出てしまったことは間違いない。
狐につままれたような気分で椅子に座り直したとき、ズボンのポケットに硬いものがあるのに気づいた。
それは出掛けに祖母がくれたお守りだった。
このお守りが守ってくれたんだろうか。
やみくもに祈った祈りが、だれかに通じたんだろうか。
さて、「もよおす」のは私だけではない。
夫も同じで、これがまたうっとうしい。
耐えているとき、私はひたすら無口になるのだけれど、
夫は「うぐっ」とか「くぅぅーー」とか、時折立ち止まったり、腰に手をあてたり
天を仰いで白目を見せたり、「うっ ハァーー・・」などとうるさいことこの上ない。
自分がもよおしていないときに、人がもよおしているのを見るのは、その辛さを知っているにもかかわらず
ただうっとうしいばかりである。
夫一人をくくってアメリカ人というのもどうかと思うが、
アメリカ人てのはまったくこんなふうにストレートな人種なのだ。
1年ほど前まで、40分かけてコンドミニアムのまわりを2周歩いていたのだが、
2周目の真ん中近くにもよおすと、引き返すのも歩き続けるのも大変つらい。
こんな理由から、1周にして、30分に切り詰めた。
車の中から、ジョギングやウォーキングをしている人たちを眺めながら
あの人たちはどうするんだろうか、と他人の膀胱や腸の心配までしているのである。
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起伏のあるコースを、早足で30分余。5時半だと、まだ星がこうこうと出ている。
近所にある広いコンドミニアムは、都会にあるようなビルではなく、コテージ風の建物が点在している形で
全体が大きな公園の中におさまっている感じだ。
そのまわりを歩く。活動しはじめる町を歩くのは気持ちがいいのだが、ひとつ困ったことがある。
歩くと、内臓の動きが活発になるのか、ときどき「もよおす」のである。
「大」のときもあれば「小」のときもある。
出かける前に用をたしても、内臓が動く前ではあまり意味がない。
これが、いつ、どのあたりで来るのかが大変重要で、
引き返したほうが賢明だという地点と、このまま進むしかない地点とあり、
いずれにしろ、もよおしてから、MAXになるまでの時間は悲しいほど短い。
それは前触れもなく突然やってくる。
まだしばらく我慢できる、というところから、海の波のように「もうダメかも」と
「まだいける」が繰り返し襲ってくる。
その感覚は短くなり、「もうダメかも」の波の強さは増してくる。
公園のようなコンドミニアムであっても公園ではないから、公衆トイレなどはない。
無口になり、嫌な汗が吹き出てくる。
もう一人の自分が、適当な茂みを探しているのを知って、愕然とする。
ハイキングコースじゃあるまいし、まるっきりの住宅地のいったいどこに「適当な茂み」などあろうか。
いつか記事にしたかもしれないが、私にはこういう過去がたくさんある。
いきたいのにいけないという状態で苦しむ、という体験を、うんざりするほど重ねてきた。
なぜいつもこんな目に、と思ったけれど、そのことにエネルギーを使いすぎるからそうなったのだろう。
その過程は同じだ。
無口になり、心の中で気を紛らせるために歌を歌う、しりとりをする。
もしダメだったらという妄想が頭をかすめる。
思いつく限りの祈れるものすべてに祈る。
あと何分、あと何分、と自分を励ます。
1度だけ、ダメだったことがあった。
小学生の頃の遠足のバスの中で、「もうダメかも」の大波がやってきて、
それは去らなかったのである。
内股にあたたかい感触が広がってゆき、そうなってしまったら、もう我慢しなくていいのだというヨロコビさえあった。
すべてが終わってしまうと、腹をくくって被害状況を確認すべく、お尻の下に手をいれてみた。
ところが、まったく濡れていない。
腰を浮かせて、バスのシートを触っても、乾いているのだ。
膀胱のすっきり加減からいけば、出るものは出てしまったことは間違いない。
狐につままれたような気分で椅子に座り直したとき、ズボンのポケットに硬いものがあるのに気づいた。
それは出掛けに祖母がくれたお守りだった。
このお守りが守ってくれたんだろうか。
やみくもに祈った祈りが、だれかに通じたんだろうか。
さて、「もよおす」のは私だけではない。
夫も同じで、これがまたうっとうしい。
耐えているとき、私はひたすら無口になるのだけれど、
夫は「うぐっ」とか「くぅぅーー」とか、時折立ち止まったり、腰に手をあてたり
天を仰いで白目を見せたり、「うっ ハァーー・・」などとうるさいことこの上ない。
自分がもよおしていないときに、人がもよおしているのを見るのは、その辛さを知っているにもかかわらず
ただうっとうしいばかりである。
夫一人をくくってアメリカ人というのもどうかと思うが、
アメリカ人てのはまったくこんなふうにストレートな人種なのだ。
1年ほど前まで、40分かけてコンドミニアムのまわりを2周歩いていたのだが、
2周目の真ん中近くにもよおすと、引き返すのも歩き続けるのも大変つらい。
こんな理由から、1周にして、30分に切り詰めた。
車の中から、ジョギングやウォーキングをしている人たちを眺めながら
あの人たちはどうするんだろうか、と他人の膀胱や腸の心配までしているのである。
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