太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

スローモーション

2024-02-21 07:11:28 | 日記
夫が食事の後の食器類を洗っていた。
私はその隣で、ストーブトップを拭いたりなんぞしていた。
夫が洗った包丁を、包丁差しに入れるために身体の向きを変えた時、猫のコーちゃんがすぐ足元にいた。

「ワ―――ぉ!!」

あわててコーちゃんを避けようとし、持っていた包丁が宙に浮き、
刃先を下にしたまま重力に従って下に落ちていく。
そのまま落ちれば、夫の素足の上に落ちる。
しかも、親指と人差し指の間に、体の向きと刃が平行に。
危機のときはスローモーションになると聞いたことがあるが、あれは本当かもしれない。
包丁はゆっくりと(に見えた)落ちていき、ふっとその向きを変えた直後に夫の足の、親指と人差し指の間に、指と平行の向きで落ちた。
もしもそのまま落ちていたら、指の間の腱を寸断していたかもしれず。

包丁は転がり、コーちゃんはとっくに逃げた。
夫は、見るのが怖いといって足指の上に手を当てていたが、おそるおそる手をどけてみると、思ったよりたいしたことのなさそうな小さな切り傷で、殆ど出血もしていない。

「ねえ、今の、見た?包丁がひとりでに向きを変えたんだよ」

「知らないよぅ、そんなの見てられたわけないじゃん」

「あのまま落ちてたら腱を切ってたかもね、それにあんな包丁が刺さったのに、そんなちっさな傷で済んだなんてすごいねえ」

興奮する私に、

「あのさ、それはいいけどバンドエイド持ってきてくれるかな」

と、夫。

誰か知らないけれど、助けてくれた人がいる。
ありがとうございました。












葉っぱアート

2024-02-20 16:06:04 | 日記
姉が、葉っぱアートの展覧会を見に行ってきたという。
リトさんというアーティストが、葉っぱを切り絵のようにして作品を創っている。


これはみんな1枚の葉っぱ。
こんなに優しく温かい作品を創るリトさんは、女性なのだと勝手に想像していたが、実は男性だった。
発達障害で、どこで働いても大失敗はしないけど、小さな失敗ばかりで苦しかったそうだ。
それで、自分の居場所を探して、ここに辿り着いた。
1986年生まれで、2020年から独学で葉っぱ切り絵を始めたという。

リトさんは発達障害だったから、よけいに生きづらかったのだろうけど、そうではなくとも、何となく生きづらい思いをしている人はいると思う。
自分の居場所はここじゃないかも、と感じて生きている人もいるだろうし、それを探している人もいるだろう。
居場所なんてことを思う余裕がない人だってたくさんいるのではないか。
自分の違和感よりも、生活していかねばならないし、子供を育てることのほうが優先だもの。

そう思うと、独身のままだったり、子供がいない人は、他の人達よりも自分のことにかまける余裕がある。
私だって、子供がいたら今とは違った暮らしをしていただろうし、芸術を仕事にすることだってなかったかもしれないのだ。


違和感と向き合うのは辛いこと。
日々に追われ、だましだまし生きていくこともできてしまう。
けれども、探し続けて、見つけることのできた人は、まわりの人に大きな勇気をくれる。
リトさんのように。









若作りにとりつかれる

2024-02-14 10:00:28 | 日記
夫の友人はフォトグラファーで、グループ展をやるというのでレセプションの日に出かけた。
レセプションとは会場に作家たちが一同に集まり、飲み物や簡単な食べものを楽しみながら作家と交流できる機会のこと。

会場に着くと、友人が真っ先にみつけて駆け寄って来た。

「来てくれてありがとう。ママもいるのよ」

友人の母親のセブラもアーティストで、抽象画や前衛的なオブジェを作っており、カハラの邸宅には、奇抜なオブジェがそこかしこに飾られている。
夫とその友人とは中学以来の付き合いで、セブラもよく知る間柄。挨拶をしようとキョロキョロしていると、

「あらー!久しぶりね」

と、背中からセブラの声がした。振り返ってみて、顎が落ちそうになった。

妖精の羽根のような光沢のある生地でできた奇抜なドレスからは片方の肩がむきだし、しかも膝上20センチ以上の短さで、シルバーのロングブーツは10センチヒール。
真ん中で分けた黒髪は肩までまっすぐ伸びている。

夫の同級生の母親である。
若い頃はエキゾチックな顔立ちだったと思われるが、セブラは76歳。
太ってもいないし、姿勢もいいし、表情も豊かで、はっきりとした目鼻立ちは年齢よりは若く見える。
でも、顔面に広がる深いシワ、シミ、肌のたるみ、くすんだ色、ちりめんのような細かいシワが浮く腕や足は年齢どおり。
孫世代と同じファッションをまとうことで若さを見せたつもりが、よけいに老いを強調してしまい、切ないことこの上ない。
母親がこの格好をすることに、娘は何も言わなかったんだろうか。

女性がある程度の年齢になったら、誰だって若くいたいと思う。
「若作り」という言葉の裏には、若く見られたい女たちへの小さな意地悪が込められている。
それを承知で、若く見られることに執念を燃やさずにいられない女性たちの、なんとけなげで可愛らしいことか。
そんな意地悪に負けずに、どんどん若作りして、明るく楽しく生きればいいのだ、と私は思っている。

しかし、ふと、若作りには越えてはならぬ線があるのでは、と気づいた。

何年も前になるが、職場の同僚が、マイクロミニの白いスカートをはいてきて驚いたことがある。
当時、同僚は60歳を過ぎていたと思う。お腹まわりはでっぷりと肉がついているが、脚は細い。細い脚は彼女の自慢なのだろう。
細いことは細いが、若い人とは違って皮膚には張りがないし、上を見れば顔はシワシワ。ミーティングで座ると、見たくもないものが見えてしまい、目のやり場に困った。
そのすぐあと、ユニフォームのボトムは膝より下、という規則があわてて作られた。


女性たちが若くて元気なのは、社会が明るくなるし、いいことだけれど、さかのぼっても良い境界線を越えてしまうと、まったく裏目に出てしまい、老いばかりが強調されるという恐ろしいことになる。

世の中には、とてもその年齢に見えないほど若い、という人たちがいる。
40歳の人が、まったく違和感なく25歳に見えたらスゴイ。
スゴイが、50になっても60になっても25歳を目指していたら、それはもう若作りにとりつかれている。
これにとりつかれると、自分では気づけない。
鏡を見る時、人は現実より何割増しか良く見ているのだという。
若作りにとりつかれると、200%ぐらい良く見ているのではないか。

かつて友人たちと、
「私がイタイ恰好してたら、言ってね」
と互いに言い合っていたものだが、実際は言えるものではないし、言われたら気分が悪いから、見逃してほしいと思う。
けれど、セブラを見たら、そうも言っていられなくなった。
とはいえ、友人たちに言いにくいことを言わせるのは気の毒であり、こうなったら夫しか頼れる人はいない。

「私が妙に若い恰好してたら、言ってよね」

と夫に言うと

「オッケー」

なんとも頼りない返事である。






重い腰があがる

2024-02-09 07:43:53 | 日記
ようやく、重い腰があがった。
新作を仕上げてからどのぐらいたつのか、調べればわかるけれど調べない。
そろそろ次に取り掛からねばと思い、ひと月ぐらいは軽く過ぎてしまう。
次の休みこそやるぞ、と思う。
やるはずの休みを、結局なにも手をつけずに時間ばかりが過ぎてしまうとき、胸の奥がチクリと痛む。
夫の叔母の家にふらりと立ち寄ったとき、そのことを漏らすと、

「そういう時は自分に優しくしないとね」

と言った。
「優しく」と「甘く」はどう違うのか。私はどうも自分に甘いだけなのではと、またまた心が塞ぐ。
そんなとき、藤沢周平氏のエッセイを引っ張り出して読む。


たとえば50枚の小説を書くとする。私は初日の予定に5枚と書く。
二日目は15枚と書き、三日半から四日で書き上がるような配分にする。
だが1日目には私は今日はたったの5枚だと思う。
あわてることはないと思っていると、いつのまにかお昼になる
(中略)
このあたりで私は、たった5枚なら明日のノルマにくっつけてもどうということはないな、と思い始めている。


天下の藤沢先生も同じ!(いや、けして同じではない)


朝起きて、仕事がつまっていなければ散歩に出かけて、コーヒーを飲んだり本屋を見たりし、
仕事がつまっているときは、散歩をやめて机に向かうが、何もしないうちに昼になる
どうせ書かないなら、机に向かうこともないようなものだが、外をぶらつくのは申し訳ないような気がする。
誰に対して申し訳ないかといえば


・仕事をくれる出版社
・締め切りが迫っているのに小説はまだ3分の1もすすんでいないとは夢にも思わないだろう編集者
・二階にいるからには仕事をしていると信じて疑わない妻
・仕事の遅れを気にしている自分自身


そうそう、そうなのだ。
なぜか、いつのまにか昼になるのも一緒。
私の場合、作品を売ってくれるギャラリーであり、着々と新作を制作していると思い込んでいるギャラリー担当者であり、制作に取り掛かれないことを気にしている自分自身、ということになる。

藤沢先生と比べるなどおこがましいにもほどがある。
同志を探して安心している暇があったら、さっさとやればいいのだが、それができたら苦労はしない。

そうして昨日、午後の2時近くになってようやく、重い腰があがった。
キャンバスを取り出し、背景を作ってしまう。
以前、作ったブレッドフルーツを、キャンバスの大きさを縦長の細めのものにしてやってみようと思う。
好きな題材は、形をかえて繰り返し作ってみたくなる。好きなものは、また、売れるものでもあって、手堅いテーマでもある。

作成し始めればこっちのもの。
しかしなにしろエンジンがかかったのが2時で、そろそろ夕食の支度を始めるために席を立たねばならない3時過ぎには、席を立ちたくなくなっている。
これが朝だったら、今日一日でずいぶん捗ったのに、と思うが仕方がない。
取り掛かれただけよかったと思おう。







夢の出所

2024-02-06 08:24:58 | 日記
寝ている間にみる夢の、その突拍子のなさはどうしたことだろう。
記憶をベースにしたものならともかく、夢の中だけで友人であるとか、行ったこともない場所で夢の中では当然のように暮らしているとか。

子供の頃から、変な夢をよくみた。
学校から帰ると、近所の人たちがみんなチョンマゲに着物を着ていて、その一人に包丁を持って追いかけられたことがある。
荒れ果てた土地で仲間数人と何者かから逃げていて、迷い込んだ廃墟のような病院には、階段や廊下にゾンビのような人たちがたくさんいたこともある。

今朝の夢は、夢の中だけの友人の家にいて、家に帰らなくてはならないのだが車がない。
すると友人が250ccのバイクを貸してくれるという。
バイクは乗ったことがないと言うと、簡単だから乗り方を教えるというので乗ってみる。
「アクセルは、ここ」
そう言って、座面シートの横にある黒い蓋を開けたところにあるボタンを指す。
「ブレーキは、ここね」
アクセルとは反対側の横にあるボタンを指す。
「えー、手のグリップについてるんじゃないのー?」
「そんな、スクーターじゃないんだからさ」
とにかくアシはそれしかないので、試しに外に出てみる。
外は暗く、雨が降っていた。前に進むには、横のボタンを押し、止まるときには反対側のボタンを押すので、運転している間中、片手運転ということになる。
雨の中をヨロヨロと運転してみるが、危なっかしくて家まで辿り着ける気がしない。そこで友人の家に戻ると、友人と家族が集まっている。
「ああ、そうだった。あなたのお父さん、今日亡くなったんだったよね」


そこで目覚ましが鳴って目が覚めた。
夢の中ではよく知っている、あの人は誰?
いったい夢のアイデアはどこからやってくるのだろう。

そしてふと、思い立つ。

夢は私の、ひとつのパラレルワールドなのではないか。

パラレルワールドが実在するかどうかは知らないけれど、同時に並行展開しているパラレルワールドのひとつが、夢として出てくると考えたら、この現実世界では知らない人が友人でも納得がいく。
そうだとしたら、どこかの世界の私は、今この現実世界を夢にみることもあるだろう。
その話を夫にしたら、

「なんか知らないけど変なガイジンがダンナでさー、南国みたいなとこが出てくるんだよねえ、何だろう?って言ってるかもよー」

と言って笑った。

それにしても、シートの左右にアクセルとブレーキボタンがあるバイクを運転しなきゃならない世界に住んでいる私は難儀なことである。