島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

橘諸兄

2019-04-24 | 天皇陵巡り番外
  
 京都市伏見区にある老人ホームで午前中働いた後(午後からの他の病院での仕事は今年からやめています)、いつもならJR奈良線に乗って、京都駅の方に帰るのですが、この日は反対方向の電車に乗って、30分ほどの京都府南部、奈良にも近い井手町(イデチョウ)を目指しました。
  
 新しい駅舎になったばかりのJR玉水(タマミズ)駅で降りて、木津川の流れの反対方向である東の方、山手を目指して20分ほど歩きました。
 
 スマホの地図にも出てこないので、感を頼りに歩いて行って、やっと入り口を見つけました。
    橘諸兄公旧趾
 
 苧ムの中を走る寂しい道を少し歩いて、この石段に到着。
橘諸兄(タチバナノモロエ)(684~757)、何をした人かもひとつ憶えていませんが、日本史の教科書には載っていて、名前が印象的なので憶えていました。
皆さんも名前だけはなんとなくご存知と思います。
 
 諸兄の父は美努王(ミヌオウ)、母は県犬養美千代(橘美千代)で、第30代敏達天皇5世の孫にあたるそうです。
母美千代はその後藤原不比等の後妻になって、聖武天皇夫人の光明子(光明皇后)を産んでますので、諸兄は光明皇后の異父兄にもなります。
 
 聖武天皇(妹の旦那になります)に仕えていましたが、藤原四兄弟や他の議政官(大臣・大納言・中納言・参議)が次々と天然痘で亡くなったので、自動的に官位が上がり、左大臣にまでなっています。
それと共に、政争にも巻き込まれ、藤原一族の巻き返しを狙った広嗣の乱(740年)や、孝謙天皇の時代になると、藤原仲麻呂の台頭もあって、謀反の疑いまでかけられたた為、756年自ら潔く職を去って引退しました。
 
 この旧趾(単に石碑を建てただけでしたが)から又駅の方に戻る途中に、この六角井戸がありました。
この辺りが本当に諸兄の別荘(玉井頓宮タマイトングウ)があった所らしく、このために諸兄は井手左大臣とも呼ばれていたようです。
 うろつきまわった聖武天皇が、この近くの恭仁京へ遷都した時に、ここを仮り宮ともしたと、案内板には書かれていました。
 橘諸兄の死後1年たって、諸兄の息子橘奈良麻呂(タチバナノナラマロ)は、藤原仲麻呂に対抗して乱を起こそうとしましたが、事前に密告により捕えられ獄死しています。
  橘奈良麻呂の乱(757年)

       返事
花水木さん:私たちは熟年夫婦以上、
    枯れきった老夫婦になっています。
     TV観たくないほど阪神弱いので、
    甘いものを食べて早く寝るしかありません。

コメント (2)
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