藤原茂子(フジワラノモシ・シゲコ)(?~1062)は権中納言藤原公成(キンナリ)(999~1043)の娘ですが、叔母が大納言藤原能信(995~1065)の妻だったので、能信の養女となりました。
実父の官位が低すぎると言われましたが、1046年養父能信が推したので皇太子に成れた尊仁親王(タカヒト)(後の後三条天皇)(1034~1073)に添(副)臥(ソイブシ)として入内しています。
添(副)臥:元服の儀を終えた東宮や皇子など身分の高い男子には、
その夜女子を添い寝させる風習があって、
その相手に選ばれた女子をこう言うそうです。
その後正妻にすることが多いようです。
写真はまたまたの宇治陵総拝所です。
茂子は貞仁親王(サダヒト)(後の白河天皇)(1053~1129)や篤子内親王(トクシ)(後の堀河天皇中宮)(1060~1114)など1男4女を産んでいますが、貞仁親王の即位前に亡くなり、藤原北家本流とは少し離れていますが、宇治陵総拝所に祀られています。
写真の宇治陵35号は、藤原時平の墓とも言われています。
宇治陵のいくつかは藤原北家男子の墓だと思うので、宮内庁が管理などしなくて良い墓もたくさん有ると思うのですが。
この辺りから、茂子や能信の出身である藤原氏閑院流(カンインリュウ)が、娘を院政期の天皇に嫁がせることが増えて、本元の藤原北家から外戚の地位を奪う形になってきています。
総拝所制札には、白河天皇御母贈皇太后茂子とありました。
返事
花水木さん:私ぐらいの年の京都の男は、
なんか偉そうにしてる人が多いいようで、反省しています!
権力を握ったら、手放すのはなかなか難しいですね。
その辺で人間性が出るような気がするので、反省・反省!!
現世より、古の方が、節操が無いと言うのか・・
昔は新生児の死亡率が高く、とにかく、子孫繁栄が一番の目的だったのでしょうか?
私の母は9人兄妹。
親や兄姉に迷惑かけ通しの真ん中の叔父が逝っただけ。
今時凄い生命力の家族だなあと思います。
家の姑さまは、7人兄妹でしたが、ばあさまが3女だったばあさまがたった一人生き残ってます。