竹内康之著「京へと続く街道歩き」から又また無断借用した地図ですが、荒神口から始めて、青〇印の山中越道標にいます。
東大路通と東一条通が交差する角に、南西から志賀越道が交わってきました。
この東北角の京都大学の塀沿いに、志賀越道標が立ってます(写真の横断歩道の奥です)。
現在の道とは45度ずれて立ってるのは、志賀越道が斜めに通てた道だったことを立証していますし、ここから道は京大構内をつき切ってたのです。
左 百まんへん(百万遍) 右 さかもと・からさき・白川(坂本・唐崎・白川)
宝永6年(1709)建立、京都で3番目に古い道標らしく、鉄枠で補強もされていました。
建立の頃は、富士山の宝永の大噴火に続いて、阿蘇山・浅間山・岩木山・三宅島と、噴火が日本各地で続いてた頃です。
今これだけ続いたら、ちょっとビビりますよね。
斜めにつき切れないので、京大に沿って直角に迂回していきます。
写真は京大正門と、東大時計台ほどは有名でないですが京大の時計台です。
我々いわゆる全共闘世代の時代、この京大時計台も全共闘によって占拠されていましたが、私もこの辺のデモに参加中に、味方の投げた投石が頭に当たって、1~2針縫合処置を受けました。
傷跡は少し禿げて残りましたが、今は禿げも全体に広がってきたので、ほぼ目立たなくなっています。
阪神夢のような巨人戦圧勝の3連勝!!!!!
昨日の3戦目は、ゆっくり安心して観戦出来た試合で、笑いが止まりませんよ!
でも、勝っても かぶっても 兜の緒を締めろ ですよ。
なんてこったい!笑
ワタシはそのころ、父が運転する車で、横を通り、バリケードとやらを見たような気がします。
救いは綺麗なおばさんが、ハンケチを出して優しく声をかけてもらったことです。
もうあのおばさんは天寿を全うしてるでしょうね。
味方からも敵からもやられやすい私は、戦地に行ったら真っ先に死ぬなあと思ってました。
私が二十歳の時で、今76歳、と言うことはToitenlaさんは、・・・・ですか!
小2の時、校庭で遊んでいた時、同級生の高木君が振り回した杭が頭部に当たり、流血。七㍉程のハゲになり、髪の毛分ける時に苦慮しました。
阪神おめでとうございます。
おめでとうはまだ早いのですが、やっと安心できる試合が出来るようになっていますので、今日もテレビ観戦楽しみです。
先生も、ワタシもね!
で、今は二人とも、トシ取った!笑
男前で、歌って踊れて、手術も上手い青年医師と言われてた頃が、懐かしいですね。
大きな失敗しない間に、車の免許書も医師免許書も返納したほうが良いような歳になってしまいましたよ。
車の販売から修理まで、沢山の社員の為頑張っていましたが、古希を待たずに膵臓癌で逝きました。悪ガキ時代知っている同級生として、寂しい限りです。
そろそろ普通に順番が回ってきてもよい歳になりました。
寂しがってくれる人がいる頃に死ぬのも正解かもせれませんが、まだもうちょっと生きたいです。