旧立誠小学校の横には高瀬舟の模型が飾られていました。
森鴎外の「高瀬舟」は大昔に読んだのではっきり覚えていませんが、まあ自殺ほう助の話だったと思いますし、当時はちょっとショックだった記憶が有ります。
私は高瀬川を航行する舟だから高瀬舟と思ってましたが、川を走る目的で作られた船底の浅い川船を高瀬舟と言っていて、その船が走る川だから高瀬川の名が付いたようで、私の思いと真実は逆でした。
高瀬舟は長さ13ⅿ・幅2ⅿぐらいなので、高瀬川内ですれ違ったり追い抜いたりは出来そうですが、Uターンは無理ですね。
盛時は百数十艘の高瀬舟が運航していて、700人いた岸から綱で船を引っ張るひきこが、この絵のように引っ張ってたようです。
この絵で見ると、橋も高く上げて作られてたようで、私の心配は杞憂に終わりました。
(恥ずかしながら杞憂を76年間「きう」と言ってました、変換しないので調べて「きゆう」と読むんだと知りました。「お」を「う」と思ってたり、変換で知る読み方はしばしばありますが、高校古文ぐらいから間違ったまま過ごしていました、冷や汗もんです)
四条より南の高瀬川沿いには、船廻し場と言う船入れより小さな入江が作られ、下流の農村部からの農作物の揚場として使用されていたようですが。これも全て埋め立てられていますし、川幅自体も当時より狭くなってる感じです(今はせいぜい川幅5ⅿ)。
四条通りを越えてさらに南に流れていきますが、この辺りはまだ綺麗に整備されていて、五条通り近づくと高瀬川はかなり鴨川に寄って行きます。(鴨川が西に流れてきているのかも知れませんが)
じゃ、仮に、淀川を渡っていても高瀬舟なんですか?あの小説の舞台はいずこ?
高瀬川シリーズマニア、また、読めて嬉しいです。あの川の景色、なんか好きです。ま、先生の騒動の碑を一つ立てなければならない場所だったのは哀しい話でしたが。
そのまま伏見から宇治川・淀川に出られたと思いますが、淀川はもう少しい大きいくらわんか舟?でないと危ないかもです、本当に知らんけど。
好評?にお応えして、もう2回ぐらいやります。
同音異義語も沢山あります。
私も、間違えたまま覚えてしまったことなど多いですし、この年でも、知らぬ事もあります。