『今、参考にすべきは「古代ローマ帝国」ではないでしょうか』
「ローマの共和政は、ギリシアで見られた独裁政、貴族政、民主政を
混合政体として、巧く組み込み権力を分散、世界帝国に発展拡大」
古代・中世で四大帝国と呼ばれるのは、
- モンゴル帝国
- ウマイヤ朝アラブ帝国
- ローマ帝国
- アレキサンダー帝国、ですが、
歴史的な偉業としては古代エジプト王国を五番目に入れたいところです。
『古代エジプト』(古代ローマ時代の前)は、
~紀元前30世紀 先王朝時代(農耕牧畜)、
紀元前30世紀~27世紀 初期王朝時代(首都メンフィス)、
紀元前27世紀~22世紀 古王朝時代(階段・屈折・ギザのピラミッド)、
紀元前22世紀~21世紀 第一中間期(政治的内紛・群雄割拠)、
紀元前21世紀~18世紀 中王国時代(テーベ・ルクソール神殿)
紀元前18世紀~16世紀 第二中間期(遊牧民侵入)、
紀元前16世紀~11世紀 新王国時代(王家の谷・地下墓地)、
紀元前11世紀~ 8世紀 第三中間期(大神官が王権)、
紀元前 8世紀~ 4世紀 末期王朝時代(アレクサンドロス大王の征服)、
紀元前 4世紀~ 1世紀 プトレマイオス朝時代(マケドニア貴族)
『この時代に、この凄さ』まさに『ナイルの賜物』です。
『モンゴル帝国』(古代ローマ時代の後の)は、
紀元前4世紀~1世紀頃(匈奴モンゴル制圧→南北匈奴分列滅亡)
紀元 1世紀~12世紀頃(鮮卑→柔然→突厥→ウイグル→遼・契丹変遷)
紀元13世紀~14世紀(モンゴル帝国誕生→元の支配・東西交易の
活発化・元寇→元の滅亡)
と、比較的わかりやすい。
古代ローマ帝国は、古代史上、図抜けた大きさ領土と、その版図拡大のスピード、統治体制の進展具合と言い現代に参考になるかと考えて、その概要整理してみましたが、心配は、気候変動も情報量も技術も『ホッケーストック曲線』のように変化していますので、中国の古典論語の『温故知新』が適用できるか、どうか。
最近の書籍、『日本列島再生論』・『日本列島回復論』・『この国の希望のかたち』等ありますが、現状の逼塞感の改善の参考にできたらと期待しております。
表題の『今、参考にすべきは「古代ローマ帝国」ではないでしょうか』に戻ります。
ウエブ情報から引用
❶紀元前6世紀(元老院の共和制)
紀元前6世紀のローマでは、有力貴族の話し合いによる『共和政』が行われました。 その政治機関が『元老院』です。元老院の議員たちは独裁者が現れないように、集団で意見をまとめ、国家を運営していこうと考えました。
❷紀元前3世紀(共和政ローマは強い軍事力)
紀元前3世紀には、周辺の都市国家や部族を征服し、イタリア半島統一した。
❸紀元前2世紀(内乱の1世紀)
軍隊の中枢を担っていたローマ市民は、相次ぐ戦争によって疲弊していきます。
貴族と平民の対立は深まり、紀元前2世紀後半からのおよそ100年間は「内乱の1世紀」と呼ばれる状態になります。
❹紀元前1世紀(混乱の中、政治の実権を握ったのが「カエサル」)
紀元前46年、カエサルは強大な権力を持つ『独裁官』になりました。 しかし、その独裁政治は共和政の崩壊につながると、元老院の一部の人々の反発を招き、カエサルは暗殺されてしまいます。
再び始まった内乱の時代に終止符を打ったのが、カエサルの養子「オクタヴィアヌス」でした。 彼は紀元前27年、元老院から『アウグストゥス(尊厳者)』の称号を受けて、ローマ帝国、初代の皇帝になりました。
❺紀元1世紀(アウグストゥス(尊厳者)ローマ帝国、初代の皇帝)
アウグストゥスは皇帝中心の政治形態、帝政を始めたのちも、共和政の形を残しました。 元老院と市民が帝国をチェックする仕組みを尊重したのです。
古代ギリシアの都市国家では、直接民主制が基本ですけれども、古代ローマの社会を特徴づけるのは共和政。 この共和政がローマ国家の発展のカギになっていきます。 ローマの共和政は、ギリシアで見られた独裁政、貴族政、民主政を混合政体として、バランスよく組み込んだものです。
古代ローマ人はギリシアで試みられたさまざまな政治形態を取り入れました。
ギリシアの独裁政は執政官、貴族政は元老院、民主政は民会に引き継がれました。 権力を分散することで内乱を避け、世界帝国として発展・拡大していくことができたようです。
ローマ人は独裁政を嫌っていましたから、オクタヴィアヌスは元老院から、独裁官になることをすすめられても就任しなかったし、それから政務官の最上位にある執政官になることも辞退して、あくまでもこの元老院を立てていた。
オクタヴィアヌスは権力ではなくて権威によって統治を目指しました。 そのことによって、彼はアウグストゥスという称号をもらうわけです。
『権威』を重んじた初代皇帝アウグストゥスの統治から200年間、ローマは『ローマの平和(パックス・ロマーナ)』と呼ばれる最盛期を迎えます。
❻紀元2世紀(帝国の領土は2世紀、トラヤヌス帝の時代に最大)
道路はローマ帝国の隅々まで張り巡らされ、北アフリカ、アルジェリアのティムガッドはトラヤヌス帝によって築かれました。
この遺跡は、整然としたローマ風の街のつくりや建物があったことを、今に伝えています。
ローマ人は、支配した土地に闘技場や共同浴場を建て、異なる民族でもローマと同じ豊かな生活が送れるようにしたのです。 ローマの統治の仕方は総じて寛容でした。 征服地に主要な建築物を建てるだけではなくて、土地の宗教、多くの神々を認め、それから風俗・習慣・言語も強要しない。そういう形でいろんなものを認めたということがあります。
そうした統治がうまくいって200年も続いた『ローマの平和』も『ローマ帝国が衰退』に向かうのは、3世紀の軍人皇帝が乱立した時代でした。 そこでは軍事力や経済力にものを言わせて、共和政の伝統を無視するようになってしまう。 その中で独裁体制も生まれてくる。 それから皇帝の暗殺が相次いで、ローマにおいてはかつて権威が強調されていたのに、権力だけが露骨に出てきた。そういう時代になっていたわけです。
❼紀元3世紀(人々の心をつかんだのが「キリスト教」
キリスト教で救世主とされる『イエス』が生まれたのは、初代皇帝アウグストゥスの時代でした。 イエスはユダヤ教が信仰の中心であったパレスティナで、いきすぎた戒律主義を批判し、『神の愛』と『隣人愛』を説きました。 しかし、ローマに対する反逆者として訴えられ、十字架にかけられます。 弟子たちの間に“イエスこそが救世主であり、イエスは復活した”という信仰が生まれ、キリスト教が成立しました。
❽紀元4世紀(ローマ帝国は東と西に分裂)
西ローマ帝国は『ゲルマン人の大移動』による混乱の中、476年に滅亡しました。キリスト教の国教化や、新しい都の建設をしても、ローマ帝国の解体は食い止められなかった。
ローマ帝国は東西に分裂し、西ローマ帝国は皇帝が廃位されて滅んでしまった。 国家としては確かに解体、あるいは崩壊したと言えるわけですが、その中でキリスト教徒が歴史の舞台に登場してきた。 そういう意味では、社会全体が一つの新たな時代を迎え、文明も新たなものになったと言える農学部卒業かと思います。 ここから中世ヨーロッパが始まるということです。
ローマの偉大さは、これらのことわざに、象徴されます。
Rome was not built in a day.
ローマは1日にして成らず。
All roads lead to Rome.
すべての道はローマに通ず。
When in Rome,do as the Romans do.
ローマにいるときはローマ人のようにせよ。 郷に入れば郷に従え。
どれもローマ帝国の繁栄を象徴することわざばかりです。 これからこれだけのことわざの対象になるような国家・帝国が出現するのでしょうか、期待しています。
(記事投稿日:2021/09/10、#379)
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