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『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった 4』 『謎解きは、世界中に分散・散失したロンゴロンゴ木片の解読から』

2023-01-15 21:24:33 | 歴史・世界・古代

『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった 4』

『謎解きは、世界中に分散・散失したロンゴロンゴ木片の解読から』

『絶海の孤島の歴史「黎明期・隆盛期・衰退期」の変遷から現世界は学ぶべき!』

 

次の前置きは、『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった 3』からの再掲です。

 

ロンゴロンゴの記された24の木片(文字板)が19世紀後半に収集されたが、風雨による損傷や、破損、焼失部分のあるものも多かった。 これらは現在、世界各地の博物館に分散しており、イースター島に残っているものはない。

 

先日、NHK BS『絶海!謎と神秘の巨石文明モアイとイースター島▽21のミステリー徹底究明』再放送(2021/08/26)を見ました。 もし『ロンゴロンゴ』の破損・焼失した過去の、残念な歴史がなければ、こんなに多くの謎が残らず、多くは解読・解明されたことだと思い、残念です。

 

イースター島には『ロンゴロンゴ』と言う不思議な絵文字がありました。 謎の『ロンゴ・ロンゴ』の解読と解明の歴史は? ウエブ情報の抜粋・引用です。

1770
年、
スペインからフェリーペ・ゴンザレスが、イースター島にやって来ました。 そのとき島民は、奇妙な文字でサインしたと言う。 それが「ロンゴ・ロンゴ」です。

しかし、1862年
ペルーの奴隷狩りによって、最後の読み手である、『タンガタ・ロンゴ・ロンゴ』たちも、さらわれ死んでしまった。

 

1864
宣教師ユージン・エイラウドは、島の民家から、いくつかの文字が彫られた木片を発見したと言うが、その後、島民のキリスト教改宗とともにほとんどの、『コハウ・ロンゴ・ロンゴ』のもの言う木は、『悪魔の文字』として焼き捨てられてしまった。 謎の文字となった『ロンゴ・ロンゴ』ですが、根気強い研究によって、文字の読み方は、解明されました。 まず、右上から左へ読み、180度回転させて板の上下を逆にして、下から2行目を右から左へと読む、これを、繰り返すという奇妙な読み方でした。

この文字のルーツは、インダス流域の『古代インド文字』、『アンデス文字』、『エジプト文字』と、諸説入り乱れています。 内容にしても、
  神への祈り
  神官への支持
  鳥に伝わる伝説
  死者の名簿、など様々です。

ロンゴ・ロンゴの文字が刻まれている木片で、現存しているのは、世界でたった28点。 世界各国の博物館などにあるが、イースター島の博物館には、本物は、1枚しかありません。 チリ本土の「サンチアゴ国立自然史博物館」にあるものの複製が、2枚展示されています。 この文字が解明されれば島に残された多くの謎が解明されるかも知れません。

 

ロンゴロンゴの『文字板B』

ウキペデイア情報から引用

数字は何行目かを表す数字。Fin de 13 は「13行目の終わり」という意味

 

バルテルが発表した絵文字の一例 [Jacques B.M. Guy / Public Domain / 出典]

ウエブ情報から引用

イースター島

モアイ1,000体以上、周囲60㎞、休火山3個の火山島、木がなく、川がない、動物もいない。 そのイースター島の21の謎。

 

1.  楕円形の遺跡、と

2.  石垣箱型がセットになっている

3.  石がゴロゴロなのに栄養満点のタロイモ、水分蒸発防いだ

4.  川がないが、5か所の地底湖

5.  黎明期、隆盛期、衰退期 島民のルーツはタヒチ

6.  島民のルーツは台湾?

7.  どうやって渡ってきた、ダブルカヌー

8.  綾取り創世神話、溶岩の中に巨木の化石

9.  未解読文字 ロンゴロンゴ

10. モアイ 面長、ほりが深い、長い爪

11. 頭蓋骨に羽根飾りの跡

12. 超能力             

13. 1000体も量産

14. 運び方

15. なぜ巨大化、全長12ⅿ、巨人21ⅿ、人口2万人で、12世紀3ⅿ座している、14世紀5ⅿ、16世紀10ⅿ、権威誇示

16. 星とモアイの神秘的な関係、モアイの向きとスバル?

17. 衰退原因はネズミ、海鳥の卵

18. 食料危機

19. 人骨に刃物の跡(女性・子供)森林崩壊から100年

20. 希望を託された鳥人伝説

21. ラパヌイ文明滅亡

 

ウエブ情報で備忘録にして今後の課題とします。

 

『15.なぜ巨大化、全長12ⅿ、巨人21ⅿ、人口2万人で、12世紀3ⅿ座している、14世紀5ⅿ、16世紀10ⅿ、権威誇示』

アフ・テ・ピト・クラ

1830年代に西洋人により立っていることが確認された最後のモアイ像で、プカオを含むと高さ12m、重さ90トン以上と、アフの上に立ったモアイとしては最大の大きさである。

『16.星とモアイの神秘的な関係、モアイの向きとスバル?』

島には、約三百基のアフ(モアイを乗せている台座)があり、アフの上に立てられているものは僅かしかなく、殆どが拝めるように台座の正面に設置してありますが、1体だけ、30度以上ズレて設置してあり、作為性があり、その方向は、11月に、プレアデス星団(スバル座)が見える方向で、11月は、回遊魚、渡り鳥のやって来る時期で、収穫の時期でもあり、それを知ったり、祝う為に、ラパ・ヌイ部族の首長が、設置させたと思われています。

※殆どのアフが海岸線に造られ、しかも海に背を向けているのに対し「アフ・アキビ」と呼ばれるモアイ像7体が、島の真ん中に立てられ海の方向に向け立てられ、特徴的な存在ですが、「春分と秋分の日没の方角を見つめていて、天文学的な意味が込められている」と言われています。

 

『17.衰退原因はネズミ、海鳥の卵』

文明の発達で、豊富な森林を切り開き、農地化され、さらに島に渡って来た時、航海中の食料となったナンヨウネズミですが、天敵がいない状態で、ネズミが大繁殖し、木の実などを食べ尽くした為に、約500n年で、豊富な森林が消滅してしまいました。さらに、大きな木が無くなり、カヌーが作れず、豊富な魚を採る事が出来ず、森林が無くなった事で、肥沃な土が、海に流出し、農業も衰退していきました。

 

『18.食料危機』

島内では、食料不足から、部族間の争いが起こり、部族の象徴であるモアイが、、他部族の憎しみの標的となり、倒されたり、顔などが破壊されるようになり、戦いの時代となりました。

 

『19.人骨に刃物の跡(女性・子供)森林崩壊から100年』

島の博物館にある木彫り像はあばら骨が突き出しが、おなかが異常に膨らみ、顔は苦痛の表情を浮かべています。 戦いで食糧を奪えるうちは、未だ良かったのですが、ニワトリ、ネズミなど、食料が食べ尽くされ、それを表現したのが木彫り像と言われ、島の西に「アナ・カイ・タンガタ」と言う洞窟があり、アナは洞窟、カイは食べる、タンガタは人という意味で、つまりは「食人洞窟」を意味しています。 わざと切られたような人骨などがあり、人を食べるしか
ないような状態もあったと思われ、老人、女性、子供など弱者が狙われ、島の人口は、2万人から3000人に減ったと言われます。

 

『20.希望を託された鳥人伝説』

イギリス大英博物館に、19世紀、イースター島から持ち出された唯一のモアイ像があり、特別なモアイ像で、島にあるモアイ像は、ほぼ全てが凝灰岩でつくられていますが、固い玄武岩で作られ、背中に、再生の象徴と言われる鳥のイレズミが掘られています。

部族間の戦いで、イースター島の絶滅寸前迄行き着きましたが超自然的な力である「マナ」を持つ首長信仰的なモノが崩れ新たに、それを超える存在として「鳥人崇拝」が起こり、部族統一機運と重なりました。

 

オロンゴ儀式
オロンゴ儀式村は、島の南西部にあるラノ・カウ火山の頂上にあり、儀式村は海に面した崖の上にあり、「鳥人儀式」が行われていたところで、毎年、部族の中から選ばれた者が、ここから高さ約280mの断崖を駆け下りて、1.5㎞先の島に泳いで渡り、その年、最初の渡り鳥の卵を取って戻ることを部族間で競い、最初に持ち帰った部族の長がその年一年、島を支配するという決まりで、命懸けの行為ですが戦争での大量死を防ぎ、部族統一の合理的な儀式を作りました。 ぎりぎりのところで再生の機運が起こりました

 

『21.ラパヌイ文明滅亡

1722年、イースターの日曜日に、オランダ人提督ヤコブ・ロッヘフェーンに発見されたため、イースター島と呼ばれるようになり、イースター島に黒船が来航し、その後、18世紀19世紀にかけてペルー政府の依頼を受けた外国人が島民が奴隷として連れ出すようになり、1862年に襲ったペルー人による奴隷狩りでは、数ヶ月間の内に当時の島民の半数に当たる約1,500人が島外に拉致され、外部の批判もあり、1863年に誘拐された島民が15人が、島に返されるなどしましたが、それが、逆に外部から天然痘や結核など伝染病を持ち込む事にになり、免疫を全く持たない島民は、壊滅的は被害を受け人口は更に激減し、1877年当時では僅か111人となり、この過程でロンゴロンゴ文字を初めとする文化伝承は断絶し、1888年にチリ政府が島を併合し名前を「パスクワ島」と定めました。

1960
年、チリ沖地震が起こり、アフトンガリキの15体のモアイをアフごと破壊されました。
1964年、 チリ海軍の統治に反対する政治運動がおこり、その結果、文民行政官統治への切り替えと、自治選挙の実施が認められ、1966年に 初の市長選挙が行われました。

1992年には、日本のクレーンメーカー「タダノ」が、アフ・トンガリキの15体のモアイの復帰工事を開始し、1995年に無事終了しました。

 

『「イースター島 21の謎」を見て、ますます謎が深まった!』の残り(1~21)のこれからの調査は、楽しみな今後の課題です。 表題『絶海の孤島の歴史「黎明期・隆盛期・衰退期」の変遷から現世界は学ぶべき!』の通りです。

(記事投稿日:2023/01/15、#620)


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