知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『インカは凄い 2(インカ帝国を支えた5万㎞のインカ道が凄い)』『カパック・ニャン(インカ道・王の道)は、行政・宗教が主目的』

2022-08-19 16:41:34 | 歴史・世界・古代

インカは凄い 2(インカ帝国を支えた5万㎞のインカ道が凄い)』

『カパック・ニャン(インカ道・王の道)は、行政・宗教が主目的』

『行政・軍隊の高速移動のための「ローマ街道」、「日本の五街道』 

インカ帝国は、南アメリカ大陸、現在のペルー、エクアドル、ボリビア、チリ北部を支配し、1200年ごろに成立し、15世紀に最盛期を迎えた国家。 首都はクスコ。 ケチュア族が建てた国であるが、アンデス文明を継承して繁栄して、高度なインカ文明を成立させた。 しかし、新大陸に進出したスペインの征服者ピサロよって征服され、1533年に滅亡した。 

インカ帝国(タワンティン・スウユ・「四つの邦」という意味)

ウキペデイア情報から引用

文字なしで、話し言葉とキープ(結縄・貢物の品とその数量)だけのインカ文明についての今後の勉強のため、ウエブ情報インカ帝国を支えた5万kmの道路網「カパック・ニャン」』から引用、備忘録にさせて頂きました。 

インカ帝国の正式な呼称は、タワンティン・スウユで、ケチュア語で、「タワンティン」とは、「4」を意味し、「スウユ」とは、州、地方、文脈によっては国を表す。 訳すと「四つの邦」という意味である 各地はアンティ・スウユ(東方)・クンティ・スウユ(西方)、コリヤ・スウユ(南方)、チンチャイ・スウユ(北方)と呼ばれた。 首都のクスコからは東西南北の各地方へ向けて4本の王の道が建設された。 

インカ道(英語:Inca road, ケチュア語: Qhapaq Ñan〈カパック・ニャン〉)は、インカ帝国が整備した道路網で、インカの最盛期には、現在のペルー、ボリビアを中心としてチリ、アルゼンチン、エクアドル、コロンビアまで敷設されていた。 ケチュア語のカパック・ニャン とは「王の道」という意味。

ウエブ情報から引用

リャマの通る道

南米では毛織物で有名なアルパカをはじめ日本では見られない生き物が多くみられる。 アルパカと並ぶ代表例の一つにリャマが挙げられる。 体高1mほどのラクダ科の動物であるリャマは、ペルーでは約110万頭が飼育されており、食用にもされるが、主に荷役用として1日に 50kgの荷を20km運ぶことができる。 アンデスの高地では牧民がリャマを飼育し輸送業を生業としており、15 世紀のインカ時代にはほぼ唯一の大量輸送手段であった。 税として納められたトウモロコシやジャガイモを倉庫に運び、軍需品を運ぶため数千頭ものリャマが戦場まで連れて行かれたのである。 しかし、昨今では自動車に押されて、その利用は盛んではないといわれている。 インカ道と呼ばれる当時の道路は、多くのリャマをはじめ旅人や軍隊が行き来していた。 かつてリャマがインカ帝国全域で飼育されていたように、インカ道も国土全域に張り巡らされていた。 その範囲は現在のペルーを含め6カ国に跨り、太平洋岸からアンデスの高地を越え、アマゾンの奥地にまで至る、延長5万kmの世界最大規模の道路網であった。  

場所によってその構造や形状は様々であり、街なかの細い路地から、砂漠を抜ける幅広の道路、急峻な山道に 至るまで多様な姿を見せている。 しかし現在、この道路網は一部を国道等として利用している箇所があるものの、一体的なネットワークとしてはその機能を失っている。 

世界遺産、カパック・ニャン

現在のペルー、ボリビア、エクア ドル等に跨って存在したインカ帝国は、数多くの遺構を残している。 幻の天空都市とも呼ばれるマチュピチュをはじめ、古都クスコなどが世界遺産に数多く登録されている。 インカ道は2014年にペルーで12 番目の世界遺産に選ばれており、王の道を意味し、かつての現地語であるケチュア語の呼称「カパック・ニャ ン(Qapaq Ñan)」で登録されている。 この道は用途に応じて「カパッ ク・ニャン(王の道)」「ハトゥン・ニャン(広い道)」「フチュイ・ニャン(狭い道)」「ルナ・ニャン(庶民の道)」 の4つに区分されていたと言われる。 世界遺産として登録されているカパック・ニャンはこれらの総称で、「広義」のカパック・ニャンである。 このランク分けは、幹線と枝線としての区分だけでなく、利用上も大きな意味を持っており、狭義のカパック・ニャンは、統治や軍事などの公用で主に利用される道であり、一般に広く利用できる道ではなかった。 王の道と呼ばれる由縁である。  

4つの地方を結ぶ十字のネットワーク

帝国の4つの地方は東がアンティスーユ、北西がチン チャイスーユ、南がコリャスーユ、西がクンティスーユと 呼ばれており、クスコを中心にカパック・ニャンがこの4つの地方からなる国土を十字に結んでいる。 日本の五 街道における日本橋のごとく、4本の道の起点(道路元標)はクスコのアルマス広場にあり、各地方の主要都市 を繋いでいた。 

カパック・ニャンは、広大な帝国を一つに束ね繋ぎとめる国土の軸であり、帝国の首都であったクスコからの命令を隅々に行きわたらせるためのネットワークであった。 「血管のように繋がっていた」とはクスコ 文化局の言だが、この道の役割を端的に表現している。 この道路網はすべてがインカ帝国時代に築かれたものではなく、それ以前の道路を吸収統合していったものである。 カパック・ニャンの成立時期は明確ではないが、インカ帝国は15世紀半ばに拡大をはじめ、1532年のスペイン侵略に至るまでの約1世紀が最盛期であり、その間に成立したものと考えられる。

チャスキ、タンボ、コルカ

この道路網には、その機能を果たすため様々な設備や仕組みが備わっていた。 例えばチャスキと呼ばれる公設の飛脚である。 情報を迅速にクスコに届けるためのシステムであり、5kmの 間隔をおいて道沿いに駅が設けられ、そこには常時2名の飛脚が駐在していた。 文字を持たないインカ帝国では、キープと呼ばれる紐の束が情報伝達に使われており、彼らはキープを次から次に引き継ぎ情報を伝えていた。 その速度は駅間を15分、時速20kmに達したとも言われている。 また、タンボと呼ばれる宿場が道沿い30km毎に設置され、皇帝の農地で収穫されたジャガイモなどを収蔵するコルカと呼ぶ倉庫を備え、旅人や兵士に物資を供給 していた。 

まっすぐな道と難所を越える技術

クスコ近郊の標高3600mに残っているカパック・ニャンの一つは、延長約800m、幅4~5mで現在は路面が草に覆われている。 その道は極めてまっすぐにクスコ市街にむかって伸びていることがわかる。 このまっすぐな線形はカパック・ニャンの特徴の一つとされている。 もちろん距離を考えれば道路は極力直線が望ましいが、地形上工事が困難で、急勾配で動きにくくなることもある。 古代の道路であるローマ街道や日本の律令時代の道路も同様に直線が多いと言われているが、これらに比べカパック・ニャンは特に直線性を保ちやすい環境にあった。 それはインカには車輪も馬もなかったことによる。 通行は人やリャマなどの駄獣に限られていたため、道路は勾配を気にせず直線で引くことができ、勾配は階段部分を含め40~80度 まで可能であったと言われている。 また道路の築造には、アンデスの急峻な地形を克服するために様々な技術が用いられた。 凸凹の多い斜面 では山肌を切り盛りして平坦にし、湿地帯を抜けるために周りを石で囲った上で路盤を嵩上げする手法などが用いられた。 橋も多く、狭い川を越える1枚岩の橋や大規模な谷間を抜ける縄で結った橋が造られた。 さらに多くの区間において、ぬかるみを防ぐ石畳舗装 や道路が崩壊しないよう排水溝が備えられていると、ともに、道路の両側に擁壁が設けられている点も特徴である。 擁壁は輸送に用いるリャマの群れが、はぐれたり、転落しないように整備されたものである。 1~2頭であれば問題はないが、数千頭ものリャマを同時に通行させようとした場合、輸送の安全性と確実性を保つためには必要だったのだろう。

マチュピチュのカパック・ニャン(ハトゥン・ニャン) インカの道路築造の技術がわかるのがマチュピチュ周辺である。 マチュピチュはウルバンバ川に三方を囲まれた急峻な丘の上の街であり、宗教都市であったと言われる。 クスコからアマゾン地方に抜ける場所に位置しており、ウルバンバ川はアマゾン川に合流し最終的に大西洋に注ぎ込む河川であるため、クスコからみると下流側にあたる。 マチュピチュには複数のカパック・ニャンが通り、現在、一部がマチュピチュに至るトレッキングコースとして旅行者に利用されている。 これらは広義のカパック・ニャンであり、ランクとしては狭義のカパック・ニャンの下のハトゥン・ニャンにあたる。 そのうちインカ橋と通称される箇所に至る一本は、まさに山の中腹の断崖絶壁に整備された道であり、一見するだけで当時の工事の厳しさを想像することができる。 この道では、基礎部分は自然の山肌を利用しており、自然石の上に加工した石材を積み上げて絶壁での道路空間を確保している。 この自然石と加工した石材を組み合わせる技法は、マチュピチュの遺跡の中やアンデネス(段々畑)でも使われており、インカの石加工の技術があってこその道であると言える。 この断崖の道は、山の中腹を同程度の高さで貫いて造られているため、山を上り下りして越えるよりもはるか に通行は容易だったはずである。 マチュピチュは山の上 につくられた都市であり、今では専用バスでつづら折りの山道を登らないと辿りつけない。 しかし山中に造られた街道から来る人は、街より高い位置にある入口から入ることになる。 往時の帝国の人々が見たマチュピチュは山の上に見上げる都市ではなく、カパック・ニャンから 眼下に見渡す都市だったのだ。 

カパック・ニャンのその後

インカ帝国を支えてきた広大な道路ネットワークも、 スペイン統治時代の文明の変化に抗しきれずその姿を変容させていった。 スペインは侵略の際にこの道路網を通行し、道々のコルカの物資を活用したが、征服後は そのシステムを引き継がず、チャスキやタンボなどのカパック・ニャンの持つシステムは帝国の崩壊とともに失われていったのである。 さらに車輪や馬の導入により、徒歩やリャマでの行き 来を前提としていたカパック・ニャンは利用できなくなっていった。 システム面でも交通手段でも利用に適さなく なった道路ネットワークは失われ、代わって新たに車輪や馬、そして自動車での移動を前提とした道路ネットワークがその役割を担うようになっていったのである。   

かつて重要な都市であったマチュピチュが幻の 都市となったのも、道路ネットワークの変化に取り残されたためではないだろうか。 現在でもマチュピチュにはクスコなど周辺の地域から自動車では行けず、アクセス手段はカパック・ニャンか20世紀に入ってから敷設された鉄道に限られている。  しかし世界遺産の登録以降、カパック・ニャンの復活に向けた取り組みが関係諸国により進められている。 それは道路の調査や補修、吊り橋の架け替えといった整備だけでなく、ファエーナと呼ばれる共同作業による道路の清掃活動やチャスキを模したレースの開催など、文化的な側面にも、積極的に取り組んでいる。 

道路をはじめとした人々の生活に関わりの深い土木遺産は、その背景としての歴史や伝統習慣も含めた、渾然一体の遺産なのだろう。 カパック・ニャンでもこのような取り組みにより、その価値を一層高めていくことは間違いない。 マチュピチュやクスコを訪れるなら、目の前の遺跡や景色だけでなく、ぜひ足元にも思いを馳せてみていただきたい。 

とありました。 このインカ帝国(タワンティン・スウユ・「四つの邦」)とインカ道と調べながら、古大陸にはない、重量200-300トンの石材の『切り出し・運搬方法・組み立て方法』を探ってみたいと思っています。

(記事投稿日:2022/08/19、#562)


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