知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『絶世の美女「クレオパトラ7世・正式名称」は、どれほど凄かったか!』 『ローマ帝国の二人の英雄「カエサルとアントニウス」と政略結婚した美女!』

2022-02-05 10:45:51 | 歴史・世界・古代

『絶世の美女「クレオパトラ7世・正式名称」は、どれほど凄かったか!』

『ローマ帝国の二人の英雄「カエサルとアントニウス」と政略結婚した美女!

 

先ずは、世界の三大美女(世界版)

  • 一人目 クレオパトラ7世、頭が良く才能溢れる女性、美人薄命(短命)
  • 二人目 楊貴妃、内戦を引き起こすほどの美女、美人薄命(短命)
  • 三人目 ヘレネ、神との間の子供(伝説?)、美人で天寿全う 

世界の三大美女(日本版)

  • 一人目 クレオパトラ7世、世界版と同じ
  • 二人目 楊貴妃、世界版と同じ
  • 三人目 小野小町、才色兼備、晩年は各地を放浪し、最期は不遇

クレオパトラ7世の凄さは、昨今のジェンダーギャップ(男女格差)など思いもよらないものです。 

❶大国エジプトを統率したリーダーシップと大ローマ帝国との外交力、

❷ローマ帝国の二人の英雄と政略結婚した人心掌握力、

❸女王としての行動範囲の広さ(エジプト・トルコ・ローマに住む)と、

二人目の楊貴妃とは好対照です。 

日本では、歴史上の英雄になる人物は、アイヴァン・モリス氏の著書『高貴なる敗北』にありますように、日本史の中で悲劇的な死を迎えた九人を、取り上げています。 この『判官びいき』に見えるような見方が、『世界三大美女』のトップ二人にも在りそうです。 人間の人情は世界共通のように思います。

 

余談が長くなりました。 表題の『絶世の美女「クレオパトラ7世」は、どれほど凄かったか!』に戻ります。 

クレオパトラ7世頭部(紀元前40年頃、ベルリン美術館蔵)

ウキペデイア情報から引用 

クレオパトラ(正式名称はクレオパトラ7世)は、世界三大美女の一人で世界の歴史上で最も有名な女性。 エジプト・プトレマイオス朝の最後のファラオ(王)です。

カエサル(Caesar=英語での読み方はシーザー)、アントニウス(Antonius)というローマ帝国の二人の英雄と結婚したことでも知られています。


クレオパトラの主な年表

エジプトの王家に生まれたクレオパトラは、紀元前69年エジプトのアレクサンドリアにて、父プトレマイオス朝ファラオのプトレマイオス12世と母クレオパトラ5世の元に生まれました(ちなみに母と父は兄妹で結婚しています)。

紀元前69年

エジプトのアレクサンドリアでプトレマイオス朝王家に生まれる

紀元前51年(18歳)

8歳年下の弟プトレマイオス13世と結婚してファラオになる

紀元前48年(21歳)

アレクサンドリアでカエサルと出会う

紀元前47年(22歳)

カエサルとの間に息子カエサリオンが誕生

紀元前44年(25歳)

カエサリオンをプトレマイオス15世として再びエジプトの共同王位に

紀元前41年(28歳)

アントニウスと出会いトルコで結婚

紀元前31年(38歳)

ギリシャ・アクティウム海戦で大敗し、アントニウスの後を追って死亡

また、フランスの有名な哲学者パスカルは、著書『パンセ』の中で、歴史におけるクレオパトラの活躍を称して以下のような名言を残しています。
Cleopatra's nose, had it been shorter, the whole face of the world would have been changed.クレオパトラの鼻が低かったら、全世界の様相は違ったものになっていただろう

クレオパトラ7世を中心にアレキサンダー大王、カエサルまでを巻き込んだ『オリエンタル三国志』には興味が尽きません。 このままでは終わらない、偉大な女性『クレオパラ7世』の、今後の調査のために、『ウエブ情報を抜粋・引用』しました。 (『ローマは一日にして成らず』のローマのリーダーたちと互角に渡り合ったクレオパトラ7世の偉大さを理解したく『外伝』を以下の備忘録に残しました。)  

『クレオパトラの強い運命
市民に溶け込むためにエジプト土着の宗教を信仰したりしましたが、共同王位についていたプトレマイオス13世の不信を買い、またクレオパトラはローマ主義であったため市民からの反乱にも遭いシリアに追放されます。

紀元前48年21歳の時、クレオパトラはエジプト東部国境の町ペルシウム(ペルシオン)で交戦の為に備えます。 そこに、ローマ内戦のファルサルスの戦いに敗れポンペイウスがカエサルから逃げてきますが、彼はエジプトにたどり着く前にプトレマイオス13世の部下によって殺されてしまいます。

しかし、そこでポンペイウスを追ってやってきたカエサルがアレクサンドリアに上陸するのです。

カエサルとの出会い

紀元前48年、カエサルはクレオパトラとプトレマイオス13世の和解を取り持つために、アレクサンドリアで仲介しようと試みます。しかし二人は戦闘状態であったため、クレオパトラはアレクサンドリアに入る事が難しい状況でした。

そこでクレオパトラは自身を絨毯に包ませ、カエサルへの贈り物となりカエサルの元に参上することに成功します。こうして二人は出会いました。   カエサルは、絨毯の中から出て来たクレオパトラに驚くとともに魅了され親密な仲になりました。

ウキペデイア情報から引用  カエサルの前へ現れるクレオパトラ、ジャン=レオン・ジェローム画、1886年

カエサルはクレオパトラとプトレマイオス13世を和解させますが、この和解も15日間しか続かず、プトレマイオス13世がカエサル軍に攻撃を仕掛けたため、カエサル率いるローマ軍は紀元前47年にナイル川の戦いでプトレマイオス13世を死に追いやり制圧しました。プトレマイオス13世はナイル川で溺死したと言われています。

息子カエサリオンの誕生とカエサルの死

その後、クレオパトラはもう一人の弟プトレマイオス14世と再度姉弟婚をし、共同統治を行います。しかしこれはカエサルの後ろ盾によるもので、実際はクレオパトラがほぼ単独で統治をしていました。 その上、紀元前47年には、カエサルとの子であるカエサリオンが産まれます。

紀元前46年23歳の時、カエサルがローマの独裁官に任命されて凱旋式を行った頃、息子のカエサリオンと共にローマへ渡り密かに滞在します。

しかし、愛人であり後見人であったカエサルが紀元前44年にブルータスらの共和派に暗殺されると、急遽逃げるようにエジプトに帰国しなくてはならなくなりました。

紀元前44年25歳の時にエジプトに戻ったクレオパトラは、夫のプトレマイオス14世の死後、後継者として小さな息子のカエサリオンをプトレマイオス15世に襲名させ再度共同統治を行いました。

一方、カエサルの甥っ子で養子であったオクタウィアヌスとマルクス・アントニウスとレピドゥスは三頭政治をとり、カエサルを暗殺したブルータスらの共和派を討伐するのですが、クレオパトラはブルータスらの共和派を支援していました。

紀元前42年、三頭政治派はマケドニア属州に逃げていていたブルータスらの共和派をフィリッピの戦いで破り、
ローマ帝国は西を制したオクタビアヌスと東方世界を受け持ったアントニウスという実力者2人によって実質的に分割統治されることになります

アントニウスとトルコ南部の街で結婚
紀元前41年、アントニウスは東方での力を維持するため、また軍事費のためにエジプトの豊富な資源を目当てにエジプトと組もうと画策します。

共和派を支援していたクレオパトラの出頭を名目として、アントニウスが居を構えていた現在のトルコ南東部キリキアの首都タスソス(現メルスィン県タルスス)にクレオパトラを招待します。

クレオパトラは失った土地を取り戻すための好機と捉えこの招待を受け入れ、アレクサンドリアから豪華な船でアントニウスの元へ向かいます。 その際クレオパトラは、まるで女神のような姿に着飾っていたと言われています。

現れたクレオパトラを見てアントニウスは魅了されて惚れてしまいます。アントニウスのハートを射止めたクレオパトラはトルコ南部の街アンティオキア(現在のハタイ県アンタキア)でアントニウスと結婚式を挙げます。

このようにエジプト女王のクレオパトラは、実はトルコにも来ていたのです。クレオパトラがタルススに入る際にくぐった門は「クレオパトラ門」として今でも残っています。

ただ、アントニウスにはローマ人の妻がいました。勢力を二分するオクタウィアヌスの姉オクタウィアです。アントニウスは今で言う重婚の罪を犯したのです。

このアントニウスの行為は、義兄オクタビアヌスを怒らせたばかりか、アントニウスとクレオパトラに対するローマ人の反感をも募らせました。このアントニウスとクレオパトラの傍若無人とも思える行動が、後の2人の悲劇に繋がっていくのです。
 

妹アルシノエ4世の暗殺

なお、クレオパトラはアントニウスに頼んで、クレオパトラの脅威となっていた、エフェソスで幽閉されていた妹のアルシノエ4世を殺させています。

アルシノエ4世はアルテミス神殿の神官により当時不可侵であった神殿内に避難していましたが、不可侵を破ってアントニウスが神殿の階段で彼女を殺したと言われています。

エフェソス遺跡の中央ケルスス図書館の前、丘の上の住宅の前には八角形のオクタゴンと言われる墓があり、そこから15~18歳の遺骨が見つかっています。

その後のDNA鑑定から、北アフリカの血を引く女性であることが解っているため、恐らくこれがアルシノエ4世の遺骨ではないかと言われています。

アントニウスとの新婚旅行でアテネへ

アントニウスとトルコで結婚したクレオパトラはアテネまで新婚旅行に出かけます。そして、紀元前39年には二人の間にアレクサンドロス・ヘリオスと言う男の子とクレオパトラ・セレネと言う女の子の男女の双子が、紀元前36年にはプトレマイオス・ピラデルポスという男の子も誕生します。

さて、クレオパトラにぞっこんのアントニウスですが、ローマ帝国の一部であったトルコ南部を彼女にプレゼントしてしまいます。

紀元前33年、アントニウスとクレオパトラはトルコのエフェソスで冬を過ごし、年が明けるとアントニウスは妻オクタウィアと正式に離婚します。こうした振る舞いはローマ人の怒りをかき立てる結果になってしましました。

アレクサンドリアでの最期|クレオパトラの死因は毒蛇

一方のローマにいるオクタウィアヌスはアントニウスを追い落とすチャンスと捉え、大軍を率いてアントニウス・クレオパトラ連合軍に戦いを挑みます。これが、紀元前31年の「ギリシャ・アクティウムの海戦」です。この戦いでアントニウス・クレオパトラ軍は大敗を喫します。

アレクサンドリアに逃げ帰ったクレオパトラは「私は死んだと伝えて」と言い神殿に隠れてしまうのです。その言葉を真に受けたアントニウスは毒をあおって自殺。

その10日後にクレオパトラも毒蛇に身を噛ませ、アントニウスの後を追ってこの世を去ります。クレオパトラの死により、プトレマイオス朝は終焉となりました。

世界でも知らぬ人がいない程有名な歴史上の人物であるカエサルとクレオパトラとアントニウス。同時代に生き、権力と誘惑が導いたのは滅亡でしたが、3名とも後世に残る程、熱く人生だったのかと思います。

クレオパトラの死後、息子は処刑・病死

ちなみに二人の死後、クレオパトラの長男であるカエサルとの子カエサリオンは、オクタウィアヌスにより処刑されてしまいます。そして、アントニウスとの子、双子の男の子アレクサンドロス・ヘリオスと最後に生まれたプトレマイオス・ピラデルポスは直ぐに病死してしまいます。

クレオパトラの子孫は残っている?

一方、クレオパトラの双子の女の子クレオパトラ・セレネ2世はローマに連れて行かれ、アントニウスの前妻でオクタウィアヌスの姉であるオクタウィアが育て上げ、後にローマの名門家に嫁ぎました。

クレオパトラと浮気されたのちに一方的に離婚を突き付けられたにもかかわらず、遺児となったアントニウスとクレオパトラの子を引き取って養育したオクタウィア…かなり懐が深い女性だったのでしょう…。

クレオパトラ・セレネ2世はユバ2世との間にプトレマイオス・トロメウス(男子)とドルシッラ(女子)の2人の子どもを授かっているため、クレオパトラの血はエジプトではなくローマの地で受け継がれているのかもしれません。

 

クレオパトラの墓はどこにある?

クレオパトラの墓はまだ見つかっていませんが、アントニウスとともにアレクサンドリアの西方にある神殿跡付近に埋葬されているのではないかと目され、発掘作業が続けられています。

一説には、クレオパトラとアントニウスは自分たちの墓が時の支配者たちに荒らされるのではないかと恐れ、見つかりにくい場所に隠したのではないかと考えられているようです。

クレオパトラとアレキサンダー大王の関係! 

ギリシャ人がエジプトを300年間統治

プトレマイオス朝は、3000年続いた古代エジプトの最後の王朝です。 実は、この王朝を創始したのはエジプト人ではなく、マケドニア出身のギリシャ人でした。 プトレマイオス朝は、首都を歴代のエジプト王朝の首都であったテーベやルクソールではなく、アレキサンダー大王によって新しく建設された地中海沿岸の港町“アレクサンドリア”に置き、何千年もの伝統を打ち破ったのです。 そして、この王朝第20代目ファラオのプトレマイオス12世の娘であるクレオパトラが、プトレマイオス朝の最後のファラオとなりました。

アレキサンダー大王がエジプトを征服

紀元前3世紀後半、エジプトはペルシャに10年間支配されていました。
アレキサンダー大王(紀元前356〜323年)はマケドニア・ギリシャ軍を率いて東方遠征に出発し、ダレイオス三世率いるペルシャを破った直後の紀元前332年にエジプトに迎え入れられます。そして、エジプトに到着したアレキサンダー大王は、メンフィスのプタハ神殿にて戴冠しファラオになり、エジプトを統治するようになりました。また、すぐに港町“アレクサンドリア”を建設させます。

しかしアレキサンダー大王は、新しい世界を征服するためにすぐにエジプトを去ってしまったため、その後はエジプトを大王の将校達ギリシャ・マケドニア人が統治する様になるのです。

紀元前323年6月アレキサンダー大王が若くして急死してしまいます。 当時大王には後継者として唯一、精神障害のある異母兄のフィリッポス3世、それと大王の妃ロクサネのお腹の中の子アレキサンダー4世がいるのみでした。 大王死後はフィリッポス3世と赤子のアレキサンダー4世が共同統治することになり、大王の将軍達が後見人となりましたが、他の将軍達はそれを認めず権力闘争が起こり、後継者戦争“デォアドコイ”が勃発しました。

三国時代 アレキサンダー大王の帝国を分割

アレキサンダー大王が作った帝国の領地から3つの偉大な王国が誕生しました。

1)ギリシャ本土のマケドニア

2)トルコ(アナトリア)とメソポタミアのセレウコス朝

3)エジプトとキレナイカを含むプトレマイオス朝

マケドニア貴族ラゴスの息子であり、アレキサンダー大王の友人で側近であった将軍プトレマイオス1世は、ディアドコイ戦争に勝ち抜き、紀元前305年にエジプトのプトレマイオス朝最初のファラオになります。
プトレマイオス朝の領土には、エジプト、リビア、およびシナイ半島が含まれ、プトレマイオス1世と彼の子孫は、紀元前30年まで約300年近くの間これらの地を統治したのです。

アレキサンダー大王が作った帝国を受け継いだ3つの偉大な王国は、紀元前3世紀から2世紀にかけて権力を争いました。 
プトレマイオス朝は、地中海東部のギリシャの文化の中心地とシリア・パレスチナの二つの地域に領地を拡大しようとし、象、船、訓練された戦闘部隊などの新しい技術兵器を使い幾つかの価値のある戦闘が行われました。 インドから用いられた戦象は、実質的にその時代の戦車の役割をもっており、あらゆる戦略に使われていました。

また海戦においては、甲板スペースを拡大する双胴のカタマラン構造で造られた船を持つ海兵隊艦隊が活躍しました。

プトレマイオス朝の下での生活
プトレマイオス朝では、支配層はギリシャ人、被支配層がエジプト人と言う構造となり、300年間支配していた代々のファラオ達はギリシャ語を話しておりエジプト語を知らなかったと言います。クレオパトラのみがエジプト語を話せたそうです。

プトレマイオス朝のファラオは、ギリシャの古代オリンピックと同等の地位を与えられていた“プトレマイエイア際”と呼ばれる祭祀など、豪華なヘレニズム的なイベントを開催していました。 プトレマイオス朝王家の結婚には、姉アルシノエ2世と結婚したプトレマイオス2世から始まった兄弟姉妹結婚と、一夫多妻制の両方で確立されていました。これらの慣行はファラオの継承を固めることを意図したものだと言われています。

プトレマイオス朝の崩壊

首都アレクサンドリアの富と豊かさに対して市中では飢饉、横行する物価沸騰、そして腐敗しきった地方公務員による圧的な行政システムが蔓延っていました。この不調は、紀元前2世紀後半から紀元前1世紀初頭まで続き、プトレマイオス朝に対して不満を現したエジプト国民の不安は、ストライキ、神殿の略奪、武装強盗攻撃などの非行の形となり、一部の都市は完全に放棄されました。この様に、領土の縮小、反乱の多発、王室の内紛などのため王朝は徐々に衰退へと辿ります。

これと同時に、ローマとの関りが拡大されていき、ローマはアレクサンドリアで権力を広げていきました。長期にわたったプトレマイオス6世と8世の兄弟間の争いはローマによって仲裁され、プトレマイオス12世に対するアレクサンドリアの反乱はローマによって解決さると共にエジプトはローマの保護国となり、またプトレマイオス8世は彼の意志で彼が支配していたキュレネ王国をローマに譲渡しました。

プトレマイオス朝の最後のファラオとなったのは、あの有名なクレオパトラ7世(治世紀元前51〜30年)です。ローマのカエサルやマルクス・アントニウスと同盟を結びますが、最後には自殺し、エジプトの支配権はローマ帝国初代皇帝となるアウグストゥスに引き渡され、プトレマイオス王朝は終焉しました。
因みに、その後のエジプトでのローマの支配は西暦395年まで続きました。

トルコにあるクレオパトラとアントニウスゆかりの場所
クレオパトラはアントニウスとの新婚旅行の途中、地中海沿いのトルコ各地に立ち寄ります。そうした各地は現在リゾート地となっていて、アランヤ (アンタルヤ県) のクレオパトラビーチ、ダラマン(ムーラ県)のクレオパトラ・ハマム等、クレオパトラの名を冠した場所がいくつも残っています。

トルコのリゾート地は日本ではあまり馴染みがないかもしれません。ですが、ヨーロッパの人々には有名で、温暖な気候を求めて長期滞在客が地中海沿岸都市やエーゲ海沿岸都市に引っ切り無しに訪れます。

また、パムッカレの遺跡が沈んでいるアンティーク・プールも別名“クレオパトラ・プール”と呼ばれ、クレオパトラが泳いだと言われており、こちらも人気の観光場所になっています。

トルコエーゲ海に浮かぶクレオパトラ島

クレオパトラとアントニウス所縁の場所として、もう一つ有名なのが“クレオパトラ島”と呼ばれるエーゲ海地方南東のリゾート地マルマリスの北16㎞のギョコヴァ湾に浮かぶ島です。現在の名は「セディル島(Sedir Adası)」と言います。

この島の北西部に“クレオパトラビーチ”と呼ばれる、黄金色と例えられているほど綺麗な砂浜で有名なビーチがあります。言い伝えによると、このビーチでクレオパトラとアントニウスが泳いだと言われ、実はこの砂浜の砂はクレオパトラがエジプトから船で持ってこさせた北アフリカの、しかもエジプトにしかない砂と言われています。

現在このビーチは国内外から大変人気で、有料で海水浴を楽しめますが、ここの砂を持ち去ることは固く禁止されています。この島にはその他に、ローマ時代の遺跡や、ビーチなど楽しめる所も多くあります。

また、この島がある湾の北部のボンジュック(Boncuk)湾は、世界でも有数のメジロザメの繁殖地としても有名です。

アントニウスからの結婚記念の贈り物

あまり知られていないことなのですが、トルコの西部ペルガモン(現ベルガマ)はエジプトのアレクサンドリアと並ぶ古代世界の学術都市でした。その図書館は20万冊の図書を蔵していたと言われていますが、クレオパトラの求めでアレクサンドリアに送られます。

ところがアレクサンドリア到着後に火災で焼失してしまうのです。 今残っていれば貴重な学術資料になっていただけに大変残念なことです。 


ちなみに、このペルガモン図書館はアレクサンドリア図書館と競っていました。ペルガモンはアレクサンドリアの学問の中心地としての立場を脅かす存在だったため、アレクサンドリアはペルガモン人達がより多くの書物を作らない様にとパピルス(古代エジプトで使用されていた紙)の輸出を止めてしまいます。そしてペルガモン人がパピルスに代わる物として発明したのが“羊皮紙(parchment)”でした。

 

共和制ローマの英雄カエサル(Caesar)
「ブルータス、お前もか!(et tu, Brute?)」のセリフで有名な共和制ローマ末期の執政官「ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar)」。 この名前はラテン語での読み方で、英語読みでは「ジュリアス・シーザー」とも呼ばれています。

クレオパトラに魅了された一人でもあるカエサルですが、軍事家としても政治家としても文筆家としても秀でており、共和制ローマから帝政ローマへと転換させる基礎を築きました。 そんなカエサル、実はトルコとも多くの関わりがあるのをご存知ですか?

実は、アナトリアに何回か足を運んでいるだけでなく、あの有名な言葉もトルコの地で残しているのです!彼の生涯や功績は膨大ですので、ここでは生涯を辿りながら気になるポイントをかいつまんで簡単に解説します!ローマの英雄がどのようにトルコと関わっていたのか、時々出てきますのでお見逃しなく!

名門ユーリウス氏族カエサル家で誕生

カエサルは、紀元前100年にローマにて父の大カエサル(カエサルと同名ガイウス・ユリウス・カエサル)と代々執政官の名家出身の母アウレリア・コッタの間に誕生しました。父の大カエサルはローマのアジア属州、いわゆる西アナトリア地方の属州総督を務めた人です。トルコ語でユリウス・カエサルは「Jül Sezar(ジュル・セザル)」と言います。

青年期のカエサルは叔母の夫すなわち外伯父のガイウス・マリウス(大マリウス)筆頭とする民衆派を支持しており、当時対峙していたルキウス・コルネリウス・スッラ筆頭の閥族派との間と争いが絶えない状態でした。そんな中、紀元前86年に大マリウスが死去し、続いて紀元前84年16歳の時に父・大カエサルが急死したため、カエサルはユリアス家の家長となります。

紀元前83年17歳の時、カエサルは貴族パトリキのコルネリウス氏族キンナの娘コルネリアと結婚し神祇官となります。しかしこの直後に対峙派閥のスッラがローマを制圧して終身独裁官に就き、対立する民衆派を徹底粛清し始めるのです。民衆派リーダーであった外伯父大マリウスについていた血縁でもあるカエサルも当然その処刑リストに載ることになります。

ただ、カエサルは当時18歳で政治活動をしておらず周りの助命懇願もあり、スッラは処刑リストからカエサルを外します。カエサルは命拾いをしますが、追ってから逃れる為に亡命することにしました。

アナトリアへ亡命

紀元前81年、カエサルはトルコのアナトリアに亡命し西アナトリアのローマアジア属州のマルクス・ミヌキウス・テルムスの元で軍務に就きます。 その後、現トルコの北西マルマラ地方にあったビテュニア王国のニコメデス4世の元で長きに渡り滞在するのです。

紀元前78年にスッラが死去したことにより、カエサルはローマに帰還し、下町のスブラ地区で簡素な家で生活しながらも、弁護士として恐喝や汚職で悪名のある属州総督や執政官等を弁舌で告発し一躍有名になります。

彼の穏やで細やかな声と興奮したジェスチャーでの弁舌は並外れた物であったと言います。そして、紀元前75年、25歳の時に弁舌をより優れたものにするために、キケロの師匠でもあるアッポロニウス・モロンより師事を受ける為にロドス島に渡ります。

亡命の際にアナトリアの地中海沖で海賊捕虜に!
カエサルがロドス島へ向かう為エーゲ海を渡っている際に、アナトリア東地中海地方のキリキアの海賊に襲われ、エーゲ海西アナトリア近くのフォルモコニシ島で捕虜となってしまいます。海賊は身代金として金20タラントを要求しようとしますが、カエサルは「20タラント程私は安くない。50タラントを要求しろ」と海賊に自身の重要性・価値を見せて簡単に殺せない様に策略します。

20タラント程の価値だと殺してもまた次の代わりの貴族を捕まえれば良いと身代金が払われるまでに海賊の気分で殺されかねないので、他にこの額の身代金がつく代わりの捕虜はいないと見せて簡単に殺されないようにしたのです。

また、海賊が身代金を要求するローマも50タラントの価値の捕虜と聞けば、名門貴族だろうと媚を売る為に支払いに名乗りを上げる者が数多く出てくることを見込み、ただ払えない程の額で逆に殺されてしまっては意味がないので、払える程度の50タラントに自身の身代金を吊り上げたと言われています。

囚われている38日間は捕虜でありながら全く臆することなく常に強気で、「生きて帰ったらお前ら全員殺してやる」と罵っていたと言います。

身代金50タラントが支払われ自由の身になると、一番多くの身代金を手配した西アナトリアのミレトス市に行き軍艦と船員を借りて海賊たちを捕らえ、海賊たちから略奪した財宝から身代金分の50タラントをミレトスに返還します。

捕らえた海賊たちはベルガマの牢獄に収容され、カエサルはアジア属州総督に海賊たちの死刑を要求しますが、属州総督は死刑を拒否し奴隷として売る事にします。その為カエサルは、海賊たちを自身で磔にして処刑してしまいました。
 

出世・キャリアの道を歩き始める

ローマに戻ると軍司令官・幕僚に選任され、セルトリウス戦争やスパルタクスの反乱(第三次奴隷戦争)などを経験し、紀元前69年に財務官に就きヒスパニアへ赴任します。なお、この年に叔母で大マリウスの妻であるユリアと妻コルネリアを亡くしてしまいます。

財務官任期が終わりローマに帰り、スッラの孫娘で裕福なポンペイアと結婚し、彼女の財産を惜しみなく買収や陰謀等の野望の為に使うのです。そして紀元前65年35歳の時に祭祀や公共事業を取り仕切る職務である上級按察官に就任し、紀元前63年には最高神祇官に立候補し当選を果たし、遂にレギア(公邸)に住む身分になります。

紀元前61年39歳の時には、ヒスパニア・ウルステリオル属州の属州総督に任命され、ローマ軍を従えてルシタニア族とガラエキ族を討伐し、ローマに服属させます。

紀元前60年40歳で、グナエウス・ポンペイウスと共に執政官であるコンスルに当選しますが、ポンペイウスは既にオリエント征服で武勲を上げており市民からも英雄として人気を誇っているのに対し、カエサルは民衆派としてそれなりの人気はありましたがこの時点で特に実績を持っていませんでした。

ローマの大富豪・財界トップで政治経済力のあるマルクス・リキニウス・クラッススから大きな負債を行い、クラッススをカエサルの最大債権者とします。そして彼をカエサルの政治に引き込むのです。

カエサルは政治バランスをとる為に、ポンペイウスとクラッススは犬猿の仲であり宿敵同士でありましたが、カエサルが仲介して三者で政治同盟を組むことに合意させることに成功します。民衆支持を持つカエサル、軍事力を持つポンペイウスと、経済力を持つクラッスス3者の第一回三頭政治を行います。

カエサルの軍人としての活躍 ガリア戦争

紀元前59年コンスルの任期が終わると、翌年紀元前58年42歳の時、前執政官プロコンスルとして既にローマ支配下であるバルカン半島西部のイリュリア、アルプス以南の北イタリアにあたるガリア・キサルピナ属州、ローマ属州となっていなかったガリア・トランサルピナ地方(アルプス以北)の属州総督の任に就きます。

そしてカエサルは5年間の軍事指揮権インペリウムを元老院から委ねられ、ここを拠点として現在のフランス・ベルギー・スイスに当たるガリア地方にすむゲルマニア人討伐のためにガリア戦争に突入します。

紀元前51年まで8年にも及びガリア戦争を行い、最終的にガリア地方全域を征服し、共和制ローマへの属州化に成功するのです。この戦争により、カエサル自身実績を積んで権威を高め、莫大な戦利品により財産を蓄えました。また、長年の苦楽を共にした将兵たちは、カエサル個人に忠誠心を誓うようになり、私兵軍団を形成するまでになりました。

ローマ内戦へ「賽は投げられた」
紀元前53年には、クラッススがパルティアでアルケサス朝シリアとのカルエラの戦いで戦死してしまったため三頭政治は崩壊してしまいます。そして、名声高まるカエサルの勢力を恐れたローマの元老院派はポンペイウスと結んでカエサルと対抗する姿勢を強めるのです。

紀元前49年カエサルにガリア属州総督解任および本国召還の命令が下ります。しかし、1月10日カエサルは命令に従わず配下の軍を率いて、当時のイタリア本土と属州ガリア・ピサルピナとの境界となっていたルビコン川を渡ったことにより、ポンペイウス及び元老院派との内戦へ突入することとなりました。

ルビコン川はローマの北の防衛線であった為、軍を率いてルビコン川より南へ向かうことは法により禁じられており、これに背くことはローマに対する反逆とみなされることになります。

このルビコン川を渡るとき、カエサルはもう後戻りはできないと言う意味であの有名な「さあ進もう。神々の示現と卑劣な政敵が呼んでいる方へ。賽は投げられた(Alea iacta est)」と言う言葉を残しています。

ポンペイウスは自身の勢力基盤であるギリシャへ移り、その際彼についていた殆どの元老院たちが彼と共にローマを離れたので、カエサルはローマを制圧しイタリア半島の実質支配権を掌握することに成功します。

そしてヒスパニアとマッシリア(マルセイユ)の元老院を制圧し地中海西部を固めた後、ポンペイウスを追ってギリシャに上陸し、紀元前48年8月9日ファルサルスの戦いでポンペイウスに勝利します。その際ポンペイウスはエジプトに逃避したため、カエサル軍もこれを追いエジプトに向かいます。

しかし、ポンペイウスはエジプトのアレクサンドリア上陸前にプトレマイオス13世の側近により殺されてしまいます。その後、ポンペイウスを追ってやって来たカエサルはアレクサンドリアに上陸し、ここで “クレオパトラ”に出会いました。

カエサルのあの有名なセリフはトルコの地で!

半年以上アレクサンドリアに留まっていたカエサルのもとに、ローマ内戦を機にローマに対して挙兵していた小アジア(アナトリア) 黒海地方東部ポントス王国のファルナケス2世を討伐する為にカエサルが派遣していたローマ軍が敗北した旨、そしてポントス王国軍が古代グルジア王国コルキス、アルメニア、カッパドキアまで勢力を拡大した旨の知らせが届くと、カエサルはエジプトを出発しアナトリアへ向かいます。

カエサル率いるローマ軍はシリアから北上してキリキアを通り、紀元前47年8月2日アナトリア黒海地方のゼラ(現在トカット県ジレZile)でポントス王国のファルナケス2世の軍と対峙し、このゼラの戦いに4時間で圧勝しまうのです。

この勝利に際しカエサルは、ローマにいる腹心ガイウス・マティウスと元老院に宛てた戦勝報告書にて「来た、見た、勝った(Veni, vidi, vici.) 」とあの名言を記したのです。

文筆家としても才能のあるカエサルが、戦いの激しさと速さをずばりと簡潔に伝え、後世までしかも世界的に残ることになる有名なこの言葉は、トルコの北部アナトリアの現トカット(Tokat)の地で書かれたのです!


終身独裁官就任、そして暗殺

紀元前46年~紀元前45年まで北アフリカやヒスパニアに残っていた反対派元老院を制圧し、ローマ内戦がようやく終わります。ここで確固たる支配権を得たカエサルは様々な共和制改革を行います。

紀元前45年2月に終身独裁官に就任し、権力一点集中型の帝政ローマへの基礎を作ります。ただ、カエサルは絶対権力者的な独裁色の濃い言動を取る様になり、これに対して共和制崩壊の危機を感じた共和制主義者達が動くことになってしまいます。

紀元前44年3月15日、カエサルは元老院への出席の為にポンペイウス劇場に到着し、会場に向かっている際、劇場に隣接する柱廊にてマルクス・ユニウス・ブルトゥスやガイウス・カッシウス・ロンギヌスなど数十人の議員から23か所滅多刺しされた内の2回目の刃が致命的となり、56歳にて生涯を終えました。

カエサルは暗殺される際、暗殺者集団の中に実の息子の様に育てたブルータスを見て、「ブルトゥス/息子よ、お前もか(Et tu, Brute?)」と叫んだことは有名です。

カエサル暗殺の代名詞ともなっており暗殺の一味になっていたブルトゥス(ブルータス)は、幼い頃に父親を亡くし、カエサルが父親代わりに可愛がって育てた実の息子の様な存在で、カエサルが残していた遺書には第2後継者としてブルトゥスを指名していたと言います…。
(第1後継者は大甥のオクタヴィアヌス/後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)

「来た、見た、勝った」を書いた場所 ジレ城
トカット(Tokat)県ジレ(Zile) 郡の中心地、ジレの町のどこからでも見ることができるジレ盆地を望む遺丘の上、現在ジレ城がある場所でカエサルは紀元前47年に「来た、見た、勝った(Veni, vidi, vici.)」と手紙に書いてローマへ戦勝報告しました。ジレ城はカエサルより直ぐ後の1世紀帝政ローマ時代初期に建てられた建物で、カエサルの言葉は大理石の円柱に刻まれ、ジレ城の中に置かれていました。
ここは、紀元前1600年代の古代から城市が建てられてきたアクロポリスでした。ジレ城が出来る前にも、ここには都市が何度も建てられて来たところです。現在このジレ城では、塔跡と城壁、その他の遺構を見ることができます。


特に階段を362段下りた地下にある籠城に備えて作られたとされる貯水池は、近年ジレ町役場によってオリジナルの状態に戻されています。
また、籠城の際に場内の兵が城外に出る為の地下トンネルも見つかっており、お城の北東の岩場に掘られた小さな劇場跡もあります。なお、その他に1875年オスマン帝国時代に作られた兵舎は現在もそのまま残っています。 

中央アナトリアの町「カイセリ」の名の由来
カエサルは個人名でしたが、帝政ローマで皇帝となっていった後継者たちがカエサルを継承して名乗ったことに因んで、カエサルは皇帝を意味する称号となります。 アラビア語およびオスマン語では、ローマ皇帝のことをローマのカイセリ(皇帝)と言う意味の「ルーム・カイセリ(Kayser-i-Rûm)」で呼んでいました。


カッパドキア近くのトルコ中央アナトリアにある「カイセリ(Kayseri)」という町ですが、この町の名はローマ帝国皇帝ティベリウス(在位西暦14年~37年)が 「カエサル(皇帝)の都市」を意味する「カエサレア(Caesarea)」と名付け、そこから後に「カイセリ」に変更し今に至っています。』

(記事投稿日:2022/02/05、#470)


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