『廃仏毀釈とは、「廃仏」は仏法を廃し、「毀釈」は釈迦の教えを棄却するという意味で、この仏教を廃することは、日本以外でも!』
『昔、初めて、千葉県鋸山の日本寺の首なし羅漢を見た時の驚きと、
日本にもあった文化財破壊・廃仏毀釈運動と呼ばれた破壊活動が』
初めて、千葉県鋸山の日本寺の首なし羅漢を見た時の驚き!
奇跡的に後日発見された首は、修復されていますが、一部は戻っていません。
ウエブ情報から引用
半世紀も昔、香港に7年間も駐在しましたので、文化大革命のこと、生の声で、中国から難民で『来港』した方々から伺いました。 凄いとは思いながらも『対岸の火事』でした。 当時は日本にもあった、うろ覚えの『廃仏毀釈』と比較もできませんでした。
先ずは、世界にもあった『廃仏毀釈』、ウエブ情報です
インド
インド史上の最大の廃仏は、イスラム教国ゴール朝のインド侵入によって13世紀初頭に起きたイスラム教徒による廃仏。 これによってヴィクラマシーラ寺院は破壊され、数万の仏教徒が虐殺されるなどした。 当時すでにインドにおける仏教教団は衰退していたが、イスラム教の攻撃で壊滅的打撃を受け、多くの仏教文化財が喪失した。これによりインド仏教は1600年の歴史を終えて滅亡した。
中国
仏教は中国にはおよそ紀元前後ごろ西域を経由して仏教が伝来したが、3世紀以降の中国歴代王朝はしばしば廃仏を行った。 とりわけ北魏の武帝、北周の武帝、唐の武宗、後周の世宗による廃仏は規模が大きかったため「三武一宗の法難」と呼ばれた(三人の武がつく皇帝と一人の宗がつく皇帝の意)。 寺院や堂塔の廃毀、寺院財産没収、僧尼の還俗、仏像経巻の焼却などが行われた。 背景として僧尼という非生産人口の増加と寺院荘園の拡大が国家の財政上大きな負担になったことがあげられる。
一方、自分個人の三年前の奈良の旅は、修学旅行を含め3回目でした。 今回は余生に限りある歳の所為もあり、いろいろ興味深い点があることに気が付きました。 明治期の危機『廃仏毀釈・神仏分離』を、奈良は、乗り越えていたことです。
中国の文化大革命の中で行われた宗教関連事物の破壊もどこまでされたのかは、調査不足で自分にはよくわかりませんが、日本の『廃仏毀釈・神仏分離』もすさまじかったようです。 そのウエブ情報です。
明治政府は、明治元年(慶応四年・1868年)に「神仏分離令」を出して、神社からことごとく仏教色を排除した。 また、この法令に乗じて各地で仏像や寺院を破壊する廃仏棄釈運動が起こった。
大政奉還後に成立した新政府によって1868/04/05に発せられた「神仏分離令」「神仏判然令」、および1870/02/03に出された「大教宣布」などの政策を拡大解釈し暴走した民衆をきっかけに引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。
日本政府の神仏分離令や大教宣布はあくまでも神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた破壊活動を引き起こしてしまう。
神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。 祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、 仏事の禁止などが見られた。 1827/02/23寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。
大阪住吉大社の神宮寺の二つの塔をもつ大伽藍は、1873年にほとんどが壊された。 奈良興福寺の食堂は1875年に破壊される。 出羽三山については、明治1874年以降に廃仏毀釈が始まる。
例えば千葉県の鋸山には五百羅漢像があるが、全ての仏像が破壊された。 現在はかなりの仏像は修復されていますが、羅漢像には破壊された傷跡が残っている。(初めて、千葉県鋸山の日本寺の首なし羅漢を見た時に驚きました。 この時以来、日本史の一大汚点が頭から離れませんでした。 この日本寺は、聖武天皇の勅願で開山) また、華族の墓地も仏教方式から神道方式へと変更させられた。
三重県では、伊勢神宮のお膝元という事もあって激しい廃仏毀釈があり、かつて神宮との関係が深かった慶光院など100ヶ所以上が廃寺となった。 特に、神宮がある宇治山田(現:伊勢市)は、寺院の数が300近くから15近くにまで減らされている。
さて、東大寺と言えば、大仏殿(国宝)と大仏(銅造盧舎那仏坐像の名で彫刻部門の国宝)と、『お水取り』で知られている二月堂(国宝)ですが、今までうっかり自分が見落とし、していたのが、三月堂と知られている東大寺法華堂(国宝)です。
先般は、梅雨明け直前の、気温32度以上、湿度80%以上、の中でボランティアの方のアドバイス『エアコンはなく扇風機ですが、女子中学生の団体が小グループに分かれて、歴史の先生の説明を聞いていますので、暑いですが、この15分を聴講なさるのがいいですよ』に従い、中学時代の歴史の時間を思い出しながら、拝観・拝聴しました。
ウエブ情報です。
東大寺に現存する数少ない奈良時代建築の1つであり、堂内に安置する10体の仏像(全部が国宝)も奈良時代の作である。 2011年以降、日光菩薩像、月光菩薩像、吉祥天像、弁才天像、不動明王二童子像、地蔵菩薩像は法華堂から免震装置を備えた東大寺ミュージアムに移され、堂内に安置される仏像は10体となっている(不空羂索観音像、梵天・帝釈天像、金剛力士像(一対)、四天王像、執金剛神像)。 堂内須弥壇の修理のため、法華堂の内部は2011年8月から非公開となり、本尊の不空羂索観音像も一時的に東大寺ミュージアムに移されていたが、2013年5月18日から公開が再開された。
ここでは、京都と奈良の比較、国宝点数です。
絵画 彫刻 工芸 書跡 古書 考古 歴史 建造物 合計
奈良 9 74 36 11 1 8 0 64 203
京都 44 39 15 55 27 3 0 72 234
全国 161 136 253 228 62 47 3 226 1,116
際立っているのは、全国の国宝彫刻の半数以上が、奈良にあります。 蘇我vs物部の宗教戦争後の、仏教側の蘇我一族と聖徳太子一族の内紛も関係がありそうです。 聖徳太子一族のために創建された法隆寺に始まり寺が多いです。
さらに、頻繁な遷都ですが、
奈良飛鳥 2年、
大阪難波 10年、
奈良飛鳥 12年
滋賀大津宮 10年、
奈良浄御原宮・藤原京・平城京・山城恭仁京・紫香楽宮 77年、
大阪難波 1年、
奈良平城京 39年、
京都長岡京・平安京 396年
兵庫県福原京 5ヶ月
京都平安京 688年
日本の遷都を伴った天皇制は、なんと、1,500年間も続いています。 中でも在京都年数が、四分の三、とダントツ。 奈良と京都の比較はできませんが、やはり、仏教の奈良と、神道の京都と、の違いでしょうか。 この天皇制の継続、『日本は凄い、日本人は凄い』と思います。
(記事投稿日:2024/04/19、#740)
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