『来た、見た、分かった 1(長崎の軍艦島、由来は軍艦土佐)』
『風化の続く軍艦島(端島・はじま)の現在の姿は、名前の由来を知れば知るほど、この炭鉱の廃坑と、戦艦の数奇な運命、を思う』
表題に、名言『来た、見た、勝った』(古典ラテン語:Veni, vidi, vici)を引用させて頂きました。 共和制ローマの将軍・政治家のユリウス・カエサルが、ゼラの戦いの勝利を、ローマにいるガイウス・マティウスに知らせた言葉です。
端島は、長崎市ある島。 「羽島」とも書いていた。 三菱高島炭鉱端島鉱業所は今や通称である「軍艦島(ぐんかんじま)」の方が、はるかに知名度が高くなっていますが、その名の由来は、島の外観が三菱長崎造船所で建造されたが、『艤装もされず、廃艦され、曳航されたときの「戦艦土佐」に似ていたこと』だと言われます。
艤装されず、廃艦、曳航された『戦艦土佐』
ウエブ情報から引用
軍艦島
2023/11/11撮影
外観が軍艦に似ていることは容易に理解できますが、なぜそれが『戦艦土佐』に限定されたのか、『来た、見た、聞いた』で分かりました。 『三菱長崎で建造された戦艦は他にも多くあり、その中で最も有名なのは巨大戦艦「武蔵」巡洋戦艦「霧島」、戦艦「日向」一等巡洋艦「鳥海」等々です。
しかし「土佐」はこれらの艦船とはまったく異なった運命を背負っていました。 もともと土佐は日本海軍における戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を保有するという「八八艦隊」計画の中で三菱長崎に発注されましたが、進水式に、くす玉が割れず、不吉な前兆といわれましたが、これは現実となりました。
しかし、同時に進行中であったワシントン軍縮会議において英・米・日の主力艦隊保有率が「5:5:3」と決定されたため、「八八艦隊案」は中止となり、建造は中止後、廃艦となり、建造半ばで海軍に引き渡されていった「土佐」。
「土佐」は艦橋や煙突、砲塔などの艤装がされておらず、なだらかなシルエットをしており、曳船の吐く石炭の煙がもうもうとして見えています。この姿は所員のみならず、長崎の人にはひどく印象的に見えたことでしょう。
『三菱高島炭鉱「端島」鉱業所全体が廃墟と化した軍艦島』
明治から昭和時代にかけて海底炭鉱によって栄え、日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅も建造されるなど、1960年代には東京以上の人口密度を有していた。 1974年の閉山にともない、島民が島を離れてからは無人島になった。
2015年、国際記念物遺跡会議(イコモス)により、端島炭坑を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・成功、造船、石炭産業」がユネスコの世界文化遺産に登録された。
今から20数年前に、茨城県南の町の写真同好会で、この軍艦島に行こうという話が出ましたが、あまりに遠いので実現しませんでしたが、今回行って『来た、見た、分かった』を体験できました。
将来、この廃墟感のあるシルエットが見られなくなる。
2023/11/11撮影
風化が急速に進む原因の一つ、浜砂と海水を使ったコンクリート
(大昔のローマンコンクリートを思い出し、比較して驚きました。)
2023/11/11撮影
観光客は近づけない崩壊寸前の高層アパート
2023/11/11撮影
「明治日本の産業革命遺産」の1つとして世界文化遺産に登録されたこの軍艦島が、近年崩壊の危機に面しており、このままでは近い将来見られなくなる可能性があることは間違いないように思いました。
(記事投稿日:2023/11/17、#697)
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