『オランダ商館医博物学者ドイツ人のシーボルトは科学伝授 3』
『日本の植物へ不変の愛着「アジサイの学名に最愛女性の名前を」』
『シーボルトの「カメラ」なった川原慶賀がシ-ボルト蒐集の動植物の写生図を』
独身のシーボルト(27歳、恐れ多い卑近なことですが、自分も昔、独身の27歳で香港に着任で、格別な思いを)が長崎の出島に着任して以来、懇親的に身の回りの世話をした女性がいる。 楠本たき、1823年に初めてシーボルトのもとに出向いたときは『其扇(そのぎ)』という16歳になる長崎・丸山の遊女だった。
川原慶賀の『シーボルト』と『オタクサ(たき)』肖像画
ウエブ情報から引用
外国人女性の出入りを禁じられていた出島では、オランダ商館員は、丸山の遊女を伴侶として抱える慣習があった(所謂身請け)。 シーボルトはドイツの両親に、次のように書き送っています。 『私もオランダの古き習慣に従って、16歳の愛らしい日本娘と契りを結んでおります。 良い娘でとてもヨーロッパ女性と取りかえる気にはなれそうもありません』。
さらに手紙は続きます。 『私には愛らしい娘がおりますが、彼女の顔には母上様によく似たよくところがいくつか見られます。 この二人のためにいろいろ配慮をつくしてきました。 それは私の義務です。 そして今後もそうするでしょう。』と。
比較したくなかったのですが、幕末のアメリカ駐日総領事・ハリスの『侍妾』の下田の『唐人お吉』の数奇な運命は、大分違うようですが真実に近いところは次の課題です。 『侍妾(じしょう)、身分の高い人のそばにいて、その身の回りの世話をする女性。そばめ。』
アジサイの学名に最愛女性の名前「HYDRANEGA Otaksa」
ウエブ情報から引用
シーボルト 日本植物誌: カノコユリ
ウエブ情報から引用
シーボルトが日本から移入した植物の中には、カノコユリの株もあった。 カノコユリは薔薇色の花弁に紫色の斑点がある可憐な花をつける。 初めて生きた状態でヨーロッパに入ったこのユリが、帰国(一回目在日の)後、3年目の1932年、現在のベルギー・ハントの植物園で花を咲かせた。 反響は大きく高値が付いたらしい。
むしろ、春画でも知られていた川原慶賀ですが(当時、多くの絵師は春画を)、『シーボルトの「カメラ」なった川原慶賀』がシ-ボルト蒐集の動植物の写生図『図鑑』を描いていたことも凄いことです。
(記事投稿日:2020/10/13、#586)
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