知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『オランダ商館医博物学者ドイツ人のシーボルトは科学伝授 4』 『執念の学術書出版 日本植物誌・動物誌が西洋との懸け橋に、』

2022-10-13 22:57:42 | 絵画

『オランダ商館医博物学者ドイツ人のシーボルトは科学伝授 4』

『執念の学術書出版 日本植物誌・動物誌が西洋との懸け橋に、』

『シーボルトの「カメラ」なった川原慶賀がシ-ボルト蒐集の動植物の写生図を』

 

シーボルトは、二度、通算12年余の日本滞在で、三度目の来日を切望していた、真に日本を、日本人を愛した人物でした。

 

1823年 - 来日

1828年 - シーボルト事件

1830年 - オランダに帰国

 

1859年 - オランダ貿易会社顧問として再来日

1864年 - オランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰国

 

最初の6年間にわたる日本滞在中の仕事で、最も手ごたえを感じていたのが、日本の植物についての調査研究であった。 『私はすでに200種以上の新種を日本において発見いたしました。』 『私には植物を専門とする素晴らしい日本人画家ついていて、すでに120点ほどの新稀種日本植物の写生図を、必要な場合は顕微鏡による分析図を付して仕上げております。』と、母と伯父に書き送った言葉から、着任以前から『日本植物誌』のシーボルトの心踊りが伝わってくるようです。

 

帰国後もオランダ政府から叙勲されたり、オランダ領東インド陸軍の参謀部で、日本関係の事務仕事を任されたりと、日本との接点は消えておりません。 日本研究の第一人者として世間に知られるようになったシーボルトは、ドイツのボン大学から、ヨーロッパ初の日本学教授として招聘されたこともあります。

教授になってしまうと日本に行きにくくなるからか、断っています その後は日本の開国のために動いています。

 

シーボルト宅跡の胸像の周囲にはアジサイの植樹

ウエブ情報から引用

シーボルトが長崎市鳴滝(なるたき)に設けた私塾と居宅の跡で、「シーボルト宅跡」という名称で国の史跡に指定されています。 シーボルトは、長崎に来た翌年、鳴滝にあった家を手に入れ、ここに「鳴滝塾」を開き、日本各地から集まってきた医者たちに医学などを教えています。 ここで学んだ人々は、やがて医者や学者として活躍しました。

 

素晴らしいシーボルトの日本滞在の後日談

シーボルトは長崎の女性・楠本たきとむすばれ、彼女を「オタクサ」と呼んでいました。 やがてシーボルトは、はじめてみる美しい花(アジサイ)に出会い、その花に愛する人の名をとり「ヒドランゲア・オタクサ・HYDRANEGA Otaksa」と名づけ、『日本植物誌』に掲載しました。

 

二人の間には文政10年(1827)、娘・いねが生まれました。 いねは父と同じ医学の道をこころざし、石井宗謙・二宮敬作・ポンペらに医学を学び医師として活躍しました。 長崎や東京で開業し、明治6年(1873)、明治天皇の若宮が誕生するときには、宮内省御用掛となり、出産に立ち会いました。 明治36年(1903)、東京で亡くなりました。

 

ドイツ人・シーボルトですけれど、シーボルトを育んだオランダの歴史に、今は、興味津々です。

(記事投稿日:2020/10/13、#586)

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