『天才絵師 雪舟の天橋立図と、北斎の富嶽三十六景の鳥瞰図の謎)』
「雪舟の国宝『天橋立図』と北斎『富嶽三十六景』の鳥瞰図をなぜ描けた」
この国宝『天橋立図』ですが、描くときに雪舟が立っただろうと言われる場所、現在の『天橋立雪舟観 展望休憩所』から見ると、天橋立の後ろの『阿蘇海』は天橋立で遮られ見えません。
『天橋立雪舟観 展望休憩所』から天橋立を、阿蘇海はよく見えません。
国宝『天橋立図』
まさに、雪舟の傑作の鳥瞰図、阿蘇海がはっきりと見えます。
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日本三景の1つ、丹後天の橋立を東側から鳥瞰的にとらえた図で、図中の智恩寺の多宝塔と成相寺の伽藍が同時に描かれることから、制作期が一応明応10年(1501)から永正3年(1506)の間とされる。雪舟(1420−1506)が80歳を越してなお現地に歩を運んで、実景を写したことは驚異である。 水々しい墨色と確実に形をとらえる筆致、雄大に組立てる構図は雪舟の優れた画技の極点を示している。 中国大陸に渡って大自然を写生し、宋元画を学び、禅画一致を求めて一生描きつづけた雪舟の傑作である。
北斎の『富嶽三十六景』の鳥瞰図、
稲妻が下に見え、後方の周辺の山並みが描かれている。
北斎の『富嶽三十六景』
稲妻も、後方の周辺の山並みが描かれていない。
北斎の稲妻を下に見下ろした『富嶽三十六景』の鳥瞰図と合わせ、雪舟の国宝『天橋立図』は、なぜ鳥瞰図を二人は描けたのでしょうか。
鳥瞰図を雪舟(1420-1506)と北斎(1760-1849)はどこで学んだか。
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雪舟は15-16世紀の日本画家ですが、『遣明使』で中国に2年留学、中国画家・『実在』より中国の画法を学んだ。 中国絵画にも遠近表現はあり、北宋の画家・郭煕(かくき)はそれを「三遠の法」といった。 「三遠」とは高遠(仰角視)、平遠(水平視)、深遠(俯瞰視)の3つをいうが、中国の山水画では、近景の岩は俯瞰視、遠景の山は仰角視で描くなど、同じ1枚の絵の中に複数の異なった視点が共存することが珍しくない。
ここにある『遣明使』ですが、不勉強で、遣隋使と遣唐使しか、今まで知らず、お恥ずかしき次第です。
『室町時代の幕府か明に派遣した。 応永11年(1404年)から天文16年(1547年)まで約1世紀半で17次(のべ84隻)。 のち、倭寇(わこう)が盛んになるに及んで廃止。』
北斎は18-19世紀の日本画家ですので、すでに鳥瞰図は見ていたと思われます。
安永7年(1778年) 浮世絵師・勝川春章の門下となる。 狩野派や唐絵、西洋画などあらゆる画法を学び、名所絵(浮世絵風景画)、役者絵を多く手がけた。
文化9年(1812年) 秋頃、名古屋の牧墨僊邸に逗留、その後、関西(大坂、和州吉野、紀州、伊勢など)方面へ旅行する。
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海外の歴史的な鳥瞰図としては、レオナルド・ダ・ヴィンチの「トスカーナ鳥瞰図」ヤコポ・デ・バルパリの「ヴェネツィア鳥瞰図」(1500年)アルトドルファーの「アレクサンドロス大王の戦い」(1529年)などがある。
日本の歴史的な名所や神社仏閣を描いた鳥瞰図としては、古くは春日大社を描いた奈良時代の「春日曼荼羅」などがある。名所案内図としては、秋里籬島著、竹原春潮斎画「都名所図会」、斎藤月岑、長谷川雪丹「江戸名所図会、葛飾北斎「東海道名所一覧などがある。浮世絵にも鳥瞰図が描かれ、広重「江戸名所百景」の「深川洲崎十万坪」などがある。 現存最古の鳥瞰図としては『東大寺領荘園図』がある。
日本の江戸時代までの広域の景観を描いた鳥瞰図としては、室町時代の加納永徳の「洛中洛外図屏風」に代表される京都の景観、風俗を描いた各種の「洛中洛外図屏風」、江戸初期の建設途上の江戸の名所、風俗を描いた「江戸図屏風」、江戸全景を描いた鍬形蕙斎の「江戸一目図屏風」などがある。
数年前、どこかのテレビで放送していました。 北斎の『神奈川沖浪裏』の解説の中で北斎には『空間認識能力』が特別優れていたと。 北斎よりおよそ300年も早く、雪舟は、高い崖、高い山、高い石柱の多い中国の「三遠の法」の「高遠(仰角視)、平遠(水平視)、深遠(俯瞰視)を理解していたように『ズブの素人』には見えました。 同時代15,16世紀には、高い塔や高い山の多いヨーロッパには鳥瞰図や俯瞰図が現れても不思議はないと思います。
鳥観図と鳥瞰図(俯瞰図)、虫観図と虫瞰図(仰瞰図)、日本語は難しくて、奥が深いです。 漢字・ひらがな・カタカナ混在の言語・日本語はある意味でハンデでした。 自動翻訳機(双方向)のチップが体内に組み込まれる時代はまだずっと先でしょうか。
(記事投稿日:2019/10/19、最終更新日:2024/09/05、#126)
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