『絶世の美女「楊貴妃」は「傾城の美女」「傾国の美女」「傾城傾国の美女」?』
『玄宗は遣唐使の留学僧とは懇意に、阿倍仲麻呂は楊貴妃にあっていた!』
『傾城の美女』、『傾国の美女』「傾城傾国の美女」と美女の表現がこんなに、豊富なのは、日本です。 中国では、『繁体文字』に対して『簡体文字』がさらに進化して、遠い将来は、表音文字になるではないでしょうか、表意文字(漢字)が地球上で最後まで残る国は、日本かもしれません。 前置き・余談が過ぎました。 表題に戻ります。
漢詩の「一顧傾人城再顧傾人國(一顧すれば人の城を傾け再顧すれば人の国を傾く)」から生まれた言葉です。 やはり「傾城傾国の美女」正しいようです。中国には、誇大・誇張の表現「白髪三千丈』、『弟子三千』、『宮女三千』、『食客三千』等、多いです。
楊貴妃と言えば、思い浮かぶのは、立ち姿の奇麗な細身の写真ですが、壁画等の類推から、当時の美女の基準からして実際は典型的な、ふくよかな美人であったように、逆の想像をします。
楊貴妃は、唐王朝中期に玄宗皇帝の寵愛を一身に受けながら、最後は彼の命令で命を奪われることになった絶世の美女。 玄宗が彼女への愛に溺れている時に内乱が起こったことから、「傾国の美女」とも称されるが、彼女の美貌に罪はない。 次の三様の写真からでは楊貴妃の真の姿は掴みようがありません。
楊貴妃(719~756)中国の唐王朝を傾けた絶世の美女
ウエブ情報から引用
世界の三大美人(クレオパトラ・楊貴妃・小野小町)の一人で古代中国四大美人(西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃)の一人とされる。壁画等の類推から、当時の美女の基準からして実際は豊満な女性であった。
楊貴妃上馬図傾国
ウキペデイアより引用
玄宗皇帝の妃・皇后の次に位の高いのは貴妃で、年下の楊貴妃が、年上の安禄山(胡人)を養子したことから、と胡人の多い蜀の出身であることから胡人の血統であったと想像できます。 当然乗馬には慣れていたのでしょう。 長安は地理的に国際化に寛大であった。 唐の時代は国際化がかなり進んでおり、当時の中国人は『化外人』・『胡人(ソグド人)を認めた。
華清池にある楊貴妃入浴像
ウキペデイアより引用
華清池は、泰嶺山脈の三大峰の一つである、轆山麓の穏やかな気候と風光明媚な景色を特徴とする地域にある熱水泉の複合体。 周の幽王や、秦の始皇帝を含む様々な中国の王たちの宮殿がこの場所に建っていた。 唐の皇帝玄宗は、ここに宮殿(華清宮)を建てたが、楊貴妃とのロマンスの舞台として有名である。 温泉には楊貴妃が浸かったという伝承がある。
彼女は胡舞を舞う美しい娘だったという。 胡舞とは胡人の舞。 胡人とは西域の異民族。 南方の蜀の娘が胡人に紛れて生きた。 当時の胡舞のスタイルはまるでベリーダンスのようなヘソ出しファッション。 その美しさで注目された楊貴妃が皇子の妃となり、その父皇帝に召し抱えらえた。
ここで、中国の後宮の階級を確認です。
唐代の制度では、後宮の職官は、内官・宮官・内侍省の3部門で構成されていた。
内官とは妃妾のことで、
四夫人(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃。正一品)、
九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛。正二品)、
二十七世婦(婕妤、美人、才人。正三品から正五品)、
八十一御妻(宝林、御女、采女。正六品から正八品)
日本で最もポピュラーに使われるのが『美人』ですが、真ん中から少し下になりますが、残念です。
正六品以下が宮官であり、宮中内の職務に携わる女官たちのことである。 尚宮(総務的な仕事)・尚儀(礼楽に携わる)・尚服(衣服に携わる)・尚食(食事に携わる)・尚寝(居住空間に携わる)・尚功(工芸に携わる)の六尚に分けられて職務に従事し、また宮正が置かれて、後宮内の不正の取り締まりに従事した。 内侍省は宦官たちである。
中国は昔から大国でした。中国では美人は以下のように例えます。
沈魚落雁・閉月羞花でそれぞれ絶世の美人を表す四字熟語になる。 表意文字は美女の簡潔な表現にぴったりです。
西施(越)・沈魚美人
谷川で洗濯をしている姿を見出されて越国の王宮へ召しだされた。西施の美貌に迷い、呉の王夫差は越の狙いどおり国を傾けてしまう。彼女が川で洗濯をする姿に見とれて魚達は泳ぐのを忘れてしまったと言われる。
王昭君(漢)・落雁美人
国のために異邦に嫁いだ女性。旅の途中、雁を見ながら望郷の思いをこめて琵琶をかき鳴らした所、彼女の姿と悲しい調べに魅入られて雁が次々に落ちてきたと言われる。
貂蝉・閉月美人
正史には登場しない架空の人物である。董卓の養子であるにも関わらず呂布は貂蝉を想うあまりに董卓を殺してしまう。天下を憂いて物思いに耽る姿のあまりの美しさに、月が恥じて雲に隠れてしまったと言われる。
楊貴妃・羞花美人
唐の太子の夫人だったが舅である玄宗皇帝に寵愛されて皇后に継ぐ貴妃の地位を得た。皇帝の寵愛を笠に彼女の一族が専横を始めたため、地位を危ぶんだ安禄山が反乱を起こし、楊一族は亡命の途中に兵士の憎悪を受けて殺害され楊貴妃も首を括られた。彼女が後宮を散歩すると庭の花が妃の美貌と体から発する芳香に気圧されてしぼんでしまったと言われる。
阿倍仲麻呂と唐・楊貴妃
玄宗は遣唐使としてやって来た留学僧とは懇意にしていたそうです。 また、聖武天皇時代の辺りでやってきた遣唐使・阿倍仲麻呂を取りたてました。
仲麻呂は李白(りはく)や王維(おうい)など中国史に名を残した大詩人たちとも交流を持ちましたが、船の難破などでついに日本に帰国することはかないませんでした。『阿倍仲麻呂が、玄宗皇帝の長安脱出の時、その行列の中に混じっていたか、どうか?記録はありません。 しかし、この時、長安にいたのは、ほぼ確実ですから、脱出組の中にいた・・・・と考えた方が自然でしょう。』がウエブ情報にありました。 また、課題・楽しみができました。
楊貴妃と言えば『ライチ・茘枝』です。 半世紀も昔のことですが、亜熱帯の港町・香港で初めて『ライチ・茘枝』を食べたことがありました。 上品な甘さと香りから中国では古代より珍重され、楊貴妃が華南から都長安まで、およそ1,300㎞を早馬で運ばせた話が有名です。
(記事投稿日:2020/07/29、#198)
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