『刀のこと 2(戦国時代の刀狩と、明治の廃刀令に ついて)』
『日本の歴史において武士以外の僧侶や農民などから武器の所有を放棄させた』
先ずはウエブ情報から、長さや形状による日本刀の種類です。
日本刀のうち博物館などで展示されもっとも目にする機会の多いのが太刀です。
そのため、日本刀とは太刀のことだと思ってしまう方も少なくありません。
厳密には太刀より短いものを刀、さらに脇差、短刀と分類することができます。
また、広い意味では薙刀や槍を含む場合もあります。
① 太刀(たち)
平安時代後期~室町時代にかけて作られた刀身の長い日本刀のことを指します。 刀身の長さは70~80㎝、反りの強いことが特徴的で弓や槍を補足する武器として使われていました。
② 刀(かたな)
室町時代の中期以降、江戸時代の末期まで主流となったのが刀です。
打刀と呼ぶこともあります。
時代劇に登場する日本刀の多くは刀であり、長く大きく反りかえった太刀と違い刀身が60㎝ほどと短く反りも小さいのが特徴です。
戦乱の世にあっては、すぐに臨戦態勢に入れることが重要視され、すぐに鞘から抜けるように機能性を追求したということになります。
③ 脇差(わきざし)
刀の補助として作られたのが脇差です。
長さは30~60㎝、日本刀の一種ではありますが、当時は刀ではないという認識から武士でない一般庶民も所持することが認められていました。
長い順に大脇差、中脇差、小脇差と呼ぶこともあります。
③ 短刀(たんとう)
脇差より短い、刃長30㎝未満のものは短刀と分類されます。
匕首(あいくち)、懐刀(ふところがたな)と呼ばれることもあり、帯刀を許されない席などで護身用として用いられたりしました。
刀と脇差の二本を帯びることを『二本差し』と『帯刀』と呼ぶようになったのは戦国時代以降と言われています。 平安時代末期までは太刀や腰刀を佩用(佩く、つまり腰に吊った)した。 これでは居合はやり難かったでしょう。
当然、鞘には佩用するための部品と帯取りが取り付けられており、帯刀はせず腰に巻いて装着した。
鎌倉時代末期以降は、歩兵戦が多くなり、当然集団戦・白兵戦が多く、打ち合って戦うための武器、打物・打刀が主流となった。 この打刀が現在の日本刀で、太刀に比較、反りが小さい。
17世紀の半ば、反りのある太刀や刀は、反りのない『棒の様な刀』が大流行した。 そこで太刀や刀の反りを、打ち直し『棒の様な刀』に改造することが流行した。 この流行は、ファッション・流行りからとズブの素人は考えましたが、実戦のためと分かり一安心です。 それでも、『棒の様な刀』は、佩刀ではなく帯刀できるので、ファッションとしても魅力があったのでしょうか。
いつの世でも『カッコよく』は大事でした。
昔の武士は、各々が自分に合わせた長さ・重さの太刀・脇差を使っていたが、江戸時代の享保期以降は、画一的な刀・脇差好まれるようになった。 平和な時代は、ファッションファーストになったのでしょうか。
最近知ったことですが、ウエブ情報からです。
帯刀というのは打刀と脇差の大小二本の刀を差す事です。
これは武士や苗字帯刀を許された町人だけの権利で、一般の百姓町人がすれば処罰の対象になりました。
しかし、脇差であれ、道中差であれ、一本だけ刀を帯びてもそれは帯刀にはならないので、旅行時の護身用、儀式での装束用など、正当な理由があれば、届けでの上で、2尺2寸3分(約67cm)以下の長さの刀剣類を所持する事が出来ました。大分の百姓・町人も刀又は脇差を差していた。
戦国乱世の時代、百姓たちも否応なく戦いに巻き込まれたから、武器を所持して身に着けた。 これは宣教師ルイス・フロイスが、その著書『日本史・Historia de Iapam』に記している。
この状況に大きな変化をもたらしたのが、豊臣秀吉による『刀狩り』ですが、秀吉は、天下統一後の『村の武力をそぐ』でした。
そもそも『刀狩り』とは、ウエブ情報によれば;日本の歴史において、武士以外の僧侶や農民などから、武器の所有を放棄させること、鎌倉時代の1228年(安貞2年)に、第3代執権北条泰時が高野山の僧侶に対して行ったものです。
江戸時代の後期の風俗画には、町人の脇差(一本差し)が見られるが、更に元禄時代は『町人の脇差だらけと言われる』が私見ですがこれが実体ではなく、傾奇ものが多く、絵師も彼らをたまたまモデルにしたのではないでしょうか。
許可制でもなく、禁止もない町人の脇差であったがこれで悪事をなしたものは死罪であった。 もちろん公的場面では、脇差御免であったし、江戸時代後期には長脇差(大脇差と同じ、54-60㎝)は禁止であった。 ヤクザ(この呼称は室町時代が最初)の長ドスと長脇差は同じもの、したがってヤクザの長ドス所持は違法であった。
映画でよく見る、幕府の役人が凶悪な盗賊をバッサリと、切り捨てることはなく、捕り物には、実際『刃引きの刀』が使われたことがあった。 町奉行の与力・同心には犯罪者捕縛したときには褒美が出る規定があり、あくまで『召捕候もの』で打捨・切捨ではなかった。 幕府は御先手組の長谷川平蔵ら10名には非常事態には『打捨・切捨』を許可した。 幕末期は非常事態であった。
明治政府は陸軍卿山県有朋の上申による『廃刀令』が、明治9年3月28日に発布・実行され、特殊な職務の人以外の『佩刀・帯刀』は出来なくなった。
明治の『廃刀令の狙いは、旧武士』であり戦国時代の『刀狩りの狙いは、百姓と僧』であった。 米国の銃規制の狙いはなに、なぜ緩い、考えさせられます。
(記事投稿日:2018/10/17、最終更新日:2022/03/26、#498)
元禄時代は、多くの町人(や農民)が実際に脇差を差していました。当時の書籍を読むと脇差を帯びない者が珍しがられている場面があります。まぁ江戸後期になると日常的に脇差を帯びることは少なくなっていき、旅行や火事、結婚や葬式などの際に帯びるようになりました。
天保11年(1840年)成立の広瀬淡窓の「迂言」には「(庶民は)私ニ羽織袴・脇差・苗字迄ハ勝手次第ニ之ヲ用ヒ、タヾ官府ニ出スル時ノミ法ノ通リニスルナリ」とあります。ちなみにですが、江戸時代以前に農民が苗字を有さなかったというのは今の学説で完全に否定されています。
故に明治の廃刀令の際にも平民の摘発事例が数多く残されています。もしかしたら士族よりも多いかもしれません。
・明治九年五月の読売新聞には「大坂の銕道ステーションの辺でハ、諸国より一本きめこんでくる人の脇差しを毎日〱束にする程取りあげると、百姓たちが涙を流して、是ハ先祖代々の譲りもので、首よりも大切な脇差しだのに、あヽ情けないこんだ、といって嘆く~略~」
・明治九年四月一日の読売新聞
「越後國池ケ原村の宮下庄右衛門ハ、先日のお布告を心得ないのか、腰へ一本きめこんで歩行たものだから、早速大六方面三署の巡査に見咎められて取り上げられました」
・明治九年五月廿二日の読売新聞
「二十日にハ、武州多摩郡砂川村の百姓伝蔵が帯刀して歩行たので是も取り上げられ、昨日も上総國山邊郡小山村の百姓藤五郎が帯刀して歩行たので是も取り上げられました」
日本において農民を完全に武装解除したのは、GHQですね。戦後GHQは日本刀、鑓、薙刀、銃などの武器を軍国主義の象徴ということで、厳しくそれらを接収することにします。
朝日新聞によれば全国で3百万本の刀が無くなったと、文化庁関係者が語っていたそうで、集まった刀は連合軍兵士の戦利品や海中に投棄されました。赤羽刀などが有名ですね。
今銃刀法の元で現存する刀231万本に、占領軍令により消滅した300万本を加えると実に530万本の刀が民衆の手にありました。
敗戦直後の1947年の標準世帯数は1578万軒であったといいますから、戦前の我々の元には3軒に一軒の割合で刀があったことになります。
こうして三千年以上武装してきた日本の農民は、初めてその武器を大きく減らされたのです。