『古代の日本は・日本人は凄かった 1(文字なき時代の卑弥呼の謎)』
1万年以上にわたって、農耕なしで、採集・漁労・狩猟により定住した人々の生活と精神文化を伝える文化遺産が、世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」として登録されました。 その様なときに、センセーショナルなウエブ情報が目につきました。
『東北大学名誉教授・田中英道監修、「卑弥呼、埴輪、縄文...、教科書から抹殺された日本史、3つの謎」
❶卑弥呼の“謎”
❷ユダヤ人埴輪の“謎”
❸日本人の起源の“謎”あなたは、
こんな歴史の“謎”をご存知だろうか?』
ウエブ情報から引用
最も気になったのは『卑弥呼の“謎”』です。
「中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された、日本史初の女王・卑弥呼。 「邪馬台国」を支配し、中国皇帝からも認められた「倭国の王」である。 しかし不可解なことに、卑弥呼に関する記録も、お墓も、日本では全く見つかっていない。
一国を支配するほどの権力者であれば、死後、地域の神社で祀られるのが普通だが、日本各地の神社にも、遺跡にも、卑弥呼が存在した痕跡が一切見当たらないのだ…(*日本では、聖徳太子や菅原道真、平将門など、国を直接治めていない偉人でさえも、鎮魂の祈りをささげるため、神社がつくられてきた伝統がある)
また、“邪馬台国の人々の顔や身体には刺青がある”と「魏志倭人伝」には書かれているが、当時の遺跡や遺物をいくら調べてみても、刺青をしているような痕跡はほとんど確認されていない…
ちなみに、著者の陳寿という中国人は、実は日本に来たことはなく、伝聞のみ。 つまり“フィクション小説”として、この作品を記したようだが、一体、卑弥呼とは何者だったのか? 本当に邪馬台国は存在していたのだろうか?
今までは、歴史も歴史小説も戦国や幕末時代に興味を持っていましたが最近は、俄然古代史です。
・縄文の土偶(縄文のビーナスと遮光器土偶)、
・大和王権と出雲王朝の関係、
・大和言葉と漢文の融合、
・古墳時代の大規模古墳、
・聖徳太子の実像、
・二千年近くも続いた皇室、
・古代史からは外れますが、菅原道真の遣唐使廃止
等々、興味は尽きません。
次の既読著書を参考に、さらに下記情報も参考に、情報氾濫の昨今ですが、さらに調べていこうと思っていますが。
・元首相の言、『歴史は歴史小説から学んだ』と、
・塩野七海氏と五木寛之氏の対談にあった、歴史上の人物の頭の中まではよめない。 だから著者は自由に想像できる、ほとんど
・昭和史発掘の松本清張、
・応仁の乱の評判、
・日本国紀のコピペ騒動、
松本清張氏の『古代史疑義』『火の路』などありますが、『古代史疑義』は難解でした。 近く再挑戦です。
梅原猛氏の『梅原古代学』は著名です。 最初の衝撃を受けた著書が『隠された十字架 法隆寺論』、その二年後には『水底の歌 柿本人麻呂論』を発表、遺作が『葬られた王朝-古代出雲の謎を解く-』でした。
百田尚樹氏は『永遠の0』や『海賊と呼ばれた男』の著者で知られています。 最新の著書『日本国紀』がいろいろ議論されていますが、この著書の古代史部分に興味がありました。
先ずは、世界史の古代史の地域別区分です。 先史時代と歴史時代の区分は文献の存在有無とありますので、エジプトの初期王朝は、エーゲ海文明より古く、古代史に入るのではと思っています。
西洋史: 約3000年から約5000年前、古代ギリシャのエーゲ海文明の成立から、476年の西ローマ帝国の滅亡まで。
東洋史: 中国では、紀元前778年の秦王朝の成立から、220年の後漢王朝の崩壊まで。
日本史: 日本、縄文・弥生時代の後の562年の飛鳥時代(もしくは古墳時代)から12世紀末の平安朝後期まで。
中南米: 約3500年前の先古典期・古典期・後古典期から、15世紀に始まった植民地化まで。
縄文の土偶 縄文のビーナス
約4000年から5000年前といわれる、縄文時代中期のもの。 エジプトの大ピラミッドの時代に、日本でもこの豊かな表現力。
縄文時代の土偶:遮光器土偶
約3000年から4000年前と言われる東北地方から出土し、縄文時代晩期のものが多い。 この時代にこのファッション、ただ驚くばかりです。
大和王権と出雲王朝の関係
弥生時代の日本について書かれた記録は、『魏志』の中の「東夷伝・倭人の条」
とある。
先日(20190802)の日経文化欄に載っていました。
キャプションは『音楽療法、江戸の昔から』です。 まさかと思うほど『昔の日本は凄かった・日本人は凄かった』にぴったりです。
光平有希氏の『音楽療法、江戸の昔から』の抜粋です。
音楽療法は、認知症や脳の疾患による後遺症の治療、発達障害の対応など医療現場に広く取り入れられている。 音楽を聴くだけでなく、患者が楽器を演奏したり歌ったりすることで、症状を和らげたり心身の発育を促したりする。
日本の音楽療法の起源については、1950年代後半、米国など静養の療法の模倣から始まったという捉え方が主流であったが、江戸や明治の文献『養生書』、『衛生書』に、音楽が心身に与える効能を指摘する場所が見つかった。
江戸期を代表する養生書に、儒学者の貝原益軒の著した『養生訓』(1713年)がある。 益軒は『古人は詠歌舞踏して血脈を養う、身を動かし、気をめぐらし、体を養う』と記す。
同じ頃、医師の芝田祐祥は『人養問答』(1715年)でより具体的に『糸竹歌舞は鬱を開き、心を養い、気を巡らす良法なり』と書いた。 『糸竹』つまり三味線や筝。
19世紀になると、精神面と並行して、身体機能に音楽が作用を指摘した議論が現れた。 医師の八隅景山は『養生一言草』(1831年)で能楽の謡の発声が、呼吸機能の安定を促すとした。
明治に入ると、東京音楽学校の神津仙三郎の『音楽利害』(1981年)は、『バイオリン演奏が手術時の鎮痛効果を持つ』『笛の音色が耳の神経系に作用し、てんかんなどの治療に効果があるという説。
東京府巣鴨病院の医長などを務めた精神科医の呉秀三は明治の終わりに音楽療法を現場で実践した。 1902年の新聞記事に、同病院は音楽界を開き、精神疾患の患者にピアノやバイオリンの演奏、唱歌の合唱などを聴かせて治療効果を測る様子が描かれている。 音楽会には患者自身が三味線を弾いたり清元を謡ったりする演目もあった。
興味深いのは、西洋音楽より日本の歌謡音曲のほうがはるかに患者の精神状態を動かしている様子だ。 これ以後、同病院の音楽療法には筑前琵琶や浄瑠璃、浪花節などの演目が頻繁に採用されていく。 と、あった。
このシリーズのテーマ『「日本は凄い・日本人は凄い」探し』に、最近、行き詰まっていましたが、今回から捉え方を変えました。 最近の現状を受け止め過ぎて残念ではあり、ちょっと寂しいですが『昔の日本は凄かった・日本人は凄かった』にします。
(記事投稿日:2023/03/10、#635)
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