知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『世界の城郭 12(陸繋島・岩塔の上の城郭と教会)』―仏のモン・サン=ミッシェルと、英のセント・マイケルズ・マウントー

2020-11-03 23:22:11 | 城・城郭・城塞

『世界の城郭 (陸繋島・岩塔の上の城郭と教会)』

―仏のモン・サン=ミッシェルと、英のセント・マイケルズ・マウントー

表題の『モン・サン=ミッシェル と セント・マイケルズ・マウント』ですが、日本語では、まったく同じで『聖ミカエル山』となり、命名はシンプルを持って良しでしょうか。 高輪ゲートウエイとか、スカイツリーなどは随分凝った命名です。

 

キリスト教徒とイスラム教徒の攻防があった、スペインのロンダ峡谷の橋も、シンプルに、プエンタヌエボ=新橋、とプエンタビエホ=旧橋、とシンプルで自然です。 分かりやすく、東京タワーと新東京タワーがあって良かったのではと思いました。

 

因みに、英語ミカエル又はマイケル、仏語ミッシェルですが、西欧こういわれています。ウェブ情報です。

 

大天使ミカエルは「神と似たるもの」と訳すことも出来るほど偉大な天使です。 神様が最初に作った存在であり、「天使長」「天使の総帥」とも呼ばれています。 人間の死後に魂を正義の秤で平等に量ると言われている大天使ミカエルです。 そして勇気や正義の心を促すことをするとも言われているので「平和・正義・平等」を司ると言われているのです。 大天使ミカエルの姿は剣と秤を持ち鎧姿で描かれていることの多い天使であり、神に忠誠を誓った存在であると聖書などからは読み解いていけることが出来ます。

 

モン・サン=ミッシェル、フランス

ウキペデイアから引用

 

ウエブ情報です

この島はもともとモン・トンブ(墓の山)と呼ばれ先住民のケルト人が信仰する聖地であった。

708、アヴランシュ司教オベールが夢のなかで大天使ミカエルから「この岩山に聖堂を建てよ」とのお告げを受けたが、悪魔の悪戯だと思い信じなかった。 再び同じ夢を見たが、また信じなかった。ついに3度目には大天使はしびれを切らし、今度はオベールの額に指を触れて強く命じたところ、オベールは稲妻が脳天を走る夢を見た。 翌朝、オベールは自分の頭に手を置くと脳天に穴が開いていることに気づいて愕然とし、ここに至って大天使ミカエルのお告げが本物であると確信してここに礼拝堂を作ったのが始まりである。

 

966にはノルマンディー公リシャール1世がベネディクト会の修道院を島に建て、これが増改築を重ねて13世紀にはほぼ現在のような形になったものである。中世以来、カトリックの聖地として多くの巡礼者を集めてきた。

 

百年戦争の期間は島全体が英仏海峡に浮かぶ要塞の役目をしていた。 モン・サン=ミシェルの入り口には今もイギリス軍が捨てていった大砲とその弾が残っている。 18世紀末のフランス革命時に修道院は廃止され1863年まで国の監獄として使用れ、その後荒廃していたがヴィクトル・ユーゴーの紹介がナポレオン3世を動かし、1865年に再び修道院として復元され、ミサが行われるようになった。

 

セント・マイケルズ・マウント、イギリス

ウキペデイアより引用

ウエブ情報です

セント・マイケルズ・マウントイギリスの南西コーンウォールのすぐ沖合にある小さなタイダル・アイランドである。

干潮から中位時には、グレートブリテン島のマラジオン町と人工の花崗岩の土手道で地続きになる。 この様子がフランスの有名な世界遺産モモン・サン=ミッシェルと似ている事から、英国版モン・サン=ミシェルとも呼ばれる。

 

薔薇戦争中期の1473年9月にオックスフォード伯はこの島を占領しヨーク派に抵抗したが敵わずフランスに降伏。 約1650年以来、城と礼拝堂はセントオービン家の所有である。 山頂の初期の建物は12世紀のものである。

 

セント・マイケルズ・マウントは、本土の英国から橋をかけずに歩いて行くことができる43の潮間島の1つである。  島の一部は、その地質学特徴から1995年に自然保護協会特別指定地区に指定された。

 

城郭と教会、全く違う目的で造られますが、歴史を見るといろいろな事が、沢山あります。

                    (20201103纏め #241)

 

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『世界の城郭 11(崖の上の城郭都市・ロンダ)』  ―キリスト教徒とイスラム教徒の宗教戦争に耐え抜いた峡谷の街ー

2020-11-02 23:02:21 | 城・城郭・城塞

『世界の城郭 11(崖の上の城郭都市・ロンダ)』 

―キリスト教徒とイスラム教徒の宗教戦争に耐え抜いた峡谷の街ー

 

スペインは国自体が城郭国家

フランス国境にピレネー山脈(東西に430㎞)、地中海側にはシェラネバダ山脈から丘陵・山岳地帯がロンダまで、地中海沿いに続いており、東西には大西洋と地中海です。 この地理を最大限に活かしたのが8世紀から15世紀まで統治したイスラム帝国です。 

ウキペデイアから引用

 

アルハンブラ宮殿(イスラム帝国の栄華の象徴)

アルハンブラは構造的には一つの城塞都市、アラブ人が農民の反乱軍からの防御壁として築いたものである。 アラブ人の最後の砦がアルハンブラ宮殿であり、地中海に追い落とされないように引いた背水の陣がシェラネバダ山脈からロンダへの防衛ラインであった。

ウキペデイアから引用

 

ロンダの町、スペイン

711年イスラムがイベリア半島に侵入しロンダ王国となりました。 1485年、長期の包囲戦後にアラゴン王フェルナンド2世がロンダを陥落させたことで、イスラム支配は終わります。

ウキペデイアより引用

コルドバ太守国が分解し、タクルンナ県がアブー・ヌールが治める独立王国となった。 この時代に、ロンダの都市としての歴史的な外観の大部分が作られたと考えられている。 アブー・ヌールの息子ナサルが王国を継承後に殺害され、ロンダ王国はセビーリャ太守アル=ムタティードのものとなった。

1485年5月22日に、長期の包囲戦後にアラゴン王フェルナンド2世がロンダを陥落させたことで、ロンダのイスラム支配は終わった。 征服後、イスラム時代に建てられた建物の多くが刷新され、メルカディーリョやサン・フランシスコといった郊外定住地へと市街が拡大していった。 対して、古いアラブ時代の市街はラ・シウダーと呼ばれるようになった。

 

現在の中東・北アフリカ地域に勢力を広げるイスラム国家・ウマイヤ朝の手がイベリア半島に伸びます。最初の襲撃は710年のことでした。 それでも、イベリア半島に住むキリスト教徒による反乱やヨーロッパのほかのキリスト教国からの侵攻が相次ぎました。これらの動きは「レコンキスタ(失地回復)」と呼ばれ、800年近くにわたりました。

ロンダは海抜739ⅿ、ロンダ峡谷は随分深そうに見えますが、およそ150ⅿです。 ロンダ峡谷によって市街地は2つに分断されている。 このうち、峡谷の南側が旧市街で、峡谷の北側が新市街です。 旧市街と新市街は、ビエホ橋(旧橋)やヌエボ橋(新橋)で結ばれている。 ロンダ峡谷を挟んで、キリスト教徒とイスラム教徒が攻防を、8世紀から繰り返したが、1485年5月22日に、長期の包囲戦後にスペイン、アラゴン王フェルナンド2世がロンダを陥落させたことで、ロンダのイスラム支配は終わった。 カスティーリャ王国を中心にキリスト教諸国が統合されて誕生したスペイン王国が、1492年ついにナスル朝を陥落 させ、レコンキスタが終結します。

スペインは、昔も今も、大帝国です。

                    (20201102纏め #240)

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『サントリーニ島、ギリシャ(崖の上の街と歴史と)』  ―サントリーニ島こそ、伝説のアトランティスだとの新説も―

2020-11-01 21:38:26 | 地球・火山・地震・津波

『サントリーニ島、ギリシャ(崖の上の街と歴史と)』 

―サントリーニ島こそ、伝説のアトランティスだとの新説も―

 

サントリーニ島、ギリシャ

ウキペデイアより引用(中央が中央火口丘、周囲がカルデラの海、その外側が外輪山)

 

 

ウエブ情報から引用(写真左側がカルデラの海、右側が外輪山と、外輪山上の街並み)

 

 

ウキペデイアから引用(写真右側がカルデラの海、左側が外輪山と、外輪山上の街並み)

 

サントリーニ・カルデラと呼ばれる、エーゲ海南部に存在するカルデラ。 大部分は海中に没しているが、外輪山に当たる部分としてサントリーニ島。 カルデラの規模は、南北12km、東西7km(日本の箱根カルデラ世界第6位、南北約11km、東西約8kmとほぼ同じ大きさ)。 

 

まだ、世界には大きなカルデラがあります。トップ5;

❶南北約70km、東西約50km  米国のイエローストーンカルデラ

➋南北約100km、東西約32km  インドネシアのトバカルデラ 

❸南北約26km、東西約20km  日本の屈斜路カルデラ

❹南北約25km、東西約18km  日本の阿蘇山カルデラ

❺南北約20km、東西約20km  日本の姶良カルデラ

これらに続くのは、南北約11km、東西約8km日本の箱根カルデラです。

 

1956年7月9日に地震発生、震源はサントリーニ島からほど近い、アモルゴス島。 この時に記録したマグニチュード7.8は、20世紀ヨーロッパ最大の地震として記録されています。 

 

周囲には、外輪山に相当する高さ200mから300mの崖がある。 三日月形のサントリーニ島は白い住居群が崖に沿って建てられており、その景観が観光資源の一つとなっている。 島民はサントリーニ諸島の火山と地震とはうまく共存できています。

 

サントリーニ島内の南部に、ミノア文明下の大規模な港湾都市遺跡・アクロティリ遺跡がある。 1956年、ギリシャの地震学者アンデロス・ガラノパウロスが、サントリーニ島こそアトランティスだとの新説をたてた。

 

日本の阿蘇山も箱根も、外輪山の中のカルデラに町があり、人々が住み、そこに生活があります。ギリシャのサントリーニ島にも、外輪山の稜線や斜面・崖に人々が住み、生活があります。 地球の時間の経過と、人間の時間の経過の時間軸は、異なるようで、上手く共存ができているようです。

                    (20201101纏め #239)

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