原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「不登校」という選択肢

2007年10月02日 | 教育・学校
 別章「就職活動悪戦記」においても既に述べたが、私は基本的に不登校肯定論者である。 
 不登校対策に取り組む場合、学校や教育委員会を主体として考えるのではなく、あくまでも当該子ども本人の人権を守り将来を考えることを主眼として取り組むべきである。ところが現状は、相変わらず学校や教育委員会の権威の方が優先され、子どもの人権や将来性を省みずただひたすら学校へ子どもを戻す方策しか採られていないのだ。このような現実を私は大いに憂慮している。
 我が国では、学校とは誰しもが人生において通り行く場所である。なぜならば、小中学校の学校教育は現行法ではその教育が義務化されているため、一部の特例を除いて子ども達は皆学校へ通うことを強制されているためである。この学校教育法に基づく小中学校義務教育の現状については皆さん既にご存知の通りである。
 ところがこの「学校」という場は、子ども皆を強制的に通わせる所である割には、実は至って特異な場所であると私は思わざるを得ない。外部との接触や交流のほとんどない閉ざされた社会なのである。普段は生徒と教員とその他少数の職員しかいない場所である。たまに参観日や各種行事で生徒の保護者はやって来る。その他は運動会等で来賓や地域の人たちが訪れる以外は誰も来ない場所なのだ。一般家庭以外でこれ程外部の人間が入り込む余地の無い閉ざされた空間は他に類を見ないと言っても過言ではないであろう。外部の人間が入り込まない場であるということは、すなわち多様な価値観が交錯し得ない場であるということを意味する。
 このような閉ざされた空間で、生徒同士、あるいは生徒対教員とのほとんど二者関係のみの世界が、例えば小学校の場合6年間も延々と続くのである。しかも、毎日毎日、朝から夕方まで通い続けるのである。すなわち、成長期の大事な時期に子どもが家族以外に日頃かかわる大人は学校の教員しかいないといっても言い過ぎではないであろう。この子どもが置かれている学校での閉塞感を察した場合、不登校に陥る方がむしろ健全であるようにさえ私は思えてしまう。
 私は元々子どものバランスのとれた成長のためには学校は週3日程度でよく、後は様々な経験をし多様な価値観に触れるために、子どもの個性や能力や好みに応じた学校とは異なる場で子どもが成長できる機会があれば理想的かと考えている。  「不登校」という選択肢は、極論ではあるが子どもが学校以外の場を知り体験するまたとはないチャンスであり、それにより人々の多様な価値観に触れることの出来る絶好の機会であると考える。
 もちろん、現実の「不登校」とは子どもそれぞれに事情があって学校へ行かない事を選択せざるを得ない現象なのであろう。誰も好き好んで「不登校」をしている訳ではなく、小さな心に大きな苦悩を抱えた上での苦渋の選択の結果なのであろう。だからこそ、学校や教育委員会の権威ばかりを優先し、短絡的に子どもを学校へ戻そうとする過ちをこれ以上繰り返さないで欲しいのだ。小中学校は義務教育化されてはいるが、決して学校へ行くということが“アプリオリの善”ではないのである。
 私は不登校対策が主たる業務の小学校の相談員に2度応募して、不登校肯定の見解を明言し2度共不採用となったことについては、既に別章「就職活動悪戦記」で述べた。応募後の集団面談に臨んだ経験から懸念するのは、応募者のほとんどが(教育委員会に迎合しているのか本心なのかは不明であるが)不登校否定の見解をアピールしていたことである。どのような方策を採ると子どもを学校に戻せるかについて皆さん異口同音に熱弁するのである。あの応募者達の中の誰かが相談員に採用されている現実を考えると、私は胸が痛む。 不登校対策に携わる相談員や教員の皆さん、「不登校」対策とは学校という狭い一世界の整合性が取れればよいという短絡的な発想ではなく、どうかくれぐれも当該子どものために行われるべきことを念頭に置き、広い視野での対策をお願いしたいものである。