本ブログ「原左都子エッセイ集」を開設して2ヶ月半が経過した。「たかがブログ、されどブログ…」の書き出しで始めたこのブログであるが、2ヶ月半が経過した今、ブログの存在使命とはいったい何なのか、再び問い直す必要性に私は直面している。
前回9月中旬頃、開設後一週間の時点で「ブログ私観」と題して当時の私が考えるブログの存在使命について述べた。少し振り返ってあの頃の私観をまとめてみよう。ブログのひとつの使命は情報の“公開性”にあると私は考えるが、公開されているブログを拝見すると、全体的に概して“内向的”でありややもすると“閉鎖的”な印象すら受ける。せっかくのブログの“公開性”を活かすためには、その内容に“外に向かって発信する力”が欲しいように感じる。ブログの魅力は自由度の高さでもあるため、その自由度はもちろん尊重しつつ加えてこの“外に向かって発信する力”が備われば公開力のあるブログとなると考える。それとも、そんなつもりは元々なくて、仲間内で楽しむ目的で公開しているブロガーが多いのであろうか。
以上が、当時のブログ私観であった。
さて、ここで私自身のブログ開設の目的を述べると、ブログの表題にも掲げている通りその趣旨は“自己のオピニオンの公開”にある。ここ十年来、新聞雑誌等への投書投稿、各種機関等への意見書提出活動をライフワークとしており、自己のオピニオンを相当数書き溜めている。これをエッセイ集として出版化することを目論んだのであるが、それに先立ち、とりあえずブログの形で綴ってネットで公開してみようと考えたのが本ブログ「原左都子エッセイ集」開設のきっかけであった。
そしてエッセイを綴り続けて2ヶ月半が経過した現在、私がブログの使命だと考えるこの“公開性”がどうも疑わしく感じる今日この頃なのである。
その理由の第一点はブロガー人口の急増である。私が無料で利用させていただいているこのgooだけでも総ブロガー数は90万人を超過している。概算ではあるが、おそらく今や国民の10人に一人はブロガーであるかと思われる。これだけの膨大な数のブロガーが毎日毎日記事を公開いている中、自ずと“公開力”は弱まる。そんな事は重々承知の上だから、聡明な皆さんは“公開力”などには頼らず、仲間内で楽しむことを目的としているのかと妙に納得さえするのである。
“公開力”が疑わしい第二点は、ブログとは“通り過ぎていくもの”である印象が強いためである。(このフレーズはkuisinさんのブログから拝借しました。kuisinさん、無断転用をお許し下さい。)ブログ開設前は、記事は“蓄積”されるものだと私は考えていた。ところが、日々更新のブログの世界では記事は“蓄積”されるのではなく、“通り過ぎていって”しまうのだ。しかもそのスピードが速過ぎて私は取り残されてしまいそうな焦り感すらある。記事の賞味期限はわずか一日しかないのであろうか。ブログを綴ることが“はかなく”“寂しく”すら感じてしまう程だ。記事の“蓄積性”を追求するためには、ブログではなくやはり出版化を選択するべきなのか。
それでも、こんな“はかなさ”“寂しさ”を抱きつつも、とりあえず私はブログを綴り続けるであろう。こんなつたないブログにアクセスして下さり、コメントをいただける読者の方々に支えられつつ…。
たかがブログ、されどブログである。
(時々、バックナンバーにひょっこりコメントを頂戴します。記事がまだ生命を持っていることに気付かせて下さり、ブロガー冥利に尽きます。ありがとうございます。)
前回9月中旬頃、開設後一週間の時点で「ブログ私観」と題して当時の私が考えるブログの存在使命について述べた。少し振り返ってあの頃の私観をまとめてみよう。ブログのひとつの使命は情報の“公開性”にあると私は考えるが、公開されているブログを拝見すると、全体的に概して“内向的”でありややもすると“閉鎖的”な印象すら受ける。せっかくのブログの“公開性”を活かすためには、その内容に“外に向かって発信する力”が欲しいように感じる。ブログの魅力は自由度の高さでもあるため、その自由度はもちろん尊重しつつ加えてこの“外に向かって発信する力”が備われば公開力のあるブログとなると考える。それとも、そんなつもりは元々なくて、仲間内で楽しむ目的で公開しているブロガーが多いのであろうか。
以上が、当時のブログ私観であった。
さて、ここで私自身のブログ開設の目的を述べると、ブログの表題にも掲げている通りその趣旨は“自己のオピニオンの公開”にある。ここ十年来、新聞雑誌等への投書投稿、各種機関等への意見書提出活動をライフワークとしており、自己のオピニオンを相当数書き溜めている。これをエッセイ集として出版化することを目論んだのであるが、それに先立ち、とりあえずブログの形で綴ってネットで公開してみようと考えたのが本ブログ「原左都子エッセイ集」開設のきっかけであった。
そしてエッセイを綴り続けて2ヶ月半が経過した現在、私がブログの使命だと考えるこの“公開性”がどうも疑わしく感じる今日この頃なのである。
その理由の第一点はブロガー人口の急増である。私が無料で利用させていただいているこのgooだけでも総ブロガー数は90万人を超過している。概算ではあるが、おそらく今や国民の10人に一人はブロガーであるかと思われる。これだけの膨大な数のブロガーが毎日毎日記事を公開いている中、自ずと“公開力”は弱まる。そんな事は重々承知の上だから、聡明な皆さんは“公開力”などには頼らず、仲間内で楽しむことを目的としているのかと妙に納得さえするのである。
“公開力”が疑わしい第二点は、ブログとは“通り過ぎていくもの”である印象が強いためである。(このフレーズはkuisinさんのブログから拝借しました。kuisinさん、無断転用をお許し下さい。)ブログ開設前は、記事は“蓄積”されるものだと私は考えていた。ところが、日々更新のブログの世界では記事は“蓄積”されるのではなく、“通り過ぎていって”しまうのだ。しかもそのスピードが速過ぎて私は取り残されてしまいそうな焦り感すらある。記事の賞味期限はわずか一日しかないのであろうか。ブログを綴ることが“はかなく”“寂しく”すら感じてしまう程だ。記事の“蓄積性”を追求するためには、ブログではなくやはり出版化を選択するべきなのか。
それでも、こんな“はかなさ”“寂しさ”を抱きつつも、とりあえず私はブログを綴り続けるであろう。こんなつたないブログにアクセスして下さり、コメントをいただける読者の方々に支えられつつ…。
たかがブログ、されどブログである。
(時々、バックナンバーにひょっこりコメントを頂戴します。記事がまだ生命を持っていることに気付かせて下さり、ブロガー冥利に尽きます。ありがとうございます。)