原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

杉並区立和田中学の悪あがき

2008年01月27日 | 教育・学校
 杉並区立和田中学は妙なことで全国的に名を轟かせてしまったようですね。在籍する生徒、保護者(特に今回の騒動の反対派)の皆さんの複雑なご心中の程お察し申し上げます。

 この報道を当初耳にした時点から、私は何と表現してよいのか戸惑うような違和感と、あまりにも安直で短絡的な教育者たり得ない発想の貧弱さに首をかしげるばかりであった。
 
 この“騒動”の詳細をご存知ない方のために復習してみよう。
 東京都杉並区にある区立和田中学校は、その名の通り公立の中学校である。この“公立”の中学が民間の大手進学塾と提携して一部の“成績上位”在校生のみを対象に学校を開放し、「夜スペ」と称する夜間塾を開講したのである。開講の趣旨は“成績上位者の学力をさらに伸ばす”ところにあるらしい。
 一公立中学のこの奇妙な行動に対し、当然ながら東京都教育委員会は「公教育の観点から疑義がある」として「待った」をかけ、いったん実施は延期された。ところが都教委も意志薄弱である。杉並区教育委員会からの「学校教育外の活動」との回答を容認したのだ。 名目上、主催者を学校ではなくボランティアでつくる「学校支援地域本部」として昨日(1月26日)の開講と相なった、といういきさつである。

 昨日の朝日新聞夕刊報道によると、この“騒動”の実質的な仕掛け人である和田中学の藤原和博校長はリクルート出身であるらしい。現在一部の公立学校で流行の民間企業出身の校長だ。 ははあ、売名行為かな? と勘ぐりたくもなる 。民間出身校長の評判は賛否両論に分かれているが、民間出身者にとって公的機関は居心地のよい職場であるとは言えないのではなかろうか。(私も短期間ではあるが、その経験者である。) 事実過去において複数の民間出身学校長の自殺者も出ているくらいである。あくまで私見であるが、そんな肩身の狭い立場におかれている中、このリクルート出身の藤原校長はご自身の居場所を作るために何とか自己PRを試みようと悪あがきしたのではなかろうか? あるいは、藤原校長とその大手進学塾との間に何らかの癒着でもあるのかとも勘ぐりたくなる。

 この「夜スペ」とやら、一応月謝は取るらしい。ただし、民間の塾の正規の授業料の半額程度であるとのことだが。

 和田中学の「夜スペ」賛同派の保護者の言い分を要約すると、「和田中の今までの活動を知りもせずに今回の開講を批判するのはやめて欲しい。成績不振者には補習等の実施により手厚い保護をしてきているのに対し、成績上位者には何の手立てもしない。そんな成績上位者のために最後の助けとして夜スペを開講したのだ。」とのことである。
 ならば、何も大手進学塾と提携せずとて和田中学の教師による「補習」でよかったんじゃないの? あるいは、ご自身の子どもさんが“成績上位者”であることを自負する保護者の方々、そんなに塾がお好きならば半額などとせせこましい事を言ってないで正規の授業料を払って、個々に子どもさんを民間の塾に入れてあげたらそれで済むのではないのか? 実際、和田中の生徒の中にもこの「夜スペ」を利用せずとも既に個人的に塾通いしている生徒は少数ではないであろう。その人たちとの公平性はどのように考えているのか? とにもかくにもこの話、外部者が聞くと腑に落ちない点が多いのだが。
 
 反対派からも様々な声があがっている。「単に塾の宣伝に利用されている。」「地域本部がやることなら何でも許されるなら、区教委はいらないのではないのか」等々…。

 昨日朝日新聞夕刊の千葉大教授の論評を紹介しよう。「学校とは本来、格差を是正するところ。学校が進学塾を認めて外部委託するなら公教育の将来はない。学校の役割と家庭や地域のやるべきことは何なのかを考えるよいチャンスだ。」

 文中でも私見は述べてきたが、さらにまとめとして私論でこの記事を締めくくろう。
 そもそも“成績上位者”“成績優秀者”って何だろう。そこから考え直すべきではなかろうか。私にとってこの議論がどうも腑に落ちないのは、“進学”という概念に社会全体がとらわれすぎているところに大きな問題があるという考え方からである。子どもにとって人間にとって“いい学校へ行くこと”がそれ程すばらしいことなのであろうか? このブログの教育・学校カテゴリーのバックナンバーをお読みいただければ一目瞭然であるが、私は偏差値偏重教育に感化され過ぎている現状の社会を嘆き続けている。人間の目的は決して“いい学校へいくこと”ではなく、心豊かに暮らすことではないのか。科学、学問、文化等に触れる中でひとりひとりがそれを生活するための糧とし(すなわち労働に結びつけ)、生きることのすばらしさを見出し、心豊かに生きていくことが人間の目標ではないのか。そのためには、子どもの頃に“学習”をすることはもちろん不可欠ではある。
 小中高における公教育の役割とは決して“優等生”の輩出ではなく、学習する意欲の育成であると私は考える。学習する意欲が身についていれば、子ども(人間)は一生に渡り自主的に知識を習得していくものである。指導者はそんな子どもを見守りつつそのサポートをするのがその役割であると私は考える。
 子どもに対し、学習に取り組ませる餌として目先にある“進学”だけを示すという貧弱な発想ではなく、もっとグローバルな視野で公教育を展開できないものなのか…。
 今回の和田中学騒動でも、結局私論の行き着くところはその辺なのである。
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