10月の朝日新聞朝刊「声」欄で、見知らぬ行きずりの人と会話をすることの是非について議論が展開された。
この世にある程度長年生きている私の年代以上の世代の人々にとっては、おそらく行きずりの人と会話をする機会は日常さほど珍しいことではない。そのため、上記のような話題が議論の対象となること自体に、人間関係が希薄で閉鎖的な今の時代を痛感させられるのではなかろうか。
では、まず女子高校生の投書から紹介しよう。
電車内で歴史の勉強をしていると、右隣の年配の男性から「懐かしいなあ。僕も歴史をさんざん勉強したよ」と話しかけられた。一瞬何が起こったか分からなかったが「あっ、そうですか」と答えた。その後意外に話が盛り上がり話し込んだ。楽しかったし、ふとした出会いが嬉しかった。
しかし周りの人々はそうは思わず、私たちが話している間、明らかに男性を警戒していた。知らない者同士が電車の中で語り合う状況は普通は怪しいのであろう。
どうして皆こんなに人と接することを避けるのだろう。ずっと隣合って座る相手とちょっとした会話のひとつもできる状況にない社会は奇妙だ。相手を認識していて、そうでない振りをし合う状況はくすぐったい。日本人は昔からこうだったのか。
以上が女子高校生による投書の要約である。
続いては、子どもをめぐる同種の内容の「声」欄の議論を紹介しよう。
75歳の女性の投書から。
道中小学生の子どもに駅までの道を尋ねると、ひとりの男の子が丁寧に教えてくれた。その時、一緒にいたひとりの女の子が「知らない人と口を聞いてはいけないって言われてるでしょ」と男の子に小声でささやいた。凶悪な事件が頻発している現在、教師や親御さんは毎日子ども達にそのように言い聞かせているのだろうが、可愛い子ども達との会話も出来ず、悲しい気持ちになった。
この投書に対して、子どもを持つ主婦の立場の意見は下記のようだ。
もし我が子がこの女の子同様の発言をしたら悲しく思う。だが、子どもの学校の通学路で女児死体遺棄事件が起きており、保護者は一時も子どもから目が離せない状況だ。今は「優しそうな人でも悪い人かもしれない」と子どもに言うしかない…。
本ブログのバックナンバーのインド旅行記においても既述したが、私にとっては見知らぬ人との出会いとは旅行の醍醐味のひとつである。その出会いのきっかけは笑顔であり会話であった。インドの人々の笑顔のお陰でよい出会いができ、思い出深い旅となったことについてはバックナンバー「見つめるインド人」で語った通りである。
私は基本的に行きずりの人との偶然の出会いが好きな方である。
先だっても地下鉄構内の上りエスカレーターに乗っていると、真後ろの女性が「素敵なスカートですね」と話しかけて下さる。とっさに「ありがとうございます」と答えると、エスカレーターを降りた所で「パンプスも素敵ですね。私もそんな格好がしたいの」と返してくれ、その後その女性と同方向に二人で並んで歩きつつファッション談議がしばらく続き、曲がり角で別れた。思いがけなく楽しい一時であった。
かつては子どもを連れていると、年配の女性がよく声をかけてくれたものである。私は必ず丁寧に返答をするため、長い立ち話に発展する事はよくあった。笑顔で話していると子どもも喜んで会話に同調してきて、可愛がってもらえたものだ。
さて、朝日新聞「声」欄の投書に話を戻そう。
昨今、子どもが犠牲になる事件が多発している現状を考慮すると、特に小学生位までの若年の子ども達に対する危機管理教育は重要で不可欠である。保護者として「優しそうな人でも悪い人かもしれない」と子どもに諭すのはやむを得ないこととも判断できる。
一方で、子ども自身の判断能力に委ねられる年齢に子どもが達したならば、危機管理の基本教育は貫きつつ、子どもの判断に任せる余地が出てきてもよいのかもしれない。
その場合の前提となるのは、小さい頃から保護者が子どもと共に行動することであろう。見知らぬ人とのコミュニケーションを親子で体験することが、子育て上不可欠と私は考える。もしも、保護者自身が頭から見知らぬ人は悪人、あるいは“自分には何の関係もない人”と捉えて接触を避けていると、子どもも将来同様の行動をとる可能性が高くなるのではなかろうか。その場合、せっかくのすばらしい人との出会いのチャンスも失うこととなり、人間関係の希薄化に拍車がかかり、今以上にギスギスした社会になってしまうことが予想される。そして、そのような閉鎖的な社会からの疎外感を感じて孤立する人々が増え、犯罪も増えていくという悪循環に陥っているのが現在の社会の構図なのではなかろうか。
上記の投稿者の女子高校生は、見知らぬ人に対するとっさの人物判断能力が十分に備わっているのではないかと察する。投書文を読む限り、電車の中での行きずりの男性との有意義な一時を十分に共有できている。
見知らぬ人との偶然の出会いを楽しい、嬉しいと感じられる心を育てているこんな女子高校生がいることが、私にとっては今時とても嬉しい発見である。
投書者の女子高校生さん、昔の日本には人間関係において平和な時代もあって、日本人は意外とフレンドリーで、見知らぬ行きずりの人々といい人間関係を築いていたものですよ。そんなすばらしい文化を若い世代にも受け継いで欲しいとも私は思っています。
この世にある程度長年生きている私の年代以上の世代の人々にとっては、おそらく行きずりの人と会話をする機会は日常さほど珍しいことではない。そのため、上記のような話題が議論の対象となること自体に、人間関係が希薄で閉鎖的な今の時代を痛感させられるのではなかろうか。
では、まず女子高校生の投書から紹介しよう。
電車内で歴史の勉強をしていると、右隣の年配の男性から「懐かしいなあ。僕も歴史をさんざん勉強したよ」と話しかけられた。一瞬何が起こったか分からなかったが「あっ、そうですか」と答えた。その後意外に話が盛り上がり話し込んだ。楽しかったし、ふとした出会いが嬉しかった。
しかし周りの人々はそうは思わず、私たちが話している間、明らかに男性を警戒していた。知らない者同士が電車の中で語り合う状況は普通は怪しいのであろう。
どうして皆こんなに人と接することを避けるのだろう。ずっと隣合って座る相手とちょっとした会話のひとつもできる状況にない社会は奇妙だ。相手を認識していて、そうでない振りをし合う状況はくすぐったい。日本人は昔からこうだったのか。
以上が女子高校生による投書の要約である。
続いては、子どもをめぐる同種の内容の「声」欄の議論を紹介しよう。
75歳の女性の投書から。
道中小学生の子どもに駅までの道を尋ねると、ひとりの男の子が丁寧に教えてくれた。その時、一緒にいたひとりの女の子が「知らない人と口を聞いてはいけないって言われてるでしょ」と男の子に小声でささやいた。凶悪な事件が頻発している現在、教師や親御さんは毎日子ども達にそのように言い聞かせているのだろうが、可愛い子ども達との会話も出来ず、悲しい気持ちになった。
この投書に対して、子どもを持つ主婦の立場の意見は下記のようだ。
もし我が子がこの女の子同様の発言をしたら悲しく思う。だが、子どもの学校の通学路で女児死体遺棄事件が起きており、保護者は一時も子どもから目が離せない状況だ。今は「優しそうな人でも悪い人かもしれない」と子どもに言うしかない…。
本ブログのバックナンバーのインド旅行記においても既述したが、私にとっては見知らぬ人との出会いとは旅行の醍醐味のひとつである。その出会いのきっかけは笑顔であり会話であった。インドの人々の笑顔のお陰でよい出会いができ、思い出深い旅となったことについてはバックナンバー「見つめるインド人」で語った通りである。
私は基本的に行きずりの人との偶然の出会いが好きな方である。
先だっても地下鉄構内の上りエスカレーターに乗っていると、真後ろの女性が「素敵なスカートですね」と話しかけて下さる。とっさに「ありがとうございます」と答えると、エスカレーターを降りた所で「パンプスも素敵ですね。私もそんな格好がしたいの」と返してくれ、その後その女性と同方向に二人で並んで歩きつつファッション談議がしばらく続き、曲がり角で別れた。思いがけなく楽しい一時であった。
かつては子どもを連れていると、年配の女性がよく声をかけてくれたものである。私は必ず丁寧に返答をするため、長い立ち話に発展する事はよくあった。笑顔で話していると子どもも喜んで会話に同調してきて、可愛がってもらえたものだ。
さて、朝日新聞「声」欄の投書に話を戻そう。
昨今、子どもが犠牲になる事件が多発している現状を考慮すると、特に小学生位までの若年の子ども達に対する危機管理教育は重要で不可欠である。保護者として「優しそうな人でも悪い人かもしれない」と子どもに諭すのはやむを得ないこととも判断できる。
一方で、子ども自身の判断能力に委ねられる年齢に子どもが達したならば、危機管理の基本教育は貫きつつ、子どもの判断に任せる余地が出てきてもよいのかもしれない。
その場合の前提となるのは、小さい頃から保護者が子どもと共に行動することであろう。見知らぬ人とのコミュニケーションを親子で体験することが、子育て上不可欠と私は考える。もしも、保護者自身が頭から見知らぬ人は悪人、あるいは“自分には何の関係もない人”と捉えて接触を避けていると、子どもも将来同様の行動をとる可能性が高くなるのではなかろうか。その場合、せっかくのすばらしい人との出会いのチャンスも失うこととなり、人間関係の希薄化に拍車がかかり、今以上にギスギスした社会になってしまうことが予想される。そして、そのような閉鎖的な社会からの疎外感を感じて孤立する人々が増え、犯罪も増えていくという悪循環に陥っているのが現在の社会の構図なのではなかろうか。
上記の投稿者の女子高校生は、見知らぬ人に対するとっさの人物判断能力が十分に備わっているのではないかと察する。投書文を読む限り、電車の中での行きずりの男性との有意義な一時を十分に共有できている。
見知らぬ人との偶然の出会いを楽しい、嬉しいと感じられる心を育てているこんな女子高校生がいることが、私にとっては今時とても嬉しい発見である。
投書者の女子高校生さん、昔の日本には人間関係において平和な時代もあって、日本人は意外とフレンドリーで、見知らぬ行きずりの人々といい人間関係を築いていたものですよ。そんなすばらしい文化を若い世代にも受け継いで欲しいとも私は思っています。