「時間」とは不思議な観念として空間と共にこの世に存在している。
いや、「時間」なんてもしかしたらそもそもこの世に存在しないのかもしれない。少なくとも、人それぞれに、また場面によって、相対的な存在なのではなかろうか。
愛おしい恋人と過ごす時には「時間」の存在を恨みたくもなる。誰しも「時間」を止めて、いつまでも二人だけで同じ空間を共有し続けたい思いであろう。
さて、11月14日(金)朝日新聞夕刊の“こころ”のページの“悩みのレッスン”の今回の相談は、この「時間」を巡る相談である。
早速、15歳女子中学生の「時間制限は必要?」と題する相談内容を以下に要約してみよう。
私は数学の試験が苦手だ。別に数学が嫌いな訳ではないし難しい問題も解けるのだが、試験になると上がってしまって実力が出し切れなかったり、また、分かっていたのに時間がなくて解けないことも多々ある。
数学者などは難しい問題をとても長い時間をかけて研究している。人間には自分が死ぬまでという時間の制限はある。だが、数学などは10分で解いても3日で解いても、解いたということには変わりはないと思う。数学に時間制限は必要なのか。
以上が、女子中学生の相談内容の要約である。
これに対する、創作家の明川哲也氏の回答を以下に要約する。
素晴らしい。その疑問に至ったあなたは百点を取ったことで満足している人よりはるかに世界が見えている。学校とは本来、生きていく知恵を養う場所である。環境が激変しても難題が降りかかっても生きていける力とは、つまり、ひとつのことをあらゆる方向から見られる複眼的視野であり、そこに自分の活路を見い出せる能力である。数学をやるのもそのためだ。
時間に関係なく数学に浸ればいいのではないかと気付いたあなたは、ひとつの自分の生き方を見つけ出している。生き方や価値観は与えられるものではなく、自分で切り開いていくものだ。試験はしょせん遊戯なのだと割り切り、気に入った学問をとことん追及して欲しい。
以上が、明川氏の回答である。
本ブログにおいて以前より何度も既述している通り、私は明川哲也氏のファンである。なぜならば、僭越ではあるが私の思考回路が明川氏とよく似ているためだ。
今回の明川氏の回答も、まさしく私の見解と一致する。
私事になるが、我が子は決して知的レベルが低くはなく、理解力や記憶力等の学習能力も決して劣っている訳ではないのだが、物事への取り組みがマイペースなところがあるため、過去においてこのマイペースを学校やその他子どもがかかわった機関から指摘され続けてきている。
親である私は、元より人間の体内時計は人それぞれであると認識しているため、普段は我が子のペースを尊重しつつ教育育児に臨んでいる。
だが悲しいかな、学校という集団内では学校が定めた(根拠の乏しい)時間配分に収まりきらない子どもは“逸脱児”とみなし、学校が定めた時間に収まりきれる“通常児”になれるよう指導教育しなければならないという使命に燃えているようだ。
これは「時間」に関する複眼的な視野を持つと自負する私のような人間から見た場合、正直言って迷惑とも言える話だ。 学校には表向きは「ご迷惑をお掛けします」と頭を下げ教員の機嫌を損ねないよう重々配慮しつつ、我が子の持って生まれた個性や将来の可能性を潰されることのないよう、我が子と学校の間に入って常に調整役に徹しざるを得ない私である。
そのような私的事情も抱えている私は、この朝日新聞の投書者の15歳の女子中学生はこの年齢で既に「時間」に対する複眼的な視野を育てていて、明川氏の回答同様に十分素晴らしいと感じる。
まさに明川氏のおっしゃる通り、生き方や価値観は他者から与えられるものではなく自分で切り開いていくものだ。
人それぞれの体内時計を大切に育みつつ、特に将来のある若い世代の人々には、気に入った学問を時間の許す限りとことん追及したり、愛おしい恋人と時間を超越した満たされる空間を分かち合ったりして欲しいと願う私である。
いや、「時間」なんてもしかしたらそもそもこの世に存在しないのかもしれない。少なくとも、人それぞれに、また場面によって、相対的な存在なのではなかろうか。
愛おしい恋人と過ごす時には「時間」の存在を恨みたくもなる。誰しも「時間」を止めて、いつまでも二人だけで同じ空間を共有し続けたい思いであろう。
さて、11月14日(金)朝日新聞夕刊の“こころ”のページの“悩みのレッスン”の今回の相談は、この「時間」を巡る相談である。
早速、15歳女子中学生の「時間制限は必要?」と題する相談内容を以下に要約してみよう。
私は数学の試験が苦手だ。別に数学が嫌いな訳ではないし難しい問題も解けるのだが、試験になると上がってしまって実力が出し切れなかったり、また、分かっていたのに時間がなくて解けないことも多々ある。
数学者などは難しい問題をとても長い時間をかけて研究している。人間には自分が死ぬまでという時間の制限はある。だが、数学などは10分で解いても3日で解いても、解いたということには変わりはないと思う。数学に時間制限は必要なのか。
以上が、女子中学生の相談内容の要約である。
これに対する、創作家の明川哲也氏の回答を以下に要約する。
素晴らしい。その疑問に至ったあなたは百点を取ったことで満足している人よりはるかに世界が見えている。学校とは本来、生きていく知恵を養う場所である。環境が激変しても難題が降りかかっても生きていける力とは、つまり、ひとつのことをあらゆる方向から見られる複眼的視野であり、そこに自分の活路を見い出せる能力である。数学をやるのもそのためだ。
時間に関係なく数学に浸ればいいのではないかと気付いたあなたは、ひとつの自分の生き方を見つけ出している。生き方や価値観は与えられるものではなく、自分で切り開いていくものだ。試験はしょせん遊戯なのだと割り切り、気に入った学問をとことん追及して欲しい。
以上が、明川氏の回答である。
本ブログにおいて以前より何度も既述している通り、私は明川哲也氏のファンである。なぜならば、僭越ではあるが私の思考回路が明川氏とよく似ているためだ。
今回の明川氏の回答も、まさしく私の見解と一致する。
私事になるが、我が子は決して知的レベルが低くはなく、理解力や記憶力等の学習能力も決して劣っている訳ではないのだが、物事への取り組みがマイペースなところがあるため、過去においてこのマイペースを学校やその他子どもがかかわった機関から指摘され続けてきている。
親である私は、元より人間の体内時計は人それぞれであると認識しているため、普段は我が子のペースを尊重しつつ教育育児に臨んでいる。
だが悲しいかな、学校という集団内では学校が定めた(根拠の乏しい)時間配分に収まりきらない子どもは“逸脱児”とみなし、学校が定めた時間に収まりきれる“通常児”になれるよう指導教育しなければならないという使命に燃えているようだ。
これは「時間」に関する複眼的な視野を持つと自負する私のような人間から見た場合、正直言って迷惑とも言える話だ。 学校には表向きは「ご迷惑をお掛けします」と頭を下げ教員の機嫌を損ねないよう重々配慮しつつ、我が子の持って生まれた個性や将来の可能性を潰されることのないよう、我が子と学校の間に入って常に調整役に徹しざるを得ない私である。
そのような私的事情も抱えている私は、この朝日新聞の投書者の15歳の女子中学生はこの年齢で既に「時間」に対する複眼的な視野を育てていて、明川氏の回答同様に十分素晴らしいと感じる。
まさに明川氏のおっしゃる通り、生き方や価値観は他者から与えられるものではなく自分で切り開いていくものだ。
人それぞれの体内時計を大切に育みつつ、特に将来のある若い世代の人々には、気に入った学問を時間の許す限りとことん追及したり、愛おしい恋人と時間を超越した満たされる空間を分かち合ったりして欲しいと願う私である。