原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

座るインド人

2008年11月06日 | 旅行・グルメ
(写真は今回のインド旅行前半の現地ガイドのサキール・カン氏)

 悲しいかな、インドの一般庶民の日々の暮らしは想像を遥かに超えて貧しいようだ。そして、10億を超える国民の中のごくごく一部の富裕層と一般庶民との貧富の格差の大きさたるや、旅行者の立場から1週間のみ垣間見ただけでも嘆かわしいものがある。この格差をほんの少しでも埋める政策をインド政府は採っているとも見て取れないどころか、戸籍制度もなさそうであるし(?)、正確な人口統計すら実は存在しないのではないかと推察してしまう。

 今回の旅行記では、そのように野放図に国土に放り出されているインド庶民の暮らしぶりを、一旅行者として見てきたまま感じたままに綴ってみることにしよう。


 インド到着後の2日目の朝、宿泊ホテルをTATA車で出発後真っ先に気が付いた事は、沿道にいる多くの人々の中に学校へ通っているべくはずの子ども達がたくさん混じってうろついていることである。
 早速私はガイドのサキール氏に「この子ども達は学校へ行っていないのか?」と訪ねると、案の定学校へは通っていないとの返答である。どうやら、インドの貧民層のほとんどの子ども達は学校へ通っていない様子である。そして、働いたり観光客や富裕層にお金や食料をねだるのがこの子達の日々の日課であるようだ。

 仕事に出かけていると思しき大人たちが、富裕層は車やバイクで、貧民層はバスや小型簡易三輪車型タクシー、自転車タクシー等に大勢で相乗りしたり、道端でヒッチハイクをしてどこかに向かっている姿は見られる。どういう訳か、この“通勤風景”は朝夕のみではなく終日見られるのだ。私の推測では、定職を持っている人は少なく、“その日暮らし”のために日雇いやその場限りの仕事を見つけるため移動しているものと察する。
 道端の屋台等で衣類や果物等の食料販売の商業を営んでいる人々や、畑で農作業に励む人々の姿も目にする中、道端にただただ座り込んでいるインド人の姿が多いのがやたら目に付く。

 この“座るインド人”の存在が私にとっては何とも不思議だ。子ども達のようにお金や食料をせびりに来る訳でもなく、ただただ座って無表情に時間を過ごしているのだ。
 おそらく何とか食いつないで生命だけはあるのだが、仕事もお金もなく、教育を受けていないがために目標を持つということすら知らず、ただ命を持続させているだけの存在なのであろう。その姿は申し訳ないが、回りにいる牛や馬やラクダや象が座って休む姿と重なってしまう。 動物達はまだしも人間によって労働を強要されたり、乳を搾り取られたりして“社会貢献”している一方で、この“座るインド人”は社会貢献の機会さえ与えられることもなく、何とも哀れに私の目には映る。

 
 今回の現地ガイドのサキール氏などは、富裕層の部類である。富裕層とは代々裕福であるようだ。サキール氏の場合、ご自身がずっとプライベートスクールの教育を受けてきているそうだ。インドには公教育も存在するらしいのだが教育レベルが至って低いために、富裕層は皆プライベートスクールへ通うとのことである。例えば公教育ではすべてがヒンズー語での授業であるらしいのだが、プライベートスクールでは英語が基本であると言う。子どもの頃から英語教育を受けないことには、将来インドの上流社会で太刀打ちできないとのことである。そういう訳でサキール氏の7歳の息子さんも現在プライベートスクールに通っているという。


 このインドの世襲による格差社会を打破する環境さえインドにはなさそうに私の目には写る。貧民層の中からリーダーシップを取れる人材が出現して革命でも起こして下克上に乗り出しても良さそうなものだが、どうやらその基盤すらなさそうなのだ。 
 現在のインドの政策のように、ごく一部の富裕層の子どもの教育の強化、ひいてはIT産業の増強や原子力開発に走るのも国力の世界への誇示の一手段であることは認める。 だがそれ以前にインド政府が着手するべきなのは、例えば中国のように「一人っ子政策」でも採用してまずは人口の今以上の増加を食い止めるのが最優先ではないのだろうか。その上で原点に立ち戻って、インドで生命を受けた全人民のために、まずは教育の充実等のボトムアップ政策を展開することを願うのは私だけなのであろうか。


 ただただ座って一日を過ごすということは生命の原点であり、もしかしたらすばらしい生き方であるのかもしれない。
 だがもう一歩進んで、インドに生きる全人民が教育や文化を少しでも享受できる日の到来を願う私でもある。
Comments (10)