原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「同じ」であることの認識

2009年02月03日 | 学問・研究
 朝日新聞の連載ものの中に、有識者が学校を訪れて授業を行うシリーズがあるのだが、その1月31日(土)の記事の中で、解剖学者の養老孟司氏による熊本県立高校での授業の様子が掲載されていた。
 
 「同じ・違う どこでキャッチ」と題するこの養老氏による授業の記事が何とも興味深いのである。私もこの授業に高校生と一緒に出席してみたかった思いをそそられる。


 さっそく、この授業の様子をレポートした朝日新聞記事を、以下に要約してみよう。

 「君たち、僕の話を聞いているうちに居眠りし始めるだろう。で、ハッと起きたとき、どうして寝る前と同じ自分だってわかるのかな?」
 「意識には『同じ』と認識する働きがある。」だから目覚めても「寝る前と同じ私」と思う。また、色や形が違うものを「同じ種類の果物」として(例えば)「リンゴ」という言葉でくくれたり、モノの価値をお金という尺度で表して等価交換できるのも、この働きのおかげだ。
 一方、個々のリンゴの違いに気付くのは感覚の働きによる。人間はその違いに気付いた上で、「同じリンゴ」と概念化してくくることができる。
 身を乗り出して養老氏の授業を聞いていた男子生徒が、「民話『わらしべ長者』は、わら1本から次々と物々交換して大金持ちになる話ですが、あの交換は人々の意識の中で等価交換じゃないのでは。」と質問した。
 それに答える養老氏。「交換は等価でこそ成り立つという意識があるから、あの話は面白いんだ。」
 「意識には秩序を好み、行き当たりばったりを嫌う、という性質もある。例えば環境問題においても、「部屋の温度を一定に」という秩序を実現するために空調に頼り、ひいては石油の消費が供給を上回り、究極のオイルショックが訪れる。どうするか。「考えるのは君たち」「石油に任せている仕事を人間が取り戻すこと」と養老氏はアドバイスする。
 「要は意識に支配され過ぎないこと」との、この授業における養老氏の提案である。

 養老氏の授業内容も興味深いのだが、あっぱれなのは、この授業の前半部分で『わらしべ長者』の民話を持ち出して“等価交換”について質問した男子高校生である。 解剖学の権威であり、思想、執筆界における日本の第一人者を相手に、この男子生徒は十分に対等に渡り合えていると私は見た。
 今の混沌とした時代にこんなすばらしい高校生が育っていることに、私は勇気を与えられた思いである。


 ここでちょっと休憩して、「わらしべ長者」の話を少しだけ紹介してみることにしよう。
 
 ある一人の貧乏人の男が旅に出た。その貧乏人の男は石につまずき転んで偶然1本のわらしべ(ワラ)をつかんだ。そのわらしべの先にアブが止まったのを男はわらしべの先に結びつけた。
 男が歩いていると、アブを結びつけたわらしべを男の子が欲しがり、男の子の母の「ミカンと交換しましょう」という申し出の交換条件に男は従った。
 さらに歩くと、今度はその「ミカン」を欲しがる喉が渇いている男に出くわし、男の所有する「布」と交換した。
 次は、倒れた馬を見捨てようとする侍と出会う。貧乏人の男は、その「倒れた馬」と自分が持っている「布」との交換を申し出て、先を急いでいる侍の家来はそれに従う。男は川から水をくんできて馬に飲ませたら馬は回復した。
 その馬と共にさらに進むと、大きな屋敷があった。中から主人が出てきて、旅に出たいのでその馬が欲しいと言う。主人は3年間帰って来なかったらこの屋敷は男のものだと言い残し、馬に乗って旅に出た。
 男はその屋敷で裕福に暮らしたとさ。

 なるほどねえ。 養老氏のおっしゃる通り「わらしべ長者」物語では確かに“等価交換”が成り立っている。
 現実社会においては、この貧乏人の男のような奇跡的とも言える“等価交換”が連続し続けるほどの幸運と巡り合えることはまず皆無であろう。

 それはそうとして、この男子高校生のとっさの質問は、日本に名立たる有識者をも唸らせたことには間違いない。

 今回の私の記事では、養老氏による授業の前半部分に絞り込んで取り上げてきた。
 それにしても「同じ」であることを認識できる人間の意識の働きとは、生命を保つ上で欠かせない機能である。
 「わらしべ長者」のような幸運な“等価交換”が続くことは今の時代期待できそうもないが、昨日も今日も明日も私が「私」として存在できる認識力が、「私」というひとつの生命体の内部に備わっていることに感謝したいものである。

 人体とは、もしかしたら遠い昔に神と“等価交換”した生命体であるとも言えるほどすばらしく普遍な存在ではなかろうか。
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