原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

哲学者でありたい

2009年02月20日 | 自己実現
 日本の著名な哲学者として真っ先に私の頭に浮かぶのは、和辻哲郎氏である。
 私が哲学を哲学として認識し得るようになった当初の30歳代の学生時代の「倫理学」の授業において、“倫理学の命題をひとつ取り上げ、それについて論ぜよ”という小論文課題を課せられたことがある。私はその命題として“善”を取り上げたのであるが、その際に、和辻哲郎氏の著書「人間の学としての倫理学」を参考文献の一つとして参照させていただいている。
 先程、書棚からこの本を引っ張り出してみると、赤線が沢山引かれていて、哲学に燃えはじめていた若かりし頃の自分の姿が蘇り、当時への郷愁に駆られる思いである。

 同時に思い出すのが、磯野友彦氏である。磯野氏は当時早稲田大学の名誉教授でいらっしゃったと記憶しているが、我が大学には80歳代の高齢にしてご本人の希望で非常勤講師として通われ、「近代哲学」の授業を担当しておられた。
 私は30歳代で遅ればせながら哲学に目覚め、当時の自分の専門ではない哲学関連の授業をはしごしていたのであるが、恥ずかしながら磯野氏の哲学における専門もよく把握せずして授業を受講させていただいた。
 この磯野氏が、知る人ぞ知る著名な哲学者であることを私が知ったのは受講し始めてから後のことである。著名な哲学者である磯野氏の授業を聴くために学内から学部を問わず“哲学マニア”が数人集まってきていて、その受講生の情報から私は磯野氏の哲学的背景を初めて知ったといういきさつである。
 ところが、磯野氏の体調がすこぶる悪く、いつも杖を頼りに歩いてこられては椅子に座り息を整えられる。5、6名の少人数の受講のため授業は小教室で行われていたのであるが、毎講義ごとに先生は「少し待って下さい」とおっしゃって、咳き込み始められる。受講生としては見かねて皆が口々に「先生大丈夫ですか?」と心配しつつ授業の始まりを待つのであるが、女性の私など背中でもさすって差し上げた方がいいのか、と毎時間気をもんだものである。授業中も同様に咳き込まれて中断し、その都度丁寧に「申し訳ありません…」と謝られていた。
 このような磯野氏の健康上の事情により休講も多かったのであるが、大変残念ながら年度の途中で亡くなられてしまい、授業は磯野氏の弟子の哲学者の先生にバトンタッチされた。ご自分の命をかけて、人生の最後の最後まで学生に哲学を語ろうとされた磯野氏の姿は今尚私の脳裏に鮮明に焼き付いている。
 その磯野氏が一番最初の授業でおっしゃった言葉は「人生を生きる中に哲学あり」であった。


 さて前置きが長くなってしまったが、朝日新聞2月13日(金)夕刊“悩みのレッスン”の今回の相談は、14歳の女子中学生による「哲学者の定義は?」であった。早速この相談内容を以下に要約して紹介することにしよう。
 私は哲学が好きで、哲学の本を読んだり自分なりの思いに浸ったりするが、自分とは何者かとか、悲しさはどこから発生してくるのかとか、生きることや死ぬことの意味を考える。そこで疑問なのは、哲学者という肩書に定義はあるのかということである。大学や研究室に入ればそう呼ばれるのか、論文を発表して認められたらなのか、それとも自分が哲学者だと思ったら哲学者なのか…。また、考える時の苦悩や喜びなどはどんなものなのか?
 以上が女子中学生の相談の内容である。

 ここで一旦私論に移るが、この相談コーナーの相談はいつも“すばらしい”の一言に尽きる。今回の相談も中学生にして既に哲学に目覚め、哲学の本を読み、自分とは何者か、生きること死ぬこと等に思いを馳せ、哲学者の定義とは何かと模索する… それでもう十分に哲学者たり得るのではないかと、私など頭が下がる思いである。
 現在はプラスの意味合いでも情報を入手し易く学問的環境も整っている時代であり、本人に受容能力さえあれば若い頃から哲学をはじめ様々な学問に存分に触れることができることを、この相談を読むと実感させてもらえる。私が若かりし当時は、学問に触れる手段としては書籍か大学で学ぶしか選択肢のない時代で、30歳代にして哲学に目覚めた私など、羨ましくさえ感じる相談内容である。


 今回の“悩みのレッスン”の回答者は哲学者の森岡正博氏である。以下に回答内容を要約しよう。
 哲学者の肩書きに定義はない。自分とは何か、生と死といった問題に、徹底して自分の頭で考え続けていくことができれば、あなたはもう哲学者だ。哲学者になるためには何の資格も要らない。極端な話「私は哲学者である」と宣言しさえすれば誰でも哲学者になることができる。
 哲学の愛すべきところは、世間の価値観からまったく自由になって、物事を突き詰めて考えることができる点である。たとえば、我々は過去・現在・未来と時間が流れると思っているがそれを疑う哲学者もいる。存在するのは「いま」だけで、その他はすべてまぼろしだと言うこともできる。
 自分自身の生にとってもっとも大切な問題を、狂気のように追求せざるを得ないのが哲学者の苦悩であり、また喜びなのだ。
 以上が、哲学者森岡氏の回答である。


 哲学の話からはずれるが、この私も何歳になっても決して周囲に流されて“右にならえ”で生きたいとは思わない。如何なる事象であれ、自分自身で分析し状況判断し深く思慮し模索して結論を導きながら、苦悩と喜びを自分のものとして実感しつつ、納得して我が人生を生き長らえたいものである。
 そういう意味で、私は今後共“哲学者”であり続けたい。
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