原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

指導者の愚かさを超えて子どもは成長する

2010年06月15日 | 教育・学校
 少し前の朝日新聞「声」欄に、11歳の小学生が学校での出来事を綴った内容の投書が掲載されていた。

 学校なんて過ぎ去ってみれば取るに足りない存在であるのが事実だが、この11歳小学生の投書は、大の大人の私にインパクトをもって自らの“無念”を訴えかけてきたのである。


 早速、6月5日朝日新聞「声」欄の 「顔をふせて手を挙げたのに」 と題する小学生の投書を以下に要約して紹介しよう。
 秋の運動会のこてき隊の曲はいつもは6年生が選ぶのに、今年は先生が決めた。やりたくない曲なので、もう一度賛成と反対を顔をふせて手をあげて先生が多数決をとった。私も反対に手をあげたが、こんなときにそうできるのは勇気ある意志の強い人だと思う。 音楽の先生から、やりたくない人は次の日楽ふを持ってきてと言われ、家でおかあさんとお兄ちゃんも手伝ってくれて10曲くらい紙に書いた。おかあさんは仕事で夜話したので、楽ふは用意できなかった。 次の日、授業の途中で音楽の先生に反対した人が呼ばれ、楽ふを持っていかなかったのできついことを言われた。 教頭先生とも話したが、曲を変える気はないんだと思って帰ってきた。 最後の運動会なのに楽しくないし、(音楽の先生が選んだ)曲が使われているテレビ漫画ももう見たくない気持ちだ。


 私論に入ろう。

 上記「声」欄の投稿は、現在の学校現場において日常茶飯事とも言える“軽率な教員”と生徒間のトラブルの一幕が綴られた文面に過ぎないのであろう。
 ところが、この投書が何故に私にとってインパクトがあるのかと言うと、この生徒はわずか11歳にして学校内での出来事における自らの無念さを新聞投稿という手段で十分表現している一方で、教員の対処の理不尽さを端的に指摘出来ているからである。


 ここで私事になるが、この小学生の投書を読んで自らの小学6年生時の学芸会の出来事がフラッシュバックした原左都子なのである。
 私は幼少の頃より“世の理不尽さ”を“不快感”として認識する感覚が強かったように思うのだが、第ニ次反抗期の小6時点でそれが爆発するがごとくの行動を担任相手に取ったのだ。
 学校の担任が自分の好みの生徒を“えこひいき”するのは、今となって思えば世の常であろう。 この私も小中高時代において教員からどちらかと言えば“えこひいき”される側の立場にあったのではないかとも認識している。 ところが小学6年頃第ニ次反抗期を向かえた私は、それに“反旗を翻す”行動に出たのである。
 小6の3学期の“卒業記念学芸会”直前の国語の時間に作文課題が課せられたのだが、私は果敢にもそのテーマとして「教員は“えこひいき”をしてはならない」云々と題し、未熟ながらも教員の“えこひいき”に対する批判を展開したのである。  その作文に大いに怒った女性担任が私を吊るし上げ、クラス全員の前で「先生(自分のこと)が誰を“えこひいき”しているか皆の前で言いなさい!!」と迫ったのだ。 わずか12歳の未熟な私は、やめときゃいいのに「○○さんです…」と生徒本人がいる前で直言するしか手立てがなかったものだ…
 その“卒業記念学芸会”に於いて、当初私は主要な配役をもらっていた。 ところが、上記の担任批判作文をきっかけに私はその他大勢の“花役”に回された挙句、主役である“担任えこひいき○○さん”に土から引き抜かれ命を絶つ花の役回りとなったのである。 その措置を担任からの“いじめ”と即座に認識することができた私は一瞬辛い思いを味わったものの、(この役、結構目立つぞ!)と気持ちを入れ替え、卒業生保護者と教職員、在校生一同の前で花の命を絶って倒れこむ演技に集中したものである。
 その後中学生となった私は、通学路で小学校へ通勤途中の上記小6時代の担任と何度かすれ違うのだが、こちらから挨拶しようと試みてもその元担任がいつも私を睨みつけていたのが子ども心に印象的である。 それ程に、わずか12歳の私の“反逆”に元担任は大いなる痛手を受け、出来れば私の命を絶ちたい程に根に持ち続けていたのであろう。


 朝日新聞「声」欄の投稿に話を戻そう。

 投稿者である現在11歳のあなたの今回の“無念”は原左都子にもよく理解できるよ。 「楽譜を持って来い」と音楽教員から言われたって、いくら音楽に精通した家庭であろうと次の日には無理だよね。 かと言って、後日楽譜をその音楽教員に持参したものなら、その教員の力量の程を推測するにもっと嫌みったらしい事態になっただろうしね…。 一方、教頭に関しては、音楽教員を弁護することによりトラブルを回避することにしか脳がないのだろうとも考えられるよね。
 あなたの音楽の先生は自分が決めた楽曲に逆らう生徒が鬱陶しかったのかもしれないし、あるいは秋の運動会まで時間がなくて焦っていたのかもしれない。 後者だったとするならば、生徒の指導者たる教員はもっと早くから例年通り6年生に楽曲を決めさせるべく計画的に行動するべきだよね。

 まあ、学校の教員を含めた大人の世界の実態とは、どこの分野も所詮そのレベルでしかないのだけど…。 (国政も含めてね。

 いずれにしても、今回の学校内での出来事に関して未だ11歳のあなたには何の落ち度もないことは確かだよ。
 今回あなたが学校の教員が取った理不尽な態度に対して抱いた不信感と無念さ、そしてその思いを新聞に投稿できた事実こそが、きっと将来大人になっていくあなたの支えとなり人格形成の一助となるに違いないと原左都子は信じているよ。
               
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