ワールドカップサッカーが南アフリカにおいて開催されている真っ最中にこんな記事を公開すると、「非国民!!」とのバッシングが殺到しそうで多少恐怖心もあるが、何分サッカーに関してド素人が綴る単なる“たわ言”記事である故に、どうか大目に見てお許しいただきたい思いの、いつになく弱気な原左都子である。
正直に言うが、私はサッカーを好まない。
いや、もっと正確に言うと、決してサッカーという競技自体が嫌いな訳ではない。
そうではなく、あのサポーターとやらの団体応援団(日本の場合は原左都子名付けて“青服日の丸軍団”がそれに当てはまる)が私にとっては目障り極まりないのである。
サッカー競技自体は私も中学校の頃体育の時間に経験している。 運動音痴の私がボールを蹴ると必ずやあらぬ方向へ飛んでしまうため、試合ではメンバーに迷惑をかけぬようボールが飛んでこない場所を選んでは、走っているふりだけして何とかごまかしたものである。
一方、部活のサッカー部員に私好みのカッコイイ男の子がいたため、放課後の部活の時間には校舎の3階で私自身はブラスバンド部の楽器の練習をしつつ、グラウンドを見渡してはその男子生徒がボールを追う姿を目で追いかけたものである。
ワールドカップサッカー日韓合同大会が開催された8年前、私は某独立行政法人研究所で医学分野のアルバイトをしていた。 その職場は医学分野の研究者やそれを支える実験担当者等々、若い世代の人達が未来の医学医療を支えるべく研究に励んでいる職場であった。 (私を含めた少数以外は)皆さん若い世代であるにもかかわらず普段は言葉少なに自分の研究等に没頭しているのに、その時ばかりは様相が違ったのだ。 どうやらワールドカップに臨んでいる日本代表のサポーターと思しき数人の研究者を中心に職場が浮ついている。こんな私語が多い騒々しい研究室で仕事をするのは私は初めての経験で、大いに戸惑ったものだ。
サッカーとは個人の趣味の範疇であり、趣味とはあくまでも私的な事象である。 できれば研究室外でサッカー談議をして欲しい思いを昼食中に親しい職場の仲間にこっそり話すと、「へえ~、珍しいわね。○○さん(私のこと)はサッカーのファンじゃないんだ。私だって気分は高潮してるわよ!」と私がサッカーファンではないことに驚き、至って心外との不快感を露骨に表現されてしまったのだ。 当時、確かに国内がサッカー一色であり、サッカーを好まない私のような人種は身の置き場に困惑させられたものである。
2大会前の日韓合同開催とは異なり、今回は南アフリカという遠方国での開催のため、日本国内において当時ほどの馬鹿騒ぎがないことに私は命拾いする思いである。
ただ、先週日本がカメルーン戦で勝利を挙げた翌日に東京都心のターミナル駅近辺を歩いていた私は、青服を着て日の丸を振りかざしつつ闊歩する青年と偶然出合い、この若者は一体何を考えているのかと愕然とさせられたものである。
サッカー日本チームのサポーター団体である“青服日の丸軍団”の挙動に関しては、原左都子以外にもそれを論評する見解は存在するようだ。
彼らが「日の丸」を振りかざし「君が代」を大声で斉唱するのは、決して「愛国心」に基づいたエネルギーに端を発する訳ではないとの論評も存在するのだが、まさにその通りであろう。
それでは、一体彼らが何を心の拠り所としてサッカー競技場や街頭で「日の丸」を力一杯振りかざし「君が代」を大声で叫ぶように熱唱するのだろうか??
彼ら全員が“一種の新興宗教団体のごとく”自ら青服で統一して、日本サッカーチームをあれ程の勢いで応援するのは、一体どういった心理やポリシーに基づいているのか、それが知りたいのだ。
(あの若者達の青服姿にはかつての「オウム真理教」を呼び覚ます匂いを感じさせられたりもする。 その得体が知れない団結心を本気で恐れるとまでは到底言えないが、その軽薄さには辟易とさせられる原左都子である。)
日本におけるサッカーとは、もしかしたらそれは近年人間関係の希薄化を極めているこの国に生かされている若者にとって、唯一“一致団結”できるべく「同調意識」を煽られる矛先であるのかもしれない。
と言うのも、日本が初めて1964年に自国で開催した東京オリンピックに於いて国民皆がスポーツに目覚めた時、サッカー競技とは残念ながら五輪競技として存在しなかったのだ。
その後、何十年も経過した後に“Jリーグ”の発足によりサッカー競技がプロの範疇として認められるようになって以降、我が国においては未だ十数年の年月しか経過していないのである。
ワールドカップサッカー大会自体は、特に後進国でも盛んなスポーツであることを特徴とするため、世界中においてむしろオリンピックよりもサポーター人口が多いイベントのようである。
これに、“Jリーグ”の発足以降、人間関係の希薄化の荒波に放り出され孤立感を強めていた日本の若者が飛びついたという図式が成り立つような気がする。 多くの競技が存在するが故にそのファンが分散多様化して入り乱れる五輪よりも、サッカーという一つの競技にファンが一致団結して一筋に応援する方が結束力も強まるという論理なのであろう。
それでも、若い世代の人々には少し立ち止まって考察して欲しいことがある。
貴方達サッカーサポーター“青服日の丸軍団”が、まさか右翼思想を持っていないことは明白な事実であろうが、その行為で傷つく在日日本在住者も少なからず存在するような歴史的背景をこの国は抱えているのだ。 また義務教育学校教育現場において理不尽にも「日の丸」「君が代」強制問題が今尚存在し、上記歴史的背景を配慮してその強制に反発しただけの理由で処罰される国民も存在するという、この国のお寒い実態なのである。
貴方達が純粋に日本サッカーチームを応援している気持ちは原左都子とて理解できている。 ただ、日本が過去に犯した歴史的過ちを我々は今後まだ抱え続けなければならないという課題も残っている事実を、ほんの少しは理解した上でそれをわきまえて、青服を着て「日の丸」を振りかざし「君が代」を斉唱して欲しいものである。
正直に言うが、私はサッカーを好まない。
いや、もっと正確に言うと、決してサッカーという競技自体が嫌いな訳ではない。
そうではなく、あのサポーターとやらの団体応援団(日本の場合は原左都子名付けて“青服日の丸軍団”がそれに当てはまる)が私にとっては目障り極まりないのである。
サッカー競技自体は私も中学校の頃体育の時間に経験している。 運動音痴の私がボールを蹴ると必ずやあらぬ方向へ飛んでしまうため、試合ではメンバーに迷惑をかけぬようボールが飛んでこない場所を選んでは、走っているふりだけして何とかごまかしたものである。
一方、部活のサッカー部員に私好みのカッコイイ男の子がいたため、放課後の部活の時間には校舎の3階で私自身はブラスバンド部の楽器の練習をしつつ、グラウンドを見渡してはその男子生徒がボールを追う姿を目で追いかけたものである。
ワールドカップサッカー日韓合同大会が開催された8年前、私は某独立行政法人研究所で医学分野のアルバイトをしていた。 その職場は医学分野の研究者やそれを支える実験担当者等々、若い世代の人達が未来の医学医療を支えるべく研究に励んでいる職場であった。 (私を含めた少数以外は)皆さん若い世代であるにもかかわらず普段は言葉少なに自分の研究等に没頭しているのに、その時ばかりは様相が違ったのだ。 どうやらワールドカップに臨んでいる日本代表のサポーターと思しき数人の研究者を中心に職場が浮ついている。こんな私語が多い騒々しい研究室で仕事をするのは私は初めての経験で、大いに戸惑ったものだ。
サッカーとは個人の趣味の範疇であり、趣味とはあくまでも私的な事象である。 できれば研究室外でサッカー談議をして欲しい思いを昼食中に親しい職場の仲間にこっそり話すと、「へえ~、珍しいわね。○○さん(私のこと)はサッカーのファンじゃないんだ。私だって気分は高潮してるわよ!」と私がサッカーファンではないことに驚き、至って心外との不快感を露骨に表現されてしまったのだ。 当時、確かに国内がサッカー一色であり、サッカーを好まない私のような人種は身の置き場に困惑させられたものである。
2大会前の日韓合同開催とは異なり、今回は南アフリカという遠方国での開催のため、日本国内において当時ほどの馬鹿騒ぎがないことに私は命拾いする思いである。
ただ、先週日本がカメルーン戦で勝利を挙げた翌日に東京都心のターミナル駅近辺を歩いていた私は、青服を着て日の丸を振りかざしつつ闊歩する青年と偶然出合い、この若者は一体何を考えているのかと愕然とさせられたものである。
サッカー日本チームのサポーター団体である“青服日の丸軍団”の挙動に関しては、原左都子以外にもそれを論評する見解は存在するようだ。
彼らが「日の丸」を振りかざし「君が代」を大声で斉唱するのは、決して「愛国心」に基づいたエネルギーに端を発する訳ではないとの論評も存在するのだが、まさにその通りであろう。
それでは、一体彼らが何を心の拠り所としてサッカー競技場や街頭で「日の丸」を力一杯振りかざし「君が代」を大声で叫ぶように熱唱するのだろうか??
彼ら全員が“一種の新興宗教団体のごとく”自ら青服で統一して、日本サッカーチームをあれ程の勢いで応援するのは、一体どういった心理やポリシーに基づいているのか、それが知りたいのだ。
(あの若者達の青服姿にはかつての「オウム真理教」を呼び覚ます匂いを感じさせられたりもする。 その得体が知れない団結心を本気で恐れるとまでは到底言えないが、その軽薄さには辟易とさせられる原左都子である。)
日本におけるサッカーとは、もしかしたらそれは近年人間関係の希薄化を極めているこの国に生かされている若者にとって、唯一“一致団結”できるべく「同調意識」を煽られる矛先であるのかもしれない。
と言うのも、日本が初めて1964年に自国で開催した東京オリンピックに於いて国民皆がスポーツに目覚めた時、サッカー競技とは残念ながら五輪競技として存在しなかったのだ。
その後、何十年も経過した後に“Jリーグ”の発足によりサッカー競技がプロの範疇として認められるようになって以降、我が国においては未だ十数年の年月しか経過していないのである。
ワールドカップサッカー大会自体は、特に後進国でも盛んなスポーツであることを特徴とするため、世界中においてむしろオリンピックよりもサポーター人口が多いイベントのようである。
これに、“Jリーグ”の発足以降、人間関係の希薄化の荒波に放り出され孤立感を強めていた日本の若者が飛びついたという図式が成り立つような気がする。 多くの競技が存在するが故にそのファンが分散多様化して入り乱れる五輪よりも、サッカーという一つの競技にファンが一致団結して一筋に応援する方が結束力も強まるという論理なのであろう。
それでも、若い世代の人々には少し立ち止まって考察して欲しいことがある。
貴方達サッカーサポーター“青服日の丸軍団”が、まさか右翼思想を持っていないことは明白な事実であろうが、その行為で傷つく在日日本在住者も少なからず存在するような歴史的背景をこの国は抱えているのだ。 また義務教育学校教育現場において理不尽にも「日の丸」「君が代」強制問題が今尚存在し、上記歴史的背景を配慮してその強制に反発しただけの理由で処罰される国民も存在するという、この国のお寒い実態なのである。
貴方達が純粋に日本サッカーチームを応援している気持ちは原左都子とて理解できている。 ただ、日本が過去に犯した歴史的過ちを我々は今後まだ抱え続けなければならないという課題も残っている事実を、ほんの少しは理解した上でそれをわきまえて、青服を着て「日の丸」を振りかざし「君が代」を斉唱して欲しいものである。