原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

映画「アリエッティ」にみる“等価交換”のあり方

2010年08月05日 | 芸術
 水曜日の映画館は「レディースデイ」。 女性ならば誰でも¥1,000-で映画が楽しめる特典日である。

 この特典を利用して、昨日(8月4日)自宅近くの映画館へ 「借りぐらしのアリエッティ」 を観に出かけた。

 実は私はスタジオジブリ作品を映画館の大スクリーンで鑑賞するのは今回が初めてであった。 「千と千尋…」、「もののけ姫」、「ハウルの動く城」、そしてつい最近では「となりのトトロ」も観てはいるのだが、そのすべてが“せこくも”テレビ観賞である。(しかも我が家の場合、今時19インチのアナログテレビでの観賞である。 こんな時代物の電化製品がまだ現役で活躍している家庭も珍しいことだろうなあ。

 上記のごとく私は特にジブリ作品に対するこだわりはない人種であるのだが、やはり映画館の大スクリーンで観るアニメは、当然ながら19インチのアナログテレビとはそのスケールや迫力がまったく違う。 作品全体に及ぶ表現の繊細さや、動植物等の描写が正確、精巧なのはジブリ作品の特徴なのであろうか。


 さてここで原左都子なりに「借りぐらしのアリエッティ」を論評してみるに、この映画には大きく2つのテーマが内在していたのかと分析する。

 そのテーマの一つは「出会いと別れ」であろう。

 まずこの映画は、小人(こびと)族一家の一人娘である14歳、身長10cmの少女アリエッティと、人間の少年翔との出会いと別れが綴られた物語と集約してよいであろう。
 2人が出会い、短い期間ながらも2人の心が徐々に触れ合っていく過程、そしてその後宿命とも言える別れが展開する物語である。
 いやいやいつの時代も、相手が人であれ物であれそしてこの映画のごとく“小人”であれ、「出会い」や「心が触れ合っていく過程」とは刺激的で感動を呼び起こすものである。 その感動が大きい程に「別れ」とは辛く切ないものであるのを実感させられる思いで、涙もろい原左都子は終盤では泣けてしょうがなかったものである。
 (それにしても、今時映画館で泣いている人を見かけないけど、皆さん“変人”と思われることを回避するために涙をこらえているのだろうか??)


 そして、この映画のもう一つのテーマとは映画の公式サイトにおいて公開されているキャッチコピーが表現しているがごとく、「人間に見られてはいけない」との小人族の「掟」である。

 この「掟」が物語る背景をここで少しだけ紹介しよう。
 この映画の小人族は人間が住む家の床下に住居を構え、人間の日常の食料品や生活品を“借りながら”暮らしているのである。
 “借りる”と表現すると体裁がよいが、原左都子がその実態を厳しくも正確に表現するとその実は“盗み”である。 この物語の小人族の間では“借り”を“狩り”と表現しているごとく、人間の目を盗んで床下から人間の住居空間へ命がけで忍び込み、“狩り”と称した“盗み”により収穫した食料や生活品を自分達の生活の糧として生計を立て暮らしているのだ。
 
 人間の少年翔がアリエッティと初めて心が通じた時に、翔がアリエッティを一目見て「きれいだ…」と表現してアリエッティを受け入れた後に、語った言葉には真実味があった。
 (原左都子が憶えている範囲で記述するため、不正確であることをご容赦下さいますように。) 「人間の世界人口は今や68億人。それに対して、君たち小人族は絶滅寸前なのだろうね…。(以下略)」
 当然ながら反発するアリエッティ。「私たちは絶滅なんかしない! 私は人間に見つかってしまったからここを出るけど、仲間もいるし、新しい住みかで生き延びる!」
 翔は自分の発言をアリエッティに詫び、アリエッティの生命力に勇気付けられることになる、という後々のストーリー展開である。

 この映画のキャッチコピーが何故に「人間に見られてはいけない」であるのかに関して、そのキーパーソンとなっているのが翔が滞在している叔母宅のお手伝いのハルである。 ハルの声優を演じているのが俳優の樹木希林氏であられるのだが、そのインパクトは強烈である。 この樹木希林氏によるハルこそがこの映画の真の存在証明でもあり、良かれ悪しかれストーリー展開上最重要の“立役者”であると原左都子は位置付ける。

 人間の食料品や生活品を“狩り”して自身の生活を正当化している小人族を「泥棒」であるとハルは表現する。 そして「泥棒」は駆除して排除するべきと判断するハルは“ねずみ駆除業者”に床下の“小人族一家”の駆除を依頼するのである。
 冷静に判断した場合、ハルの一見残虐とも捉えられる行動には“整合性がある”と原左都子は考察するのだ。 これこそが、多くの善良な一般市民が普段選択している“単細胞にして明快”な行動パターンの集約であると結論付けることも可能なのではあるまいか?

 別の視点から考察すると、一般的な人間同士において対等な関係を築こうとする場合、そこには様々な意味合いで「等価交換」が成り立っているべきはずである。 アリエッティと翔との関係においては、短期間とは言えども2人の“心の触れ合い”が築き上げた関係においてこの「等価交換」が既に成り立ったと判断できる。
 一方で、アリエッティの両親にとっては今尚人間とは「見られてはいけない」強弱関係から脱却できてはいないのだ。 その視野とは、人間であるお手伝いのハルの思考と実は同レベルなのである。 悲しいかな、アリエッティ一家はやはり引っ越すしか手立てはなかったのである。

 
 スタジオジブリの関係筋によると、この映画は「ものを買うのではなく、借りてくるという発想により今の不景気な時代を表現しようとしたものである」等の表明があるのだが、そこに一理はあろう。
 ただ原左都子の理想としては、強者弱者が入り乱れる現在の現実社会においてもその人間関係において必ずや種々の「等価交換」が成り立っていて欲しいのだ。 「等価交換」と言うと表現が機械的であろうから最後に言い直そう。

 この映画が切なくも表現したアリエッティと翔との心の触れあいこそが、人間関係における真の「等価交換」ではないのだろうか。 
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