原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「産まない」という選択肢もあるのに…

2010年08月07日 | 時事論評
 子どもの虐待死事件の報道を見聞する都度、いつも私の脳裏に過ぎる思いがある。

 「“産まない”という選択肢もあるのに、何故にあえて子どもを産んで殺すのだろうか…」

 
 先週大阪市において発生したワンルームマンションにおける2児の育児放棄・置き去り死事件で大阪府警に逮捕された23歳の母親は、「自分の時間が欲しくて、育児から逃げ出したかった」と供述しているとのことである。

 どうやらこの若き母親は子どもを産んだ当初は子どもを可愛がり、義母等に育児相談をしたりしつつ一応母親らしく子どもに接していたとの報道もある。
 昨春離婚後風俗店に勤めはじめて以降、母親としての“たがが外れ”はじめた様子である。 逮捕直前までクラブや居酒屋で“遊び三昧”を繰り返し、その様子を自らネット上に公開した写真も報道されている。

 ここでこの事件の加害者女性の身内に関してピックアップして述べることにしよう。
 2児の父親である加害者の夫は当該事件に関してどのような扱いになるのであろうか。 それは法的には離婚時の協議に従うことになるのであろうが、子どもの父親としての道義上の責任は重いものがあると私は見る。 夫婦双方に如何なる離婚上の事情があれども、子どもを産んだ責任とはその父親にも一生あってしかるべきだ。 その意味で、母親に育児の一切を任せて離婚した夫側も責に問われるのが妥当と私は考えるのだが…。

 一方、この若き母親が子どもを産んだ当初は育児に協力的だったらしい義父母は、息子夫婦離婚の暁に、これまた何故に孫を一切見捨てる選択をしたのだろうか? 
 義父母はともかく、加害者母親の実父母の報道がほとんど見当たらない状態である。 加害者の父親に関しては、まだ40歳代の現役バリバリの高校教師でありラグビー部の監督でもあるとの報道を見聞した。 その父親曰く、「(加害者の)娘とはもう何年も連絡が取れず娘から子どもに関する相談もまったくないため、大阪に住んでいることすら知らなかった… 云々……」とのことであるらしい。 加害者の母親に関しては、一切報道がない。  どうやらこの加害者女性の一家自体が“家庭崩壊”状態だったのではないか、とも捉えられる気がするのは、原左都子の歪んだ視点によるものなのか?? (単なる私の勘違いでしたら、関係者の皆様にお詫び申し上げます。)

 虐待死した子どもの祖父母等身内にあたる周辺者でさえ、上記のごとく3歳と1歳の幼児が何ヶ月も帰らぬ母親を待ちつつワンルームの密室で餓死するのを救える状況にはないという現実こそが、悲しいかな現実社会の人間関係の希薄さの究極を物語る実情なのであろう。


 ましてや、子どもの虐待防止のためにいつまでも周辺住民の情報に頼ろうとする行政の姿勢も如何なるものなのであろう?

 「児童虐待防止法」によると、虐待の疑われる通報に関しては住民らに協力してもらい、子どもに直接会って安全を確認するべく児童相談所は立ち入り調査の権限が与えられている、とのことである。
 この公的権限が親に虐待されている子どもを救うべく行使された事件が如何ほどあるのか? 私が認識している範囲では、ほとんどの虐待死事件において住民の再三の訴えにもかかわらず児童相談所の対応が後手後手に回った結果、救える命が救えない結果となっているように感じざるを得ないのだが…
 今回の大阪市の事件とてそうである。 マンション内の住人による「子どもの泣き声が聞こえる」「今泣いているから直ぐきて下さい!」等々の切羽詰る通報にもかかわらず、結局自治体は子どもの命を救えなかったのだ。


 行政はこの現実を真摯に受けとめることから児童虐待問題を考え直し、出直すべきなのではなかろうか。

 近隣住民に通報を頼ると言うけれど、今の時代において特に都市部では「地域コミュニティ」なるものは事実上存在しないと見限るべきであろう。 にもかかわらず親切にも近隣の幼児の鳴き声を通報する地域住民の貴重な通報を何故に行政は“軽視”するのか?? それ程に軟弱な対応で、虐待死にあえぐ幼児、児童を本気で救えるとでも思っているのだろうか?


 子育てに行き詰った若き母親が自分の血縁も含めた身内も一切当てにできず、子どもをワンルームマンションに放置したまま何ヶ月も現実逃避する現状…。
 ましてや行政の対応も軟弱となれば、後は子どもを産む性である女性の「子どもを産まない」選択こそが、児童虐待阻止の第一歩にして最高に確実な手段であると原左都子は本気で考察するのだ。

 それを実行してきたとも言えるのが、我が人生でもある。
 原左都子はこの大阪市の育児放棄加害者女性とは意味合いが大きく異なるのだが、元々若かりし頃より“子どもを育てる”ことに関しては優先順位が低かった。 自分自身の成長欲が強いが故に結婚もどうでもよかったため、長い独身時代を謳歌してきたのである。
 元々子育てにさほど興味がなかった私は“計画的”に子どもは「一人」限定だった。 そんな私に授けられた命である我が一人娘に来る日も来る日も最大限の愛情を注ぎつつ月日が流れ、すばらしく成長していく娘と日々接しつつ、親子関係は至って良好である。


 子を産む性である女性の皆さん、政府の少子化対策に惑わされることなく、ましてや近所のお節介おばさんの「子どもは2人以上がいいよ!」等の無責任な挨拶言葉に迎合することなく、是非共自分自身の“母性”のあり方について子どもを産む前に自己分析をして欲しいのだ。
 もしかしたら、自分は子どもを産まない方がより良い人生を歩める等の結論も導き出せるかもしれない。 少なくとも、親が子どもを産むことによって自己存在を正当化したり、自分(達)の寂しさを紛らそうとしたり、自分達の今後の人生を支えてもらう事だけは絶対に避けよう。 今の日本の行政はひと昔前とはまったく異なり、「家」や「親」制度の観点から子どもを育てる教育力は皆無であると心得ておこう。

 男性も含めて今の世に生かされている若者達には、子どもを「産まない」という選択肢がせめて残されている事を、児童虐待死廃絶のために原左都子は心より伝えたい。
         
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