前々回の「原左都子エッセイ集」に於いては、大震災被災地の仮設住宅で孤独死するお年寄りが多発する現状に触れ、年齢を重ねた人間が今後如何に生きるべきかに関する私論を展開した。
今回の記事はその続編とも言える内容である。
朝日新聞7月16日別刷「be」“悩みのるつぼ”では、16歳女子高校生による 「“老いる”素晴らしさはある?」 との表題の相談が掲載されていた。
この表題を見たのみの原左都子の感想とは、まだ思春期とも言えるうら若き世代の女の子が、人間が「老いる」現象を我が身として捉えられるだけでも何と素晴らしい想像力かと感嘆させられる思いであった。
何故ならば私が16歳の頃などその種の発想はまったくなく、ただただ大学受験を2年後に控え、空虚に流されるばかりのつまらない日々だったからである。
それでは早速、上記16歳女子高校生の相談を以下に要約して紹介しよう。
私は16歳だが、「老い」が怖く本当に悩んでいる。 高校生になってはたと考えた。高校そして大学を卒業したら社会人として働き、クラス替えも卒業式も入学式もない変わらない環境の中で一生のうちの半分以上を過ごすのかと。 よく見ると、祖父母や両親や近所の人も老いている。 自分もこうなるのかと考えると、長生きするより早く死にたいとまで考える。 将来結婚すると言っても相手は所詮他人、うまくいく訳がないような気がする。 でも、孤独死は嫌だ。 ある時、年配の方が「(老後は)暇つぶし」と言っていたが、いつまでの暇つぶしかと真剣に考える。 体もいうことをきかない、お金も使う楽しみがない、と考えていると悲しくなるので、どうか「老いる」ことの素晴らしさを教えて下さい。
相談内容を読んだ直後の原左都子の感想は以下のごとくである。
なるほど。 この女子高校生の周囲には確かに「老人」が多そうであるなあ。 そのお年寄り連中とは、おそらくお金には困っていない比較的恵まれた立場のようだが、どうも暇を持て余していてその愚痴を若い世代に漏らして日々暮らしているのだろうか…
核家族化した今の時代、老人の実態など露知らず育つ子どもが多い現状であろう。 そんな時代背景において、この女子高生のごとく世代を超えて“年寄り”を観察できる環境にあることはある種恵まれているとも言える。
それにしても年寄り達よ、若い世代を落胆させるような言動は控えて、少し無理をしてでも若年層の模範となるべく言動を取ってはどうなのか??
原左都子はおそらくこの相談女子高校生が指摘する「老いた」人種の範疇にはまだ入らない年代であると信じたいが、この16歳の健気(けなげ)な相談に対し、人生の先輩として少しアドバイスさせてもらうこととしよう。
まず女子高校生が指摘する、社会人になるとその後一生環境が変わらないとの件について。
これは、まったく逆だなあ。
もしも貴方が今後一生取るに足りない集団に迎合して狭い世界で生きて行きたいというのなら話は別だが、学校という強制的に所属させられる集団生活を抜け出し社会人となったその日から、人間とは人生の選択肢が無限に広がるというものだよ。
社会には学校で経験した“クラス替え”などというせせこましい概念をはるかに超える数多くの人との出会いが待ち構えているし、その人間関係を開拓していくのも自分の能力次第だ。
もしかしたら貴方は学校の「卒業式」や「入学式」のようなしつらえられた式典で、大人が自分をお祝いしてくれることを好んでいるのかな? それも一つの素晴らしい経験ではあるが、社会に出て自由に羽ばたけたならば、今度は受身ではない自らが主体的に感動し合いお祝いし合える同士や仲間といくらでも出会えるよ。 これぞ、人生の醍醐味だよ!
次に懸念するのは女子高校生の相談内容によると、祖父母は元より自分の両親でさえ「老いて」いるとの観察がなされている点である。
私事になるが、高齢出産で生んだ我が娘も現在妙齢の17歳。 その我が子から「お母さんは年寄り臭い!」なる指摘を受けた経験がいまだかつて皆無の原左都子である。 (いえいえ、外見的な要素に関して娘が私をどう捉えているかは計り知れませんよ。) 我が娘が私に対してその種の指摘をしないのは、おそらく幼少の頃より主体的に生き続けている母の姿を身近で実感し続けているが故と信じたい!?!
ここで再び我が20代後半頃からの人生を振り返ると、当時より原左都子は「老いる」ことの苦悩など皆無だった事が懐かしく思い出される。
20代後半に未だ独身だった私は、むしろ早く30代になりたい願望が強かった。 その我が心理を今分析してみるに、当時はまだ「適齢期」なる言語が世に蔓延っている時代背景であり、20代後半で独身を貫いていると周囲がそれを放っておいてくれないような、考え様によっては古き良き時代だったのだ。
ところが私にとってはこれが鬱陶しい。 30代になって尚独身を貫いておれば、周囲ももはや「この娘は独身で生き抜くのであろう」と見放してくれて、私はもっと自由に羽ばたけそうな気がしたものだ。
その後高齢で授かった我が子がそろそろ小学校卒業の我が50歳直前の頃にも同様の感覚があった。 早く50代に突入したい思いが私にはあった。
そして今、四捨五入すると還暦に達しようとする現在も何故か私は早く還暦を迎えたい気分である。
そこには、今後に及んで尚我が豊かな「老後」を主体的に展開していけそうな自信があるからに他ならない。
そんな我が感覚を後押ししているエネルギー源とは、若き頃に学校なる存在の“集団主義思想”に基づいた居心地の悪い場に所属させられた事に対する大いなる抵抗感であり、その後の我が人生においてその種の“集団主義思想”から脱出して自由を奪い返すべく長年能動的に行動をまっとうし続けている故だと自己分析している。
最後に、今回の“悩みのるつぼ”の回答者であられる車谷長吉氏の回答を一部紹介して締めくくろう。
あなた様はまだ若いのですから、日々より苦しい道を選んで生きていくのがよいと思います。 少なくとも私はそうして来ました。 ところが今は楽になり過ぎてかえって困っている老人が多いのです。
時の流れを止める方法はありません。とにかく自分から買ってでも苦労をすることが何よりです。
16歳の女子高校生さん、思春期のあなたが今現在「老いる」という事に対する嫌悪感に直面できていることだけでも素晴らしいと原左都子は捉える。
早くもその感覚が持てたあなたは、車谷氏が指摘するまでもなく、おそらく今後も主体的に「老いる」事を見つめつつ、それを避けるために今後何を考え、何を志向して生き抜いていくべきかの回答をいずれ実行に移すことができるであろう。
今回の記事はその続編とも言える内容である。
朝日新聞7月16日別刷「be」“悩みのるつぼ”では、16歳女子高校生による 「“老いる”素晴らしさはある?」 との表題の相談が掲載されていた。
この表題を見たのみの原左都子の感想とは、まだ思春期とも言えるうら若き世代の女の子が、人間が「老いる」現象を我が身として捉えられるだけでも何と素晴らしい想像力かと感嘆させられる思いであった。
何故ならば私が16歳の頃などその種の発想はまったくなく、ただただ大学受験を2年後に控え、空虚に流されるばかりのつまらない日々だったからである。
それでは早速、上記16歳女子高校生の相談を以下に要約して紹介しよう。
私は16歳だが、「老い」が怖く本当に悩んでいる。 高校生になってはたと考えた。高校そして大学を卒業したら社会人として働き、クラス替えも卒業式も入学式もない変わらない環境の中で一生のうちの半分以上を過ごすのかと。 よく見ると、祖父母や両親や近所の人も老いている。 自分もこうなるのかと考えると、長生きするより早く死にたいとまで考える。 将来結婚すると言っても相手は所詮他人、うまくいく訳がないような気がする。 でも、孤独死は嫌だ。 ある時、年配の方が「(老後は)暇つぶし」と言っていたが、いつまでの暇つぶしかと真剣に考える。 体もいうことをきかない、お金も使う楽しみがない、と考えていると悲しくなるので、どうか「老いる」ことの素晴らしさを教えて下さい。
相談内容を読んだ直後の原左都子の感想は以下のごとくである。
なるほど。 この女子高校生の周囲には確かに「老人」が多そうであるなあ。 そのお年寄り連中とは、おそらくお金には困っていない比較的恵まれた立場のようだが、どうも暇を持て余していてその愚痴を若い世代に漏らして日々暮らしているのだろうか…
核家族化した今の時代、老人の実態など露知らず育つ子どもが多い現状であろう。 そんな時代背景において、この女子高生のごとく世代を超えて“年寄り”を観察できる環境にあることはある種恵まれているとも言える。
それにしても年寄り達よ、若い世代を落胆させるような言動は控えて、少し無理をしてでも若年層の模範となるべく言動を取ってはどうなのか??
原左都子はおそらくこの相談女子高校生が指摘する「老いた」人種の範疇にはまだ入らない年代であると信じたいが、この16歳の健気(けなげ)な相談に対し、人生の先輩として少しアドバイスさせてもらうこととしよう。
まず女子高校生が指摘する、社会人になるとその後一生環境が変わらないとの件について。
これは、まったく逆だなあ。
もしも貴方が今後一生取るに足りない集団に迎合して狭い世界で生きて行きたいというのなら話は別だが、学校という強制的に所属させられる集団生活を抜け出し社会人となったその日から、人間とは人生の選択肢が無限に広がるというものだよ。
社会には学校で経験した“クラス替え”などというせせこましい概念をはるかに超える数多くの人との出会いが待ち構えているし、その人間関係を開拓していくのも自分の能力次第だ。
もしかしたら貴方は学校の「卒業式」や「入学式」のようなしつらえられた式典で、大人が自分をお祝いしてくれることを好んでいるのかな? それも一つの素晴らしい経験ではあるが、社会に出て自由に羽ばたけたならば、今度は受身ではない自らが主体的に感動し合いお祝いし合える同士や仲間といくらでも出会えるよ。 これぞ、人生の醍醐味だよ!
次に懸念するのは女子高校生の相談内容によると、祖父母は元より自分の両親でさえ「老いて」いるとの観察がなされている点である。
私事になるが、高齢出産で生んだ我が娘も現在妙齢の17歳。 その我が子から「お母さんは年寄り臭い!」なる指摘を受けた経験がいまだかつて皆無の原左都子である。 (いえいえ、外見的な要素に関して娘が私をどう捉えているかは計り知れませんよ。) 我が娘が私に対してその種の指摘をしないのは、おそらく幼少の頃より主体的に生き続けている母の姿を身近で実感し続けているが故と信じたい!?!
ここで再び我が20代後半頃からの人生を振り返ると、当時より原左都子は「老いる」ことの苦悩など皆無だった事が懐かしく思い出される。
20代後半に未だ独身だった私は、むしろ早く30代になりたい願望が強かった。 その我が心理を今分析してみるに、当時はまだ「適齢期」なる言語が世に蔓延っている時代背景であり、20代後半で独身を貫いていると周囲がそれを放っておいてくれないような、考え様によっては古き良き時代だったのだ。
ところが私にとってはこれが鬱陶しい。 30代になって尚独身を貫いておれば、周囲ももはや「この娘は独身で生き抜くのであろう」と見放してくれて、私はもっと自由に羽ばたけそうな気がしたものだ。
その後高齢で授かった我が子がそろそろ小学校卒業の我が50歳直前の頃にも同様の感覚があった。 早く50代に突入したい思いが私にはあった。
そして今、四捨五入すると還暦に達しようとする現在も何故か私は早く還暦を迎えたい気分である。
そこには、今後に及んで尚我が豊かな「老後」を主体的に展開していけそうな自信があるからに他ならない。
そんな我が感覚を後押ししているエネルギー源とは、若き頃に学校なる存在の“集団主義思想”に基づいた居心地の悪い場に所属させられた事に対する大いなる抵抗感であり、その後の我が人生においてその種の“集団主義思想”から脱出して自由を奪い返すべく長年能動的に行動をまっとうし続けている故だと自己分析している。
最後に、今回の“悩みのるつぼ”の回答者であられる車谷長吉氏の回答を一部紹介して締めくくろう。
あなた様はまだ若いのですから、日々より苦しい道を選んで生きていくのがよいと思います。 少なくとも私はそうして来ました。 ところが今は楽になり過ぎてかえって困っている老人が多いのです。
時の流れを止める方法はありません。とにかく自分から買ってでも苦労をすることが何よりです。
16歳の女子高校生さん、思春期のあなたが今現在「老いる」という事に対する嫌悪感に直面できていることだけでも素晴らしいと原左都子は捉える。
早くもその感覚が持てたあなたは、車谷氏が指摘するまでもなく、おそらく今後も主体的に「老いる」事を見つめつつ、それを避けるために今後何を考え、何を志向して生き抜いていくべきかの回答をいずれ実行に移すことができるであろう。