我が子が通っている学校に於いて、本日と明日文化祭が開催されている。
子どもが中1の時には義務教育課程でもあるし、一応保護者の責任として娘の様子を見る目的で文化祭を訪ねた。
我が子は、“右向け右”と言われたら左を向きたい天邪鬼の原左都子ほどは“集団嫌い”ではなく素直で従順な子なのだが、持って生まれた個性故か学校の運動会や文化祭のごとくの祭典を小さい頃より好んでいない。
それでも中1頃はまだまだ無邪気な年頃だったためか、それなりに自分のノルマをこなしつつ時間を送っていたようだ。
現在高3となり大学受験直前の今となってはもはや文化祭も“任意参加”かと思っていたら、そうではなく全員強制参加とのことだ。
「で、一体何をやるの?」と聞いてみると、クラスの出し物として“ドリンクバー”を出店するとのことだが、これは“言い出しっぺ”を中心とした少数グループの嗜好であり、当然ながら30何名かいるクラス全員がこれに好き好んで取り組むはずもない。 それでも全員強制参加となれば、部活展示等別枠の担当がない限り、これを手伝わねばならない。 文化祭開催のために1日半もの長い期間授業を取り止めて準備期間が設けられており、当日も含めると3日半もこの“好まない手伝い”で貴重な日々を潰さざるを得ないことになる。
「で、どうやってその長い時間を潰してるの?」と娘に尋ねてみると、「教室の端っこに座っているしかない。グループでつるんでいるクラスメート達も座り込んで、お喋りばかりしている。」…… 「時々、これ手伝ってもらえる?と言って“言い出しっぺ”グループが単純作業を持ってくると、私を含めた他グループは快くそれを手伝っているよ。」……
いや~~。 娘の虚しい思いは大いに分かるよ。
ここで原左都子自身の中高生時代の文化祭経験を振り返ってみよう。
中学生の時はブラスバンド部に所属していて、文化祭とはブラスバンド部の定期演奏会の場でもあったためそれに集中することができた。 そのお陰でクラスの催し物に参加しなくて済んだのは“集団嫌い”の私としてはラッキーだったのであろう。
高校でもオーケストラ部に所属して文化祭のステージがあったためほぼ同様なのだが、このオーケストラ部の負担度合いが中学時代程でもなく、クラスの催し物にも参加せざるを得ない立場にあった。
これが世代を超えた我が娘の現状と重なるのだ。
やはり“言い出しっぺ”グループが自分勝手に催し物を決定して、クラスの皆にその是非を問うでもなく勝手にそれを進めるのが「文化祭」というものの私の印象だ。
ただ、昔は今よりも周囲の皆に協調性があったのだろう。 40何名かいるクラスのほぼ全員がそれを快く手伝っているのだ。 おそらくその偏った状況に嫌悪感を抱いていたのは、当時より天邪鬼気質の原左都子一人だったのかと振り返る。 それでも本心を押し殺し協調性があるふりをして場を繕ってきた私だが、何故あの時“言い出しっぺ”グループに対して、「あなた達の勝手な趣味に翻弄される他のクラスの人達の迷惑に少しは思いを巡らしたらどうなの!!」等々と反旗を翻さなかったのかと、今思えば不思議である。
そうしなかったのは要するに、学校における文化祭など私にとっては取るに足りない事象だったからであろう。
それに比して、娘の話によると時代は進化していることを実感である。 “言い出しっぺ”グループ自体も、他のクラス員の心情をある程度理解して行動できているところが評価できそうだ。
嗜好や趣味が多様な生徒の集合体であるクラスの中で“言い出しっぺ”の案を受け入れてクラスの出し物として認めてくれたクラスメートへ気遣う姿勢が「これやってもらえる?」の一言に集結されているように私は感じる。 この“言い出しっぺ”側の配慮心が感じられたならば、私も過去の高校時代にもう少し前向きに対処できたようにも思う。
それにしても“言い出しっぺ”(どうやら娘の私学においては、既に指定校推薦により大学合格ゲットが決定して浮かれている生徒達らしいのだが…)の趣味に付き合わされるがために、大学受験を直前に控えているこの時期に、3日半も勉強から離れて教室の片隅でただただ座って過ごさねばならないその他高3受験生の現状こそ何とかしてもらえないものか?
教育現場はこれこそが“教育”と勘違いしてはいないだろうか???
中高校生時代とは、まだまだ皆未熟で発展途上の年代である。 そんな未熟者の集合体の中で、表向きにリーダーシップを取っているがごとく見える“言い出しっぺ”の存在が学級の担任にとっては大いに好都合であることは、元教育者の私も多少は理解可能である。 この種すなわち“言い出しっぺ”の生徒が学級に存在しないことには、特に文化祭のごとくの行事に於いて担任とは学級運営が成り立たないと言っても過言ではないであろう。
ところが学級担任をはじめとする学校現場教育者が“言い出しっぺ”生徒に依存せんとするその単純発想には、多様性があり個性豊かな生徒の将来伸びゆく能力を育む思想が欠如していることに私は懸念感を抱かされるのだ。
最後に余談になるが、娘の学級において今回の文化祭クラスの出し物を中心に統率している“言い出しっぺ”女子生徒達は、その“表向きのリーダーシップ力”が評価されて既に指定校推薦をゲットしているらしいことについては上記に述べている。
その女子生徒達が親しいグループ内において、「大学に入ったらいい男をゲットしたいよね!!」「そうだよね!」等々の話題で、一般入試を目指す他生徒達を尻目に日々盛り上がっているとのことだ。
何とも可愛らしくていいじゃないか!
と思いつつ、ウン十年前の我が高校時代に文化祭を牛耳っていた女生徒陣も大学卒業後さほどの職業経験がないまま早期に結婚し子どもを設け、それが女の幸せとの人生を歩み今に至っている様子が単なる偶然ではないようで感慨深い原左都子である。
まあ、人生とはそういうものであろう。
たかが思春期の成長途上に行われる学校の文化祭であるが、それを多感期にどう受け止めどう対処したのかが、その後の人生の歴史の行く末を物語るような気もするのだ。
我が娘よ。 人間の長き人生において、学校の「文化祭」ごときは直ぐに忘れ去る取るに足りない事象にしか過ぎないよ。
今後もそんなたわいない事象に翻弄される事なく、自分らしい確固たる専門力を着実に磨きつつ我が道を歩んで行こうね!
子どもが中1の時には義務教育課程でもあるし、一応保護者の責任として娘の様子を見る目的で文化祭を訪ねた。
我が子は、“右向け右”と言われたら左を向きたい天邪鬼の原左都子ほどは“集団嫌い”ではなく素直で従順な子なのだが、持って生まれた個性故か学校の運動会や文化祭のごとくの祭典を小さい頃より好んでいない。
それでも中1頃はまだまだ無邪気な年頃だったためか、それなりに自分のノルマをこなしつつ時間を送っていたようだ。
現在高3となり大学受験直前の今となってはもはや文化祭も“任意参加”かと思っていたら、そうではなく全員強制参加とのことだ。
「で、一体何をやるの?」と聞いてみると、クラスの出し物として“ドリンクバー”を出店するとのことだが、これは“言い出しっぺ”を中心とした少数グループの嗜好であり、当然ながら30何名かいるクラス全員がこれに好き好んで取り組むはずもない。 それでも全員強制参加となれば、部活展示等別枠の担当がない限り、これを手伝わねばならない。 文化祭開催のために1日半もの長い期間授業を取り止めて準備期間が設けられており、当日も含めると3日半もこの“好まない手伝い”で貴重な日々を潰さざるを得ないことになる。
「で、どうやってその長い時間を潰してるの?」と娘に尋ねてみると、「教室の端っこに座っているしかない。グループでつるんでいるクラスメート達も座り込んで、お喋りばかりしている。」…… 「時々、これ手伝ってもらえる?と言って“言い出しっぺ”グループが単純作業を持ってくると、私を含めた他グループは快くそれを手伝っているよ。」……
いや~~。 娘の虚しい思いは大いに分かるよ。
ここで原左都子自身の中高生時代の文化祭経験を振り返ってみよう。
中学生の時はブラスバンド部に所属していて、文化祭とはブラスバンド部の定期演奏会の場でもあったためそれに集中することができた。 そのお陰でクラスの催し物に参加しなくて済んだのは“集団嫌い”の私としてはラッキーだったのであろう。
高校でもオーケストラ部に所属して文化祭のステージがあったためほぼ同様なのだが、このオーケストラ部の負担度合いが中学時代程でもなく、クラスの催し物にも参加せざるを得ない立場にあった。
これが世代を超えた我が娘の現状と重なるのだ。
やはり“言い出しっぺ”グループが自分勝手に催し物を決定して、クラスの皆にその是非を問うでもなく勝手にそれを進めるのが「文化祭」というものの私の印象だ。
ただ、昔は今よりも周囲の皆に協調性があったのだろう。 40何名かいるクラスのほぼ全員がそれを快く手伝っているのだ。 おそらくその偏った状況に嫌悪感を抱いていたのは、当時より天邪鬼気質の原左都子一人だったのかと振り返る。 それでも本心を押し殺し協調性があるふりをして場を繕ってきた私だが、何故あの時“言い出しっぺ”グループに対して、「あなた達の勝手な趣味に翻弄される他のクラスの人達の迷惑に少しは思いを巡らしたらどうなの!!」等々と反旗を翻さなかったのかと、今思えば不思議である。
そうしなかったのは要するに、学校における文化祭など私にとっては取るに足りない事象だったからであろう。
それに比して、娘の話によると時代は進化していることを実感である。 “言い出しっぺ”グループ自体も、他のクラス員の心情をある程度理解して行動できているところが評価できそうだ。
嗜好や趣味が多様な生徒の集合体であるクラスの中で“言い出しっぺ”の案を受け入れてクラスの出し物として認めてくれたクラスメートへ気遣う姿勢が「これやってもらえる?」の一言に集結されているように私は感じる。 この“言い出しっぺ”側の配慮心が感じられたならば、私も過去の高校時代にもう少し前向きに対処できたようにも思う。
それにしても“言い出しっぺ”(どうやら娘の私学においては、既に指定校推薦により大学合格ゲットが決定して浮かれている生徒達らしいのだが…)の趣味に付き合わされるがために、大学受験を直前に控えているこの時期に、3日半も勉強から離れて教室の片隅でただただ座って過ごさねばならないその他高3受験生の現状こそ何とかしてもらえないものか?
教育現場はこれこそが“教育”と勘違いしてはいないだろうか???
中高校生時代とは、まだまだ皆未熟で発展途上の年代である。 そんな未熟者の集合体の中で、表向きにリーダーシップを取っているがごとく見える“言い出しっぺ”の存在が学級の担任にとっては大いに好都合であることは、元教育者の私も多少は理解可能である。 この種すなわち“言い出しっぺ”の生徒が学級に存在しないことには、特に文化祭のごとくの行事に於いて担任とは学級運営が成り立たないと言っても過言ではないであろう。
ところが学級担任をはじめとする学校現場教育者が“言い出しっぺ”生徒に依存せんとするその単純発想には、多様性があり個性豊かな生徒の将来伸びゆく能力を育む思想が欠如していることに私は懸念感を抱かされるのだ。
最後に余談になるが、娘の学級において今回の文化祭クラスの出し物を中心に統率している“言い出しっぺ”女子生徒達は、その“表向きのリーダーシップ力”が評価されて既に指定校推薦をゲットしているらしいことについては上記に述べている。
その女子生徒達が親しいグループ内において、「大学に入ったらいい男をゲットしたいよね!!」「そうだよね!」等々の話題で、一般入試を目指す他生徒達を尻目に日々盛り上がっているとのことだ。
何とも可愛らしくていいじゃないか!
と思いつつ、ウン十年前の我が高校時代に文化祭を牛耳っていた女生徒陣も大学卒業後さほどの職業経験がないまま早期に結婚し子どもを設け、それが女の幸せとの人生を歩み今に至っている様子が単なる偶然ではないようで感慨深い原左都子である。
まあ、人生とはそういうものであろう。
たかが思春期の成長途上に行われる学校の文化祭であるが、それを多感期にどう受け止めどう対処したのかが、その後の人生の歴史の行く末を物語るような気もするのだ。
我が娘よ。 人間の長き人生において、学校の「文化祭」ごときは直ぐに忘れ去る取るに足りない事象にしか過ぎないよ。
今後もそんなたわいない事象に翻弄される事なく、自分らしい確固たる専門力を着実に磨きつつ我が道を歩んで行こうね!