(写真は、都心部にある我が家の川沿いに於いて現在満開の桜並木を撮影したもの)
今年の桜は私が住む東京に於いても例年に比し遅い開花であったが、先週末にやっと満開の時期を迎えた。
原左都子が現在居住している地は、東京23区内に於いて有数の桜の名所に挙げられている恰好の場所にある。
上記写真のごとくの桜並木が延々数キロに渡り続き、川面に揺らぐその薄ピンク色の色彩と共に実に美しい木々の影像を醸し出す風景を一目見ようと、毎春桜満開のこの時期になるとどこからともなく大勢の人が押し寄せて来る。
カメラ片手にこの桜並木を闊歩したり、川沿いに位置している大規模都営公園の芝生上で宴会を開いたりしつつ、それぞれに一時のお花見を楽しんでいる様子だ。
“お花見”と言えばつきものなのが「酒」ではなかろうか。
この私も先週末の桜満開時にたまたまジムへ行くため川沿いを歩いていて、上記桜並木の大規模公園内で早くも“お花見宴会”を催している数多くのグループを見かけた。
日中の時間帯であるため、小さい子ども連れの親子グループに関してはさすがに「酒」で盛り上がっている様子ではなさそうだ。 一方、職場仲間かあるいは大学生かと思しき若手グループは、白昼にして既に「酒」の力で高揚している様子である。
当日は“お花見”をするには最高気温15℃位の寒風が吹く肌寒い日和であったため、(皆さん、風邪でもひきそうなこの気候環境下でよくお花見宴会を実行したものだなあ~~)などと他人事のように感じつつその場を通り抜けたものだ。
さて、“やっぱりなあ…、だがどうしたものか??”と飲兵衛の原左都子が呆れざるを得ないような記事が、朝日新聞4月7日夕刊一面トップの「花見お行儀チェック」と題する記事に於いて展開されていた。
“お花見”につきものの“酒”の「持ち込み禁止」を発令する都心の桜名所処が急増しているとの朝日新聞の話題である。
例えば新宿御苑の入場門にお花見客が近づくと「持ち物検査」の関門を通過する事となる様子だ。 その場においてお花見客は、鞄の中に缶ビール等の酒類が入っていない事を厳重にチェックされた後に入園可能との話である。 確かに新宿御苑に限っては明治時代には皇室の庭園だったことを慮るならば、その種の対応もやむを得ないのかもしれない。
片や、花見の季節に毎日のように酔客が喧嘩をしたり、急性アルコール中毒で救急車で搬送される事実も後を絶たないようだ。 この種のトラブルが多発している中で、桜の名所がアルコールの持込を制限するのもやむを得ないのかとも判断する。
上記朝日新聞記事においてコメントを述べておられるのは、“飲兵衛”として名高いシンガーソングライターの なぎら健壱氏であられた。 「酒の作法 普段から教えて」と題するなぎら氏のコメントを以下に要約して紹介しよう。
最近の人は普段から酒の飲み方や後片付けの仕方を教わっていないから、花見の場にしわ寄せが出てしまうのだろう。 (中略) 花見の場であろうが当たり前に酒を飲んで楽しむことが出来るように、ただ厳しくだけでなく教えていかねばならない。
すみません。 原左都子としても同じ飲兵衛であられる なぎら健壱氏 に同調申し上げたい思いは重々である。 ところが、今回のなぎら氏のコメントは朝日新聞に迎合するが余り(私に言わせてもらうと本人らしくもなく)酒に関して下手に優等生を装っているかのごとく“無理が大きく気持ち悪い感覚”を抱いてしまうのだ。
いや~~。 飲兵衛の私としては花見の酒席でそんなに“お利口さん”でいよ”と言われたとて、それは絶対に無理!無理!!無理!!! と反論するしかないねえ…… (いえいえ、酔っ払っても片付けはしますよ。)
医学的観点から考察すると礼儀以前の問題として、若年層はまず自身のDNAに関して生来的に与えられている我が身の“アルコール許容力”を知ることから始めるべきである。
そのためには、決して大学の新入生歓迎コンパや入学当初の「お花見宴会」において、周囲が新入生全員に“一気飲み”など絶対に煽ってはならないことは鉄則中の鉄則である!
それが言われて久しいのに、今尚急性アルコール中毒で死亡に至る大学新入生が後を絶たない。 大学現場の指導者達は一体何を学生の危機管理力と心得ているのか!!と反発したくもなる。
と言う訳で原左都子の私論としては、まずは個々人が自分が生まれ持った遺伝子的体質を何らかの形で心得る事から始めるべきとの結論となる。
その教育や経験が成り立つことを前提として、二の次に「酒の作法」との議論が初めて出てきて欲しいものと私は希望的に認識する。
なぎら健壱さん、失礼とは存じつつ繰り返させていただくが、人間が「酒」の世界を正当に全うするためには、「作法」以前の問題として、DNA的医学適性力こそを把握することが第一義であると主張申し上げたい思いである。
飲兵衛の原左都子の場合、やはり「酒」とは気の置けない相手と共に出来れば「作法」抜きで楽しみたいものだ。
今年の桜は私が住む東京に於いても例年に比し遅い開花であったが、先週末にやっと満開の時期を迎えた。
原左都子が現在居住している地は、東京23区内に於いて有数の桜の名所に挙げられている恰好の場所にある。
上記写真のごとくの桜並木が延々数キロに渡り続き、川面に揺らぐその薄ピンク色の色彩と共に実に美しい木々の影像を醸し出す風景を一目見ようと、毎春桜満開のこの時期になるとどこからともなく大勢の人が押し寄せて来る。
カメラ片手にこの桜並木を闊歩したり、川沿いに位置している大規模都営公園の芝生上で宴会を開いたりしつつ、それぞれに一時のお花見を楽しんでいる様子だ。
“お花見”と言えばつきものなのが「酒」ではなかろうか。
この私も先週末の桜満開時にたまたまジムへ行くため川沿いを歩いていて、上記桜並木の大規模公園内で早くも“お花見宴会”を催している数多くのグループを見かけた。
日中の時間帯であるため、小さい子ども連れの親子グループに関してはさすがに「酒」で盛り上がっている様子ではなさそうだ。 一方、職場仲間かあるいは大学生かと思しき若手グループは、白昼にして既に「酒」の力で高揚している様子である。
当日は“お花見”をするには最高気温15℃位の寒風が吹く肌寒い日和であったため、(皆さん、風邪でもひきそうなこの気候環境下でよくお花見宴会を実行したものだなあ~~)などと他人事のように感じつつその場を通り抜けたものだ。
さて、“やっぱりなあ…、だがどうしたものか??”と飲兵衛の原左都子が呆れざるを得ないような記事が、朝日新聞4月7日夕刊一面トップの「花見お行儀チェック」と題する記事に於いて展開されていた。
“お花見”につきものの“酒”の「持ち込み禁止」を発令する都心の桜名所処が急増しているとの朝日新聞の話題である。
例えば新宿御苑の入場門にお花見客が近づくと「持ち物検査」の関門を通過する事となる様子だ。 その場においてお花見客は、鞄の中に缶ビール等の酒類が入っていない事を厳重にチェックされた後に入園可能との話である。 確かに新宿御苑に限っては明治時代には皇室の庭園だったことを慮るならば、その種の対応もやむを得ないのかもしれない。
片や、花見の季節に毎日のように酔客が喧嘩をしたり、急性アルコール中毒で救急車で搬送される事実も後を絶たないようだ。 この種のトラブルが多発している中で、桜の名所がアルコールの持込を制限するのもやむを得ないのかとも判断する。
上記朝日新聞記事においてコメントを述べておられるのは、“飲兵衛”として名高いシンガーソングライターの なぎら健壱氏であられた。 「酒の作法 普段から教えて」と題するなぎら氏のコメントを以下に要約して紹介しよう。
最近の人は普段から酒の飲み方や後片付けの仕方を教わっていないから、花見の場にしわ寄せが出てしまうのだろう。 (中略) 花見の場であろうが当たり前に酒を飲んで楽しむことが出来るように、ただ厳しくだけでなく教えていかねばならない。
すみません。 原左都子としても同じ飲兵衛であられる なぎら健壱氏 に同調申し上げたい思いは重々である。 ところが、今回のなぎら氏のコメントは朝日新聞に迎合するが余り(私に言わせてもらうと本人らしくもなく)酒に関して下手に優等生を装っているかのごとく“無理が大きく気持ち悪い感覚”を抱いてしまうのだ。
いや~~。 飲兵衛の私としては花見の酒席でそんなに“お利口さん”でいよ”と言われたとて、それは絶対に無理!無理!!無理!!! と反論するしかないねえ…… (いえいえ、酔っ払っても片付けはしますよ。)
医学的観点から考察すると礼儀以前の問題として、若年層はまず自身のDNAに関して生来的に与えられている我が身の“アルコール許容力”を知ることから始めるべきである。
そのためには、決して大学の新入生歓迎コンパや入学当初の「お花見宴会」において、周囲が新入生全員に“一気飲み”など絶対に煽ってはならないことは鉄則中の鉄則である!
それが言われて久しいのに、今尚急性アルコール中毒で死亡に至る大学新入生が後を絶たない。 大学現場の指導者達は一体何を学生の危機管理力と心得ているのか!!と反発したくもなる。
と言う訳で原左都子の私論としては、まずは個々人が自分が生まれ持った遺伝子的体質を何らかの形で心得る事から始めるべきとの結論となる。
その教育や経験が成り立つことを前提として、二の次に「酒の作法」との議論が初めて出てきて欲しいものと私は希望的に認識する。
なぎら健壱さん、失礼とは存じつつ繰り返させていただくが、人間が「酒」の世界を正当に全うするためには、「作法」以前の問題として、DNA的医学適性力こそを把握することが第一義であると主張申し上げたい思いである。
飲兵衛の原左都子の場合、やはり「酒」とは気の置けない相手と共に出来れば「作法」抜きで楽しみたいものだ。