(写真は、先だって我が身内が定年退職した日に職場よりプレゼントいただいた花束。 本物はもっと美しく可憐で豪華な花束なのだが、何分原左都子が写真撮影のノウハウを心得ていないため、色合いが悪く貧弱に見える点が残念である。)
怒涛のごとく、次から次へと原左都子の身にビックイベントが押し寄せる今年の春である。
娘の大学入学式の2日後に、我が身内が35歳時に中途入社した一部上場民間企業研究所の定年退職を迎えた。
そもそも私が身内と知り合ったのは身内が当該企業に就職した数年後の事であり、入社当時の様子に関しては本人等人づてに聞く話に於いてしか心得ていない。 しかも婚姻後まだ十数年の年月しか経過していない晩婚夫婦という事情もあるが、例えば40年も連れ添われたご夫婦のごとくご亭主の定年退職までの長き年月を“内助の功”の役割を果しつつ支えた、などとの美談には程遠いものも我々夫婦にはある。
そんな私にとっては、身内の定年退職の日は実に“駆け足”でやって来たと表現するしかない。
ついこの前婚姻し、娘の“お抱え家庭教師”として君臨する日々を重ねた挙句、いよいよ娘が大学生となった暁に早くも身内が定年退職である。
身内の定年退職に先立ち、その「定年退職祝い会」の幹事を担当しているとの職場の若手同僚より突然自宅にお電話をいただいた。
電話でのお話によると、身内には内緒で“ご家族からのメッセージ”を頂戴し、職場のお祝いの会で本人に手渡したいとの事だ。 おそらく定年退職を迎える社員の皆さんに、定例的に職場においてこのような手厚い配慮をしているのであろう。 その意向は尊重しつつも、私は冗談と本音を交錯しながら電話で次のように応じた。 「ご配慮はありがたいが、我々夫婦の場合晩婚とのこともありその種のメッセージに身内が好意的に反応する関係には程遠い。 もしかしたら身内も娘からのお祝いは喜んで受け入れると想像するので、娘にメッセージを書かせて郵送する。云々…」
「それで十分です!」との担当者のご返答に対し、まさかいい大人が娘のメッセージのみを郵送できるはずもないため、家内である原左都子として職場の皆様への御礼状もしたためて同封した。
(ここで原左都子の弱音を吐かせていただくと、3月末の私は息もつけない程多忙な時期だった。 友人の死去に伴うそのご遺族へのお悔やみ状の郵送、知人から招待を受けたアートフェアへの出席、我が子の大学入学に伴う諸手続きの援助、義母の介護にかかわる対応、等々… )
ただやはり定年退職を迎える身内を抱えている配偶者としては、そんな弱音を吐いている場合ではないことを心得て、その返答を全うした私である。
さて、その我が身内が定年退職の日に手に持ちきれない程のお祝い品の数々を携えて、夜遅く帰宅した。
その中で一番大きい荷物だったのが上記写真の「花束」である。 それと共に自身の研究実績が綴られた業績集ファイルや、数多くの関連会社からの記念品や職場の皆様より賜った贈り物等々を自宅に持ち帰った我が身内である。
そんな荷物と共に、中途採用で入社した民間企業に於ける勤務の日々がまんざらでなかった様子で、いつもは口数が少ない身内が我々親子に25年間の懐古と共に在籍中の自慢話を繰り広げるではないか。
この日この話を聞いてやるのが本日定年退職した家族の役割と心がけつつも、大学に入学したばかりの娘の明日のスケジュールを思いやり、娘を自室に行かせる私だ。 その後も長引きそうな身内の在籍中の話を聞き流しながら、“なんでこの多忙な時期に定年退職を向かえたの!”とイラつきつつ一時を過ごした私である。
そんな身内の定年退職に際して、原左都子として思う事がある。
この私は「定年退職」を経験していない。
公民各種職場を退職した経験はあるが、そのすべてが中途退職であった。
我が人生に於いて一番最初に就職した民間企業は30歳にして新たな“大学進学”を志すという、いとも身勝手な事由により中途退職した。 退職のお祝いをしてもらえるどころか、その我が身の勝手さをバッシングされつつ大いなる痛手を背負っての引き際だったものだ…
その後も「出産退職」等、職場に迷惑を及ぼす自己都合による退職を繰り返してきている…
ただしそのすべてが(今思うに)当時の原左都子が未だ若き世代であったからこそ、その後の我が更なる未来に繋がったとの自負はある。
それに比して今の時代、還暦にして定年退職を迎える者の現実は厳しいものがあろう。
「原左都子エッセイ集」バックナンバーで綴った通り、今現在の定年退職者にとっての再就職先とは職場周囲の若者に迎合してやっと成り立つ、だのとの見解がメディアに横行している現状だ。
あるいは、65歳の高齢者には清掃や守衛等の単純作業しか待ち構えていない現実社会において、それでも労働を欲したい退職者にとってはその世界も有意義であることだろうか??
一方で、定年後の生活資金を「年金」にのみ頼って済む少々リッチな高齢者達の未来が芳しいとも到底思えない。
多くの方々は趣味に生きようとでも欲しておられることであろう。 ところが、趣味とはあくまでも「趣味」なのである。 これは“3日”で飽きよう。
では奥方と共に定年後の人生を楽しく過ごそうかとの甘い考えをしても、奥方は皆多忙で亭主の相手などしてられない。 ならば年寄り連中で仲良くしようと志そうが、今時の年寄りはその個性が多様性を帯びているため直ぐに喧嘩別れとなる存在同士であろう。
元々自由業を営んでいる人種はそれをさらに開拓可能であろうが、経済不況の今時、そんな自営力に恵まれた部類とはごく一部の層に限られていることも私は常々実感している。
それでは定年退職後の人物とは、今後何を頼りに生きていけばよいのだろうか?
40年現役で勤め上げようが、十数年で退職を迎えようが、すべての皆さんにとって定年退職後の厳しい現実は共通との結論に達するのかもしれない。
少なくとも誰かに依存するのではなく、自分自身の能力と実力で我が身の老後を開拓していくしかその先はないのではあるまいか?
そういう意味では老若男女を問わず、現役時代から「自立」した日々を歩むよう心がけているべきであろう。
怒涛のごとく、次から次へと原左都子の身にビックイベントが押し寄せる今年の春である。
娘の大学入学式の2日後に、我が身内が35歳時に中途入社した一部上場民間企業研究所の定年退職を迎えた。
そもそも私が身内と知り合ったのは身内が当該企業に就職した数年後の事であり、入社当時の様子に関しては本人等人づてに聞く話に於いてしか心得ていない。 しかも婚姻後まだ十数年の年月しか経過していない晩婚夫婦という事情もあるが、例えば40年も連れ添われたご夫婦のごとくご亭主の定年退職までの長き年月を“内助の功”の役割を果しつつ支えた、などとの美談には程遠いものも我々夫婦にはある。
そんな私にとっては、身内の定年退職の日は実に“駆け足”でやって来たと表現するしかない。
ついこの前婚姻し、娘の“お抱え家庭教師”として君臨する日々を重ねた挙句、いよいよ娘が大学生となった暁に早くも身内が定年退職である。
身内の定年退職に先立ち、その「定年退職祝い会」の幹事を担当しているとの職場の若手同僚より突然自宅にお電話をいただいた。
電話でのお話によると、身内には内緒で“ご家族からのメッセージ”を頂戴し、職場のお祝いの会で本人に手渡したいとの事だ。 おそらく定年退職を迎える社員の皆さんに、定例的に職場においてこのような手厚い配慮をしているのであろう。 その意向は尊重しつつも、私は冗談と本音を交錯しながら電話で次のように応じた。 「ご配慮はありがたいが、我々夫婦の場合晩婚とのこともありその種のメッセージに身内が好意的に反応する関係には程遠い。 もしかしたら身内も娘からのお祝いは喜んで受け入れると想像するので、娘にメッセージを書かせて郵送する。云々…」
「それで十分です!」との担当者のご返答に対し、まさかいい大人が娘のメッセージのみを郵送できるはずもないため、家内である原左都子として職場の皆様への御礼状もしたためて同封した。
(ここで原左都子の弱音を吐かせていただくと、3月末の私は息もつけない程多忙な時期だった。 友人の死去に伴うそのご遺族へのお悔やみ状の郵送、知人から招待を受けたアートフェアへの出席、我が子の大学入学に伴う諸手続きの援助、義母の介護にかかわる対応、等々… )
ただやはり定年退職を迎える身内を抱えている配偶者としては、そんな弱音を吐いている場合ではないことを心得て、その返答を全うした私である。
さて、その我が身内が定年退職の日に手に持ちきれない程のお祝い品の数々を携えて、夜遅く帰宅した。
その中で一番大きい荷物だったのが上記写真の「花束」である。 それと共に自身の研究実績が綴られた業績集ファイルや、数多くの関連会社からの記念品や職場の皆様より賜った贈り物等々を自宅に持ち帰った我が身内である。
そんな荷物と共に、中途採用で入社した民間企業に於ける勤務の日々がまんざらでなかった様子で、いつもは口数が少ない身内が我々親子に25年間の懐古と共に在籍中の自慢話を繰り広げるではないか。
この日この話を聞いてやるのが本日定年退職した家族の役割と心がけつつも、大学に入学したばかりの娘の明日のスケジュールを思いやり、娘を自室に行かせる私だ。 その後も長引きそうな身内の在籍中の話を聞き流しながら、“なんでこの多忙な時期に定年退職を向かえたの!”とイラつきつつ一時を過ごした私である。
そんな身内の定年退職に際して、原左都子として思う事がある。
この私は「定年退職」を経験していない。
公民各種職場を退職した経験はあるが、そのすべてが中途退職であった。
我が人生に於いて一番最初に就職した民間企業は30歳にして新たな“大学進学”を志すという、いとも身勝手な事由により中途退職した。 退職のお祝いをしてもらえるどころか、その我が身の勝手さをバッシングされつつ大いなる痛手を背負っての引き際だったものだ…
その後も「出産退職」等、職場に迷惑を及ぼす自己都合による退職を繰り返してきている…
ただしそのすべてが(今思うに)当時の原左都子が未だ若き世代であったからこそ、その後の我が更なる未来に繋がったとの自負はある。
それに比して今の時代、還暦にして定年退職を迎える者の現実は厳しいものがあろう。
「原左都子エッセイ集」バックナンバーで綴った通り、今現在の定年退職者にとっての再就職先とは職場周囲の若者に迎合してやっと成り立つ、だのとの見解がメディアに横行している現状だ。
あるいは、65歳の高齢者には清掃や守衛等の単純作業しか待ち構えていない現実社会において、それでも労働を欲したい退職者にとってはその世界も有意義であることだろうか??
一方で、定年後の生活資金を「年金」にのみ頼って済む少々リッチな高齢者達の未来が芳しいとも到底思えない。
多くの方々は趣味に生きようとでも欲しておられることであろう。 ところが、趣味とはあくまでも「趣味」なのである。 これは“3日”で飽きよう。
では奥方と共に定年後の人生を楽しく過ごそうかとの甘い考えをしても、奥方は皆多忙で亭主の相手などしてられない。 ならば年寄り連中で仲良くしようと志そうが、今時の年寄りはその個性が多様性を帯びているため直ぐに喧嘩別れとなる存在同士であろう。
元々自由業を営んでいる人種はそれをさらに開拓可能であろうが、経済不況の今時、そんな自営力に恵まれた部類とはごく一部の層に限られていることも私は常々実感している。
それでは定年退職後の人物とは、今後何を頼りに生きていけばよいのだろうか?
40年現役で勤め上げようが、十数年で退職を迎えようが、すべての皆さんにとって定年退職後の厳しい現実は共通との結論に達するのかもしれない。
少なくとも誰かに依存するのではなく、自分自身の能力と実力で我が身の老後を開拓していくしかその先はないのではあるまいか?
そういう意味では老若男女を問わず、現役時代から「自立」した日々を歩むよう心がけているべきであろう。