原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

一体誰と争ってる?

2012年04月23日 | 時事論評
 「一体誰と争ってる?」

 今回本エッセイの表題に掲げたこの一文は、朝日新聞4月18日付夕刊「素粒子」欄より引用させていただいたものである。 

 「素粒子」欄とは時事問題をわずか4行程度の短文で日々痛烈に批判論評するコラムであるが、朝日新聞ファンである原左都子にして、夕刊一面トップ「朝日新聞」の商号真下という目立つ位置にあるこの「素粒子」欄を以前より好んでいない。
 同じく毒舌辛口オピニオンを売りとしている「原左都子エッセイ集」の著者としては、ここはあくまでも自分を棚に上げての発言だが、 内容が言いたい放題過ぎて“無責任”、かつ大手新聞社たる者が自暴自棄に陥っている感すら抱いてしまう故である。 
 (お前こそが自暴自棄だろう!とのご指摘も受けそうだが、「原左都子エッセイ集」の場合、原左都子個人があくまでも非営利で執筆公開している媒体であるため何卒お許し願いたい。)


 その「素粒子」18日付一論評の何とも絶妙な表現には唸った。
 早速、以下にその全文を紹介しよう。
    そろそろ黄門様の役回りのお年だろうに。 自ら物議を醸す石原氏。
    「政治に吠え面かかす」と。 一体誰と争ってる?

 原左都子が補足説明をしよう。
 石原氏とはもちろん、4期という長きに渡り東京都知事に当選し続けている 石原慎太郎氏 の事であろう。
 そして今回の「素粒子」の文面は、4月17日に東京都知事である石原氏が突如として沖縄県石垣市の尖閣諸島を買い取るとの「奇策」を示した事を受けての論評であろう。 
 (今回の我がエッセイは尖閣諸島問題を取り上げる事を意図して綴っている訳ではないため、当該時事の詳細に関しては割愛させていただく。)

 それにしても、とにかく石原氏とは実によく“吠えて”いる人物であられる。
 例えば東京にオリンピックを誘致する計画を公開するに当たっても、何年来に渡り日本に世界に“吠え”まくっている感覚がある。 (原左都子個人的にはあくまでも誘致反対の立場であるが)何もそんなに吠えずとて、都知事として政治的経済的側面から誘致の正当性を冷静沈着に市民に語った方が効力が大きいのではないのか?とも感じている。

 ただ、この人物が今尚吠え続けねばならない背景として、東京都知事を引き継ぐ後継者が一人として存在しない現実が辛いとの事情もあろう。 しかしそれは黄門様の年齢に至るまで石原氏本人がその地位を死守せんとしたがために、本気で後継者を育て上げなかった責任も大きいはずだ。 
 多くの都民が4期にも渡り、自ら物議を醸す手法を政治のスローガンとしている石原氏に一票を投じるしか手立てがなかったのが東京都民の現状である事には間違いない。

 石原氏の“吠え”の対象とは、朝日新聞「素粒子」が「政治に吠え面かかす」との文面で指摘している通り、それは「国政」でしかあり得ない。 
 石原慎太郎氏とは、1968年 (昭和43年) に参議院議員選挙に全国区から出馬し初当選している人物である。 その後、1972年 (昭和47年) には衆議院に鞍替え出馬し当選、以後当選8回。 1975年 (昭和50年)に現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選挙に自民党推薦で出馬するも落選。 その後衆議院議員に復帰し、1976年 (昭和51年) に福田赳夫内閣で環境庁長官を、1987年 (昭和62年) に竹下内閣で運輸大臣を歴任、1989年 (平成元年) には自民党総裁選に立候補し、海部俊樹に敗れる。 1995年 (平成7年) 、議員勤続25年を祝う永年勤続表彰の場で突如議員辞職を表明した。 
 1999年東京都知事選挙に出馬。 有力候補を抑え初当選し、現在4選を誇っているとの実績である。
 (以上、ウィキペディアより引用)


 原左都子の私論に入ろう。

 上記のごとく、若き時代にそれ程までに政治家として国政にこだわり続けた石原氏にとっては、東京都知事として4選を達成しているとはいえ、結果として現在の立場は「敗北」でしかなかったのではあるまいか?
 だからこそ石原氏は「政治に吠え面かかす」と宣言し、今尚闘い続けておられるのであろう。
 故に(氏が歳老われた現在に至って尚)、国政が掲げた施策に真っ向面より抵抗する事とならざるを得なくなる。 尖閣諸島問題とてそうだ。国が買い取ると言えば、自分こそが買い取る!と言い出して抵抗する。 都民の迷惑を考慮する余裕も無く……

 
 原左都子の立場として、表題に戻ろう。

 石原慎太郎氏が「誰と争ってる?」のかに関して、上記のごとく私論を展開してきた。

 読者の皆様の応援に支えられつつ、この私がたとえ非営利であろうが数年来“辛口毒舌論評集”とも表現可能な「原左都子エッセイ集」を日々綴り自己のオピニオンをネット上に公開できている事に感謝申し上げたい思いだ。
 その根底には、 「一体誰と争ってる?」 との課題が我が脳裏に常々横たわっている事も重々認識し続けている。
 それを再認識させてもらえたのが、今回の朝日新聞「素粒子」の論評であった。

 既に人の上の立場におられる石原慎太郎氏はともかく、人間とは心理面で何かの対象と争いつつその生命を全うする存在であり続けることを余儀なくされている感覚が私にもある。
 それはこの世で成功を修めたか否かの如何にかかわらず、人それぞれの人生の経験則に基づく一種の“コンプレックス”に端を発ているのであろう事も想像がつく。

 決して人の上に立つ存在ではない原左都子のごとくの一庶民であれ、その社会心理学的側面を視野に入れつつも、今後も我が心の内面で誰か(何らかの対象物)との “争い” を全うし続けるのが、人生に於ける一つの美学なのかもしれない……