(写真は、朝日新聞5月21日付4コマ漫画 いしいひさいち氏作「ののちゃん」より転載)
いつものごとく写真が鮮明でなく見辛いため、今回の漫画登場人物のセリフを以下に紹介しよう。
ののちゃんの担任 「猫久保さん、なんかえらそうよね『読み聞かせ』って。
猫久保さん 「いえいえ、これは。」
猫久保さん 「本は自分で選んで『読み」なさいと言い『聞かせ』るんです。」
ののちゃんの担任 「『言い聞かせる』がまたえらそうだわ。」
猫久保さん 「いえいえ子供たちが選んだ本に口を出しちゃいけないと…」
猫久保さん 「自分に言い聞かせてるんです。」
校長(?) 「結局なにもしないんじゃないですか。」
早速、原左都子の私論に入ろう。
ののちゃんの担任先生(確か“藤原先生”と記憶しているが)、よくぞ言ってくれた!との思いである。
私も以前よりまったく同見解で、表題のごとく、この“教育言語”から教育者側の傲慢さを匂い取り嫌悪感すら抱かされる言葉と認識している。
この「読み聞かせ」とやらの言葉を私が意識し始めたのは我が子が幼少の頃であった。
参考のため、「読み聞かせ」の由来と歴史をウィキペディアより以下に参照してみよう。
読み聞かせ(よみきかせ)とは、主に乳幼児期から小学校年齢の子供に対して、話者がともに絵本などを見ながら音読する行為である。 1896年に巌谷小波が京都の小学校で行った口演童話(こうえんどうわ)がルーツであると言われている。 乳幼児期の情操教育・文字の習得などに効果があるとされる。 年齢が上がっても読書への導入としても有効であり、集中して話を聞く訓練にもなりうるため、小学校で読み聞かせの時間を取っている教諭も少なくない。
(以上、ウィキペディアより引用)
我が子幼少の頃より“お抱え家庭教師”として君臨し続けている原左都子にも、当然ながら娘相手に「読み聞かせ」を施した経験はある。
ただ子供とは親の背中を見ながら育つ事を実感であるが、当時より「読み聞かせ」との言葉に嫌悪感を抱きつつそれを実行する私の態度には自然と“とげとげしいもの”があったのだろうか??
結局、我が子は「読み聞かせ」を好まなかった。
いや、それは単に「読み聞かせ」た本の内容が子供の見聞きする能力レベルに釣り合っていなかったのではないのか? 等々と、世の教育者と名乗る方々からご意見が届きそうな事も重々想定内だ。 そこのところは、子供の個性を尊重し、その能力を客観的に分析評価する事に重点を置いていた私の判断には狂いはなかったと結論付ける。
あるいは親である私が義務感で「読み聞かせ」をやっていたのではないか、とのご意見もあろう。 それに関しては部分的に受け入れ可能な私だ…。
と言うのも、特に家庭内に於ける子供の教育に際しては必然的に親の興味関心が優先されるであろうし、そうであってよいと私は結論付けるのだ。
我が子の例を挙げると、実に「音楽」を好む子だった。 日常生活の中で自然に歌や踊りを楽しむ私につられ、物心ついた頃よりやはり自然と私と共に音楽を楽しむようになった。
事情を抱えて出生し、幼少期には言葉や運動能力の有意な遅れを余儀なくされていた我が子である。 そんな娘が遅ればせながら言葉を学んだのは「歌」からであり、体を動かす楽しさを知ったのも「音楽」からであったと、当時自宅内で撮影したビデオを見つつ振り返ったりもする。
例えば、我が子が1歳半の頃に母子で楽しそうに歌い踊るビデオを保存してある。(昨年、娘の成長記録ビデオをすべてDVD化した私だが) 当時まだ日常生活の中で我が子の発語がないと認識し困惑懸念していた私だが、そのビデオによると娘が歌の歌詞の一部を明瞭に発語出来ていることに今さらながら気付かされたりもする。
加えて(手前味噌な話で恐縮だが)、我が子には「絶対音感」がある事を幼少の頃ピアノを習っていた時に教師より指摘された(それ以前より私自身も気付いていた)のだが、これに関しても1歳半頃のビデオで既にその片鱗を見ることが出来るのだ。
今回のテーマである「読み聞かせ」に話を戻すと、我が子がそれに興味を示さない現実を鑑み、“お抱え家庭教師”である私は娘に無理強いすることをあえて避けて来た。
先人達に学んで“良かれ”と親が欲する教育行為が、むしろ我が子の長き将来に渡る成長にとってマイナスとなる弊害もある事実に思いを馳せ、それを避けたいと志した故である。
「読み聞かせ」の教育上の有効性とは上記ウィキペディアの記述にもあるように、子供自身に今後「読書」に接する機会を与える一つのきっかけを作ることにあるのだろう。
そういう趣旨であるならば尚更、何も子育てが大変な幼少の時期に親自身が義務感で苛々しつつそれをこなさずとて、他に有効な手段は豊富に存在すると捉えたのだ。
例えば原左都子自身は独身時代より新聞を読むことを好み、時間が取れる限り日々それに時間を割きつつ我が時事問題に関する批判精神を育成してきている。 この世に生まれ出てまもなくそんな母の姿を見て育つ娘も、いずれは自然と新聞等メディアよりの社会現象報道に興味関心を持つであろうと期待したりもした。 事実、我が娘にその一面が育っていることに関しては最近本エッセイ集にて紹介したばかりだ。
しかも、上記漫画に登場した猫久保さんがおっしゃる通り、将来的に子供が興味を持つ分野は多種多様であってよいのは当たり前で、子供自身が何を選んで読書してもよいはずだ。
もう1年半前頃であろうか、滅多に医療機関を訪れない私が個人医院を受診したことがある。
その時、その狭い待合室で絵本の「読み聞かせ」をしている母子に遭遇した。
最初は、確かにこういう場に於いて幼少の子供を静かにさせる手段として、待合室に置かれている絵本を有効利用する手もあろうと感じた。 ところが、子供が母親の「読み聞かせ」に退屈している姿が歴然である! それでも母親は読む声を荒げてまでそれを続行しようとしている…。 こうなると、その母親の読む声自体が他の患者さん達に大いなる迷惑となるのは当然だ。
それも承知の上で、現在教育界が推奨している「読み聞かせ」行為ならば世に受け入れられるとの待合室での母親の判断だったのかもしれない、と悲しくも推測した私である…。
公共の場に於いての「読み聞かせ」とは実に難儀なことを思い知らされた情景だった。
むしろ、昔のように小さい子供が医院の待合室で暴れる方が自然体として周囲に許容されると思ったりもするのだが、如何なものか?
今回の「原左都子エッセイ集」記事の結論に入ろう。
子供達に「読書」を奨励する趣旨で「読み聞かせ」との言葉を提唱した教育界の思いも少しは理解可能な原左都子である。
ところがもしかしたら、先人達は「読書」の奨励の仕方を大いに誤ったのではなかろうか??
ここは上記写真の いしいひさいち氏作「ののちゃん」を引用させて頂きつつその結論を導こう。
「読み聞かせ」との言葉は、教育者側が“えらそう”な立場から子供を指導せんとしている印象でしかない。
子供の教育とは、あくまでも子供を主体として成り立ってゆくものであろう。
その原点を大人がわきまえられたならば、「読み聞かせ」などとの“命令的”かつ“自己勝者的”な言葉を可愛い子供達に対して発する必要もないであろうに……
今後子供達に本気で読書を奨励したいのであれば、その言葉を選び直す事から再出発するべきとの思いでこの記事を綴った原左都子である。
いつものごとく写真が鮮明でなく見辛いため、今回の漫画登場人物のセリフを以下に紹介しよう。
ののちゃんの担任 「猫久保さん、なんかえらそうよね『読み聞かせ』って。
猫久保さん 「いえいえ、これは。」
猫久保さん 「本は自分で選んで『読み」なさいと言い『聞かせ』るんです。」
ののちゃんの担任 「『言い聞かせる』がまたえらそうだわ。」
猫久保さん 「いえいえ子供たちが選んだ本に口を出しちゃいけないと…」
猫久保さん 「自分に言い聞かせてるんです。」
校長(?) 「結局なにもしないんじゃないですか。」
早速、原左都子の私論に入ろう。
ののちゃんの担任先生(確か“藤原先生”と記憶しているが)、よくぞ言ってくれた!との思いである。
私も以前よりまったく同見解で、表題のごとく、この“教育言語”から教育者側の傲慢さを匂い取り嫌悪感すら抱かされる言葉と認識している。
この「読み聞かせ」とやらの言葉を私が意識し始めたのは我が子が幼少の頃であった。
参考のため、「読み聞かせ」の由来と歴史をウィキペディアより以下に参照してみよう。
読み聞かせ(よみきかせ)とは、主に乳幼児期から小学校年齢の子供に対して、話者がともに絵本などを見ながら音読する行為である。 1896年に巌谷小波が京都の小学校で行った口演童話(こうえんどうわ)がルーツであると言われている。 乳幼児期の情操教育・文字の習得などに効果があるとされる。 年齢が上がっても読書への導入としても有効であり、集中して話を聞く訓練にもなりうるため、小学校で読み聞かせの時間を取っている教諭も少なくない。
(以上、ウィキペディアより引用)
我が子幼少の頃より“お抱え家庭教師”として君臨し続けている原左都子にも、当然ながら娘相手に「読み聞かせ」を施した経験はある。
ただ子供とは親の背中を見ながら育つ事を実感であるが、当時より「読み聞かせ」との言葉に嫌悪感を抱きつつそれを実行する私の態度には自然と“とげとげしいもの”があったのだろうか??
結局、我が子は「読み聞かせ」を好まなかった。
いや、それは単に「読み聞かせ」た本の内容が子供の見聞きする能力レベルに釣り合っていなかったのではないのか? 等々と、世の教育者と名乗る方々からご意見が届きそうな事も重々想定内だ。 そこのところは、子供の個性を尊重し、その能力を客観的に分析評価する事に重点を置いていた私の判断には狂いはなかったと結論付ける。
あるいは親である私が義務感で「読み聞かせ」をやっていたのではないか、とのご意見もあろう。 それに関しては部分的に受け入れ可能な私だ…。
と言うのも、特に家庭内に於ける子供の教育に際しては必然的に親の興味関心が優先されるであろうし、そうであってよいと私は結論付けるのだ。
我が子の例を挙げると、実に「音楽」を好む子だった。 日常生活の中で自然に歌や踊りを楽しむ私につられ、物心ついた頃よりやはり自然と私と共に音楽を楽しむようになった。
事情を抱えて出生し、幼少期には言葉や運動能力の有意な遅れを余儀なくされていた我が子である。 そんな娘が遅ればせながら言葉を学んだのは「歌」からであり、体を動かす楽しさを知ったのも「音楽」からであったと、当時自宅内で撮影したビデオを見つつ振り返ったりもする。
例えば、我が子が1歳半の頃に母子で楽しそうに歌い踊るビデオを保存してある。(昨年、娘の成長記録ビデオをすべてDVD化した私だが) 当時まだ日常生活の中で我が子の発語がないと認識し困惑懸念していた私だが、そのビデオによると娘が歌の歌詞の一部を明瞭に発語出来ていることに今さらながら気付かされたりもする。
加えて(手前味噌な話で恐縮だが)、我が子には「絶対音感」がある事を幼少の頃ピアノを習っていた時に教師より指摘された(それ以前より私自身も気付いていた)のだが、これに関しても1歳半頃のビデオで既にその片鱗を見ることが出来るのだ。
今回のテーマである「読み聞かせ」に話を戻すと、我が子がそれに興味を示さない現実を鑑み、“お抱え家庭教師”である私は娘に無理強いすることをあえて避けて来た。
先人達に学んで“良かれ”と親が欲する教育行為が、むしろ我が子の長き将来に渡る成長にとってマイナスとなる弊害もある事実に思いを馳せ、それを避けたいと志した故である。
「読み聞かせ」の教育上の有効性とは上記ウィキペディアの記述にもあるように、子供自身に今後「読書」に接する機会を与える一つのきっかけを作ることにあるのだろう。
そういう趣旨であるならば尚更、何も子育てが大変な幼少の時期に親自身が義務感で苛々しつつそれをこなさずとて、他に有効な手段は豊富に存在すると捉えたのだ。
例えば原左都子自身は独身時代より新聞を読むことを好み、時間が取れる限り日々それに時間を割きつつ我が時事問題に関する批判精神を育成してきている。 この世に生まれ出てまもなくそんな母の姿を見て育つ娘も、いずれは自然と新聞等メディアよりの社会現象報道に興味関心を持つであろうと期待したりもした。 事実、我が娘にその一面が育っていることに関しては最近本エッセイ集にて紹介したばかりだ。
しかも、上記漫画に登場した猫久保さんがおっしゃる通り、将来的に子供が興味を持つ分野は多種多様であってよいのは当たり前で、子供自身が何を選んで読書してもよいはずだ。
もう1年半前頃であろうか、滅多に医療機関を訪れない私が個人医院を受診したことがある。
その時、その狭い待合室で絵本の「読み聞かせ」をしている母子に遭遇した。
最初は、確かにこういう場に於いて幼少の子供を静かにさせる手段として、待合室に置かれている絵本を有効利用する手もあろうと感じた。 ところが、子供が母親の「読み聞かせ」に退屈している姿が歴然である! それでも母親は読む声を荒げてまでそれを続行しようとしている…。 こうなると、その母親の読む声自体が他の患者さん達に大いなる迷惑となるのは当然だ。
それも承知の上で、現在教育界が推奨している「読み聞かせ」行為ならば世に受け入れられるとの待合室での母親の判断だったのかもしれない、と悲しくも推測した私である…。
公共の場に於いての「読み聞かせ」とは実に難儀なことを思い知らされた情景だった。
むしろ、昔のように小さい子供が医院の待合室で暴れる方が自然体として周囲に許容されると思ったりもするのだが、如何なものか?
今回の「原左都子エッセイ集」記事の結論に入ろう。
子供達に「読書」を奨励する趣旨で「読み聞かせ」との言葉を提唱した教育界の思いも少しは理解可能な原左都子である。
ところがもしかしたら、先人達は「読書」の奨励の仕方を大いに誤ったのではなかろうか??
ここは上記写真の いしいひさいち氏作「ののちゃん」を引用させて頂きつつその結論を導こう。
「読み聞かせ」との言葉は、教育者側が“えらそう”な立場から子供を指導せんとしている印象でしかない。
子供の教育とは、あくまでも子供を主体として成り立ってゆくものであろう。
その原点を大人がわきまえられたならば、「読み聞かせ」などとの“命令的”かつ“自己勝者的”な言葉を可愛い子供達に対して発する必要もないであろうに……
今後子供達に本気で読書を奨励したいのであれば、その言葉を選び直す事から再出発するべきとの思いでこの記事を綴った原左都子である。