原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

健常者と障害者との線引きが困難な時代

2016年11月26日 | 時事論評
 昨日11月25日朝日新聞夕刊一面トップ記事は、「やまゆり園の対応『不十分』」 だった。

 冒頭より、当該記事の一部を要約して紹介しよう。
 相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で入居者19人が殺害された事件を受け、神奈川県が設置した第三者委員会が25日、知事宛に報告書を提出した。
 利用者に危害が及ぶ恐れを事件前に認識しながら県に報告しないなど、対応が不十分だったと結論付けた。


 少し前のネット情報に、衆院議員・野田聖子氏が語る「障害児の息子がくれたもの」と題する記事内にも、当該事件に関する野田氏のコメントが公開されていたため、次にその内容のごく一部を紹介しよう。
 
 障害をかかえる息子、真輝くんを育てる野田聖子さん。 日々子育てをしながら、また相模原事件を受け、何を思ったか。 母親として国会議員として今の社会に伝えたいことを聞いた。
 今年7月、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で元職員、植松聖容疑者(26)が入所者19人を殺害する事件があった。 容疑者は逮捕後の取り調べでも一貫して「障害者は不要な存在」と主張し、ネットではその主張に共感する書き込みも見られる。
 野田氏曰く、「私はこの事件に驚きませんでした。こういう事件がいつか起きるんじゃないかという思いがずっとありましたから。」 「(息子の)真輝が生まれてから、障害者を嫌悪する社会の空気をずいぶん吸い込んできたので、今回の事件は、単に用意されていた導火線に火が付いただけなんだと感じたんです。」
 「最初に感じたのは息子に対し『かわいそう』って言われたとき。 自然に出てくる言葉で悪意はないんだけど、かわいそうという言葉は上から目線だし、言われた瞬間、排除される感じがした。 そこには障害者に対する不要感が漂っている。 悪気がないだけ社会のスタンダードなんだと感じました。」
 「障害者=不幸、と思っている人は多い。」「社会には、障害者は役立たずで国に負荷をかけている、と考える人がいますが、息子が今後どう社会に貢献するかわからないじゃないですか。」
 植松容疑者も「障害者は生きていてもしょうがない」と話した事に関して、
 「いつか起きると思っていた」「医療が発達してこれまで助からなかった赤ちゃんも助かるようになり、医療的ケア児は増えていたんだけど、肝心の社会基盤を支える法律の中で存在が認められていなかった。だから問題が次々起きた。」 
 そして、「“健常”っていう言葉をなくしたい。健常者の定義なんてないでしょ。健常と障害の境目なんてどこにあるのか誰にもわからないし、健常者って正直、幻だと思います。 年を取れば誰もが障害者になる可能性があるんですから。」 
 (以上ネット情報 ※AERA 2016年11月7日号  より一部を引用したもの。)


 ここで参考だが、原左都子は衆院議員野田氏が50歳との高齢にして自然分娩とはかけ離れた手段にて子どもを産もうと志し、それを実行した事実を肯定的に捉えていない立場である事を明言しておく。
 2010.11.09バックナンバー「野田聖子さん、生まれて来る子どもの人権に思いが及んでいますか?」 と題する我がエッセイには、今尚多くのアクセスが届いている。

 その上で、上記に紹介した野田氏の談話内容には同意する私だ。
 と言うよりも、私自身も我が子を育てる過程で野田氏が経験したのと同類の感情を抱いた立場だ。

 バックナンバーでも我が娘に関するその事例を複数紹介して来ている。
 その中で、今思い出す事例を反復するなら……

 我が娘の場合、一見普通の子に見えるため、野田氏とは対極の苦労があった。
 「かわいそう」と言われるどころか、「この子は普通の子ですよ。お母さんが勘違いしているだけです」と地元教委の指導者から言われてしまえば、もはや学校等公共機関内での我が子の成長・発展が見込めない。 元々、医学・教育学経験がある母の私がサリバンとして精進するべく志していた我が家に於いては、今になって思えばむしろ公的機関からさほどの害を受けずに済んだ事を喜ぶべきかもしれない。

 相模原事件に関しては、この世の障害者に対する認識の未成熟さを思うと、野田氏同様にいつかは必然的に起るであろうと私も予想していたとも言えよう。

 「“健常”っていう言葉をなくしたい。健常者の定義なんてないでしょ。健常と障害の境目なんてどこにあるのか誰にもわからないし…」なる野田氏の発言には、100%同感の私だ。
 我が子が小学校低学年時代に学校で“いじめ”に遭った時に、それを最初に実感させられた。
 いじめ被害児の母であるサリバンの私が即刻学校に我が子が受けたいじめを訴え出て、それに学校側もすぐさま対応してくれ何とかその状況から逃れる事が叶ったのだが…
 その時に被害者の立場で感じたのは、加害者(要するにいじめた側の子供)こそが大きな問題を抱えているとの事実だ。  例えば、加害者児童の親が離再婚を繰り返していたり、宗教活動に精を出して不在だったり…  その状況下に育っている幼き児童が、健常に暮らせる訳もないだろう。 そのストレスの鉾先を“弱き存在の”我が娘にぶつけたのだろう。

 話題が大幅にズレるが、医学関係者である私は、医療検査目的の結果診断に於いて、昔は「正常値」「異常値」なる表現が普通に使用されていた事実にも大いなる反発心を抱いていた。
 そもそも、医学検査に於いて何が診断されると医療界は勘違いしておごっているのか?! 人体(他の生命体もすべて含めて)とはそもそも不可思議な存在だ。 数値のみの上下限を勝手な尺度で測り、「あなたは正常」 「あなたは異常だから再検査!」と単純に線引きするその行為が、どれだけ善良な庶民を不安に陥れている事だろう。


 最後に、私論でまとめよう。

 相模原事件に関して再度言うならば、一体誰が「真の」障害者であるのかを私が結論付けるまでもなかろう。
 確かに、植松容疑者と同様の思想を持つ市民が少なくない事実を私も脳裏で捉えている。 ただし、それを実行に移すのか、単に思想として抱くのかの間には明らかな隔たりがあろう事実もわきまえている。 
 植松容疑者の場合、それを実際この世で実行に移してしまったとの事実を鑑みるに、そもそも何らかの精神異常DNA素質を抱えているのであろうし、悲しいかな、これぞ典型的な「障害者」であると結論付けられそうだ。

 そうなると、「真正障害者」対策を如何に施すかが今後の我が国や自治体の課題となろう。

 議論が飛ぶことは承知だが、我が娘幼き頃に娘に対して“いじめ”を施した加害者児童達のフォローを周囲の大人達がおろそかにしたり誤った対応を取ると、その児童達が将来的に危険性を伴った「真正障害者」に成り下がる恐れが否めないのではないのかと、想像したりもする。
 
 原左都子の結論としては、障害者対策よりも国家や自治体が優先して実施するべきは、「障害者排除思想」撲滅対策ではあるまいか。